作戦6:診断書(6)
結婚式を挙げた、帝都一の大聖堂。その裏手にある教会本部へ馬車で乗り付けた。
正門ではなく日陰となっている北門を抜け、皇太子夫妻が使うには質素過ぎる扉の前で降りる。
昼の暖かさなど、晴れた空に吸い込まれてしまったのだろうか。
日向でさえ寒いのに、日陰となれば尚更だ。キンッと冷えた空気が、乾燥した頰を撫でる。あまりの冷たさに、鼻先が痛むような感覚までした。
逃げるように建物の中へ入る。けれど、寒さは然程変わらなかった。
外衣を羽織ったままという訳にもいかず、ゾーイに外される。扉から流れる僅かな風に震えた。
こんな事なら、もう一枚着てくるべきだった。そう思ったのと同時、厚手のストールが肩にかけられる。
「あら、ありがとう」
「お礼ならサミュエル殿下に」
結び目を美しく整え、ゾーイが下がった。彼女が自発的に用意したものではないらしい。
「……ありがとうございます、サミュエル様」
「まだ寒いだろう」
腰を引かれ、サミュエルに寄り添う形にされた。確かにこの方が温かい。
けれど、これから離婚申し立てをするには……似つかわしくない体勢な気がする。
「サミュエル皇太子殿下、ならびにエレノア妃殿下、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
白い髭をたくわえた司教が挨拶し、案内を始める。
私達が密着してる事など、誰も気に止めていない。気にし過ぎなのだろうか。
通されたのはとても小さな部屋で、窓が一つと細長い教卓が一つあるだけだった。司教と私達夫婦、近衛騎士2人が入れば、あとはスペースが無い。
他の者は廊下に残し、扉を閉めた。
「本日は、婚姻に係る申し立てをされると伺っております。相違ありませんか」
司教が用件の確認をする。
本来は夫が答える所だけれど……サミュエルにその様子は無い。まるでやり取りに無関係かのように、司教が背にする窓を眺めていた。
「はい。相違ありません」
代わりに答え、書類を教卓へ並べる。サミュエルのサインが無い以外は不備なく揃ってるはずだ。共に申し立てを行なってる旨、司教が確認しサインすれば、離婚が成立する。
司教が懐から拡大鏡を取り出し、書面をなぞり始めた。小さく深呼吸し、その様子を見守る。
……さすがに、夫婦でなくなる時点でこれだけ近いのは問題だろう。
そっと距離を取ろうとする。けれどサミュエルが手を離さず、むしろより引き寄せられてしまった。目で抗議するも、悪戯っぽく微笑み返される。
離れがたい温もりと、昔から変わらず人を惹きつける笑みに、顔が歪みそうになる。彼を見ないよう、ぷいと目を背けた。
はやく終わらせようと、そう言ったじゃないか。なのに協力は最低限で、こんな風に私を翻弄して……何が楽しいのか。
人の悪さもここまでとは、10年連れ添って初めて知った。
……もし、これからも一緒にいられたなら、まだまだ知らない面が見えてくるのだろうか。
ギッと奥歯を噛み締める。思考が良くない方へ傾いた。
無心になろうと決め、司教の手元をただ見つめる。
ゆっくり動かされていた拡大鏡が止まり、コトリと卓上に置かれた。
綺麗に束ね、ひとつ息をつく。
「…………」
しばらく待っても、司教が何も言葉を発しない。不審に思い、視線を手元から顔へ移す。
彼は緊張の面持ちで書類を見つめていた。
……何だろう。
ふと顔を上げた司教と目が合う。咳払いして仕切り直された。
「拝見させて頂きました。こちらはお返しします」
束ねた書類一式を差し出される。つまり、渡したもの全てだ。
今までの人生で離婚申し立てをした経験など無い。けれど、提出したものを全て返されるのが、普通じゃないという事くらい分かる。
戸惑い、受け取れずにいると、言葉を付け足された。
「この度の申し立ては、承認できかねます」
スンと鼻が鳴る。
差し出された書類を受け取り、指を沿わせ、内容に目を通す。……やはり不備はない。
「理由をお伺いしても?」
「はい」
司教が手を伸ばし、ある記載部分を指差した。
「この離婚理由は、教会が認める事由にあたりません」
離婚理由、つまり、子を成せないこと。
……元々、不妊による離婚を教会は認めていなかった。しかし、皇太子妃の不妊が問題視された際、皇帝と皇太子は例外的に認められる事となったはずだ。
それを……覆した?
「認可基準を改められたのでしょうか」
微笑みながら、けれど冷ややかな視線を送った。
そんな帝位継承にも関わる重大な変更、皇室や議会に何の話も通さず決めたとは言わせない。
皇太子妃として、国内外の動きは把握している。間違いなく、どこにも話が来ていない。
「改めておりません。これまでも、これからも、不妊は離婚理由として認められません」
司教がはっきりと言い放つ。
……そんな筈はない。
「亡きブレイデン皇帝陛下が皇太子であった折、これを理由に離婚が成立しています」
冷え込む部屋の中、司教の額に一筋、汗が流れた。
こう言い返される事など分かっていただろうに、閉口し、何かを確認するようにサミュエルを見た。釣られて私も目を向ける。
我関せずといった態度を貫いていたサミュエルが、口を開いた。
「聞き方を変えよう」
私を一瞥した後、司教へと向き直る。
「皇室の記録によれば、ブレイデン皇太子の離婚は妃が子を成さない事に起因すると、そう残されている。教会の記録ではどうだ」
「……教会の記録によれば、殿下の離婚は不貞行為、ならびに配慮すべき特段の事情によるものとされています」
司教は拳を握り、覚悟を決めたような顔で答えた。
「特段の事情、それが妃の不妊ではないのかしら」
当然の疑問を口にし、しかし首を振って否定される。
「いいえ。皇太子殿下が…………妃殿下を斬りつけた事によるものです」
……何を言っているの?
ともすれば不敬罪で捕らえられるような事を……口にしたのだろうか。
「無礼を承知で、もう一度お伺いします。特段の事情とは……何だと仰いましたか」
「皇太子殿下が妃殿下を斬りつけた事と、そう申し上げました」
今度は淀みなく、毅然とした態度で答えられる。
混乱しそうだ。必死に頭を回転させ、話を整理する。ブレイデン皇太子の離婚理由は、不貞行為と妃殿下を斬りつけた事……。
ブレイデン陛下は二代前の皇帝だ。彼が皇太子だった頃とは、すなわち三代前の皇帝陛下が統治していた時代。
ちょうど……姦通罪に関わる法が改められた時だ。
以前は男女間に格差が大きく、妻が不貞を行えば死罪と決まっていた。現場に夫が居合わせたなら、即処刑する事さえ合法。
法が変わっても、人々の意識はすぐには変わらない。もし、皇太子までもが前法に従い、妃を斬りつけたとしたら……?
皇室は全力でもって、もみ消しただろう。
落とし穴に落とされたようだ。考えの大前提に置いていた物が、ガラガラと、音を立てて崩れて行く。
「どうやら、皇室と教会とで、当時の見解に隔たりがあるようだな」
「はい。調査委員会の設置をご提案します」
「双方同数の委員を選出し、調査に当たらせよう。詳細は追って連絡する」
サミュエルと司教が、予め決めていたかのように今後の予定を組み立てる。
その様子が、調査など予定調和に終わると物語っていた。
この離婚は認められない。
サミュエルは…………私と別れられない?
入ってきた時と同じように、腰を引かれて部屋を出る。
廊下で待機していた者達が驚き目を丸くする中、それを気にも止めずサミュエルは歩を進めた。
なぜ彼はこんなにも平然としているのか。司教と通じている風なのか。
サミュエルが教会と接触してないかは、諜報員に調べさせていた。少なくとも私が修道院から出て以降、連絡など取っていなかったはずだ。
フォレステン侯爵家の諜報員は決して無能ではない。誤った情報を伝える失態は無いと思って良い。
となると、通じていたのは……もっと前から?
私の視線を感じたのか、サミュエルがこちらを見下ろす。
きっと、信じられないと顔に書いてあったのだろう。面白がるように笑った。
「君が別れる事を望んでも、それを叶えるとは言っていない」
魅了の魔法でも掛かってるかのような笑みだ。
眉を寄せ、俯く。
流されてはダメ。そう思い立ち止まろうとするも、やはり器用に引かれて上手くいかない。
連れられるまま、外へ出てしまった。
待機していた馬車は二台。皇室専用の馬車とフォレステン侯爵家の馬車だ。
当たり前のように、サミュエルと同じ馬車へ乗せられそうになる。
「ま、待って……!」
今度こそ立ち止まり、サミュエルから身体を離した。
冷たい風が吹き抜ける。けれど、頭を冴えさせてはくれなかった。
どうすれば良いの?
このままでは、本当に離縁する手立てが無くなる。
教会に戻る?
戻って、何が出来るというのだろう。頑なに申し立てを退ける司教の頭を、縦に振らせる策は無い。
侯爵家の馬車に乗る?
別離の準備は整えられている。何ならそのまま修道院に逃げ込んで、離縁を図っても良い。
……ここまで邪魔を続けたサミュエルが、この馬車に何の手も打ってないなど、あるだろうか。
焦って考えが纏まらない。
今、ジタバタしても仕方ないのだろうか。全ては一旦横へ置いて、サミュエルと共に帰城する?
想像して、震えた。
数多の誘惑に抗いながら、やっと今日ここまで来た。またあの場所へ戻って、毎日のように甘い蜜を与えられて、私は私を保てるのだろうか。サミュエルのために……離縁を目指せるのか。
「難しく考えるな」
寒空の下、動かない私を辛抱強く待っていたサミュエルが、幼子へするように優しく頭を撫でた。
「エレノア、君は俺の何だ?」
突然の問いかけに、何と答えるべきか逡巡する。
けれどゆっくりと、確かに口は動いた。
「サミュエル様の…………妻です」
もうずっと、他の答えを持っていない。だから、頭で結論を出すより先に言葉が出てきてしまった。
「それでいい」
よく出来たと言わんばかりに、額へキスを落とされる。
妻なのだから帰城する夫と共にいろと言外に告げられ、同じ馬車へ乗せられた。




