作戦6:診断書(5)
物が減ってガランとした部屋に、オルゴールの音が響く。乾いた空気を強調して聞こえた。
折りたたまれた紙を開き、サミュエルの動向を記した調書に目を通す。
何も……不審な点は無い。
息をつき、椅子の背もたれに寄りかかる。
今日教会へ行き、直接申し立てを行う。それで……全て終わりだ。
窓の向こうには雲一つない空が見えた。綺麗に片付けられた机に、太陽光が反射して眩しい。
「…………良い天気」
自分でも驚くほど、弱々しい声が出た。
ゆるく首を振って立ち上がり、暖炉に調書をくべる。
タイミング良く、隣の部屋からノックされた。
「……エレノア様」
ゾーイが私の名前を呼び、そこで止まってしまう。いつもなら “お時間です” と続けるのだけれど、今日はそれが躊躇われたようだ。
退室しようと扉へ寄り……振り返って、最後に部屋を見渡す。
あまり無いと思っていた私物も、10年という年月で殊のほか増えていたらしい。それが無くなると、皇太子妃の私室は少し広く見えた。
これからは、次に使う妃の色に染まる。
小さく深呼吸した。手に馴染むノブを捻り、部屋を出る。
隣では支度を整えた侍女と、サミュエルが待っていた。申立書にサインしない代わり、教会へは同行してくれるという。
「お待たせしました」
目を伏せたままのゾーイにオルゴールを渡し、サミュエルと相対する。
あまり時間が無いからか、侍女等は先に部屋を出た。
「気持ちは変わらないか」
ソファに座っていた彼が立ち上がり、手にしていた一本の白バラを差し出す。
反対の手を私の耳の後ろへ添え、額、瞼、唇と、流れるように口付けされる。
「ん…」
いつもと違って短いキスで、不覚にも、離れるのを惜しいと感じてしまった。
物欲しそうな目をしないよう、視線を落とす。差し出されていた花を受け取った。
気持ちが変わる、とは何を指してるのだろう。
離婚をやめたくなったか聞いている?
それとも、これからもサミュエルを想い続けるか聞いている?
いずれにせよ、答えは同じだ。
「はい、変わりません」
バラの香りが鼻先をかすめる。
白バラ……私の誕生花だから、はなむけに選んだのだろう。けれど、いま最も私達に似合わない花かも知れない。
花言葉は、私はあなたにふさわしい。
一本だけなら、あなたしかいない、という意味も持つ。
サミュエルが私に贈っても、私が彼に贈っても、何だかチグハグな印象だ。
俯いて花を眺めていると、そっと顎に指を添えられた。上を向かせられ、誤って彼の瞳を見てしまう。
射貫くような鋭い視線に、心臓が音を立てた。
「君が別れたくないと願えば、俺がそれを叶えよう」
ヒュッと喉が鳴る。
身体を大きく揺さぶられるような、目の前が暗くなるような、海底に突き落とされたような、様々な錯覚が同時に訪れた。
「ぁ………」
息苦しい。上手く言葉が出てこない。
口を開けては閉めてを繰り返す。
今さら離婚を取り止めるなんて、簡単じゃない。回り始めた車輪は、もう私でさえ止められないのだから。
仮に無理やり事を引っくり返せば、周囲との摩擦は避けられない。サミュエルの皇太子としての地位まで危うくなるだろう。
そんなの、絶対にダメだ。
そもそも、私と一緒にいる事は彼の為にならない。
なのに……何故この口はそう答えてくれない?
まさか私欲に溺れ、サミュエルを陥れるつもりか。それで、平然と彼の隣に立つ……?
―― パキンッ……
突如近くで鳴った音に、手元を見る。バラが折れていた。知らず、強く握りしめていたらしい。
「っ、申し訳ありません。これに深い意味は無く……!」
頑なに言葉を紡がなかった口が、急に動き出す。
折れた白バラは、純潔を失い死を望むという意味を持つ。これではあらぬ誤解を生んでしまう。
「慌てるな」
サミュエルが私からバラを取り上げ、折れた枝をちぎり捨てる。すると短く装飾も無い、けれどただの一本のバラに戻った。
息をつくのと同時、扉がノックされる。
今度は名前さえ呼ばれなかった。扉の向こうで眉尻を下げるゾーイの顔が思い浮かぶ。
もう、出なければならない時間だ。
サミュエルがため息をこぼした。
「行くか」
「……はい」
差し出された手を取る。波立った心が幾分か落ち着き、何でもない風を装えた。
「行って、はやく終わらせよう」
ジリッと、不快感が湧く。
胸が火に炙られてるような感覚の中、それは微塵も見せず微笑んだ。




