作戦6:診断書(2)
「君は、得る物より失う物の方が多いだろう」
声をかけられ、歩きながら隣を見上げる。サミュエルは前を向いたまま、感情の読めない声で続けた。
「今はまだ、引き返す事もできる」
「……これ以上、先延ばしには出来ません」
この関係をずるずる続ければ、いらぬリスクを負うだけだ。仮に明日、サミュエルが事故にでも遭えば、私は10年を悔いても悔やみきれないだろう。
確かに、私自身に益は少ない。けれど、サミュエルを思えば当然の決断だ。
「そんなに俺と別れたいか」
「はい」
大扉の前で立ち止まった。
玉座の間、ここで皇帝陛下に診断書を提出し報告を行う。終わればすぐ、今まで噂に過ぎなかったものが、事実として世間に知れ渡るだろう。
「申立書にサインを頂けるなら、引き返します」
不妊が10年も続いている。それだけで皇太子の離婚理由には十分だ。申立書にサインしてくれるなら、不妊原因は曖昧のまま別れられる。
だというのに、彼は相変わらずサインに応じない。だからこそ、診断書を陛下や教会に提出し、離婚申し立てせざるを得ない状況にする。
この謁見に同行するくらいなら、申立書にサインして欲しい。そうしないのが不可解だ。
サミュエルが視線で指示し、陛下に来訪が伝えられる。ややあって、両開きの扉が開かれた。
玉座に陛下のお姿を認め、部屋の中央まで進む。息のあった流れる動作で、二人、跪き礼をした。
こうして二人で謁見の形を取るのは、もしかすると婚約の時以来かも知れない。通常なら、次は懐妊報告だったはずだ。
全く逆の内容が書かれた書類を侍従へ渡す。併せて、形式に則りサミュエルが口頭でも報告をした。
陛下が、サミュエルと同じ色彩の瞳で私達を交互に見やる。
よく似た親子だ。容姿はサミュエルが歳を重ねた姿を思わせる。私の父が心酔する政治手腕を持ち、一方で懐へ入れた者には甘い面もある。責務を果たさない私でさえ、実の娘のように可愛がってくれた。
違うのは、陛下は子宝に恵まれてるという点だ。皇后との間に二人の男児と三人の姫を儲けている。
「他に、やりようは無かったのか」
陛下が尋ねながら、憐憫の目を向けた。心から、私の今後を憂いてくれている。
ただただ、申し訳ない。私には、陛下にこんな情を持ってもらう資格など無い。
やはり、この結婚自体が間違っていた。そもそも、皇室に利益の少ない婚姻だったというのに、子も成せないのでは話にならない。
何も言えず、より深く頭を下げた。
キュッと、手を握られる。元よりエスコートの為に取られていた手だ。引かれ、立ち上がらされる。
陛下の許可を得て、その手が私を部屋の外へ連れ出した。
騎士が立ち並ぶ廊下を抜け、皇族の居住域へ戻り、広大な庭園を一望できるバルコニーまで出てきた。
冷たい風が吹き抜け、促されるように詰めていた息を吐く。昼間だというのに白く染まり、すぐ消えた。
「寒いか」
サミュエルが肩を抱く。染み付いた習慣で、身を寄せてしまった。
……この温もりも、じきに誰か他の人の物となる。胸がじくじくと痛み、目を伏せた。
「泣きたいなら、泣いても良い」
これも染み付いた習慣か、当たり前のように髪を撫でられる。それを振り払うように身体を離した。
「ご冗談を」
泣く理由なんて無い。
不甲斐ない自分を情けなく思う。憐れまれる悲しさと悔しさ、未来の妃に対する嫉妬もある。けれど、泣いてどうする。
必要なのは割り切ること。泣いて彼を困らせることじゃない。
「先に戻ります」
慣れが肝要だ。
すっかりサミュエルといる事に慣れてしまった。それを打ち消して、一人でいる事に慣れれば、胸も痛まなくなる。
室内へ入ろうとして開けたガラス戸を、手で押さえられた。閉じた扉と腕の中に閉じ込められる。
「……サミュエル様」
「君は、俺の妻だろう」
「…………はい。今は」
「ならばここにいろ」
頰へ口付けされ、再び髪を撫でられた。
「…………意地が悪いです」
私の気持ちなんて分かってるだろうに、こんな事しないで欲しい。
髪がサラサラと肩口で揺れる。あっという間に伸びてしまった。断ち切ったはずの、未練もまた。
サミュエルが笑みを浮かべる。
白い息を閉じ込めるように、唇を重ねられた。




