作戦4:失踪 -市中編-(1)
サミュエルは、多くの優秀な部下を従えている。
私の可愛い弟もその一人だ。
「姉上。サミュエル殿下の手を煩わせるのは、おやめください」
夏の日差しが容赦なく照りつける中、シャツのボタンを一番上まできっちり留めた弟、シモンが言った。
畏まった場でもなく、平民を装ってるのだから襟元を緩めれば良いのに。
「何のことかしら」
橋の欄干に頬杖をつき、行き来する小舟を眺めた。
水路の上だからか涼しい。
今日はお忍びで城下へ下りている。
先日、城から出るだけで大変な思いをしたため、まずは外に出てから逃げる事にした。
失敗に学び、サミュエルやベンシード伯爵の予定は諜報員を使ってきっちり調べた。彼等の抜けられない日を選んだら、弟が来たという訳だ。
「小間使いのベンシード伯爵だけでなく、私まで遣わすとは……よっぽどのことです」
シモンが腕を組み、眼鏡の奥から責めるような視線を送ってきた。
その姿や言葉に、つい笑みが零れる。
残念ながら、伯爵は小間使いではないね、シモンちゃん。
似たような事をさせられてても、基本は右腕のような扱いだ。
それは彼も分かっている。けれど、敢えて小間使いと呼んだのだ。ポッと出の若造に立場を奪われ、悔しくて仕方ない、可愛い子。
弟はサミュエルに心酔し、彼を助けることに全霊を傾けている。皇帝陛下に対する父も似たようなものだから、遺伝だろう。
「……いらぬ事を考えてますね」
「さぁ、どうかしら」
シモンが、私の眺める水路に目をやる。
「言っておきますが、水路に飛び込んでも逃げ切れませんよ」
「私がそんな事をすると思うの?」
「いいえ、成功率の低さが見えています。しかし、ありえないとも言い切れません。……泳ぎに、自信がおありでしょう」
「ふふっ、そうね」
さすが、幼い頃から共に過ごしてきた弟。
帝都で知り合った人々は、想像もしないだろう。生まれながらの淑女といった風に振る舞う私が、田舎領地にいた頃は、野山を駆け回るお転婆だったなんて。
弟は私をよく知っている。サミュエルがシモンを寄越したのは、きっとこういった所を見込んでだ。
手の内がバレてる事は、何においても不利に働く。
けれど、相手を知ってるのは私も同じ。
弟と張り合って負けたことなんて、一度たりとも無い……!!
「成功率の低さ、検証してみましょう」
欄干に身を乗り出し、くるりと一回転した。
ドレスの裾が広がらないよう手足で押さえ、水路へ飛び降りる。ヒダの少ないエプロンドレスで良かった。
「姉上?!!」
頭上にシモンの声を聞きながら、小舟に降り立った。船体が大きく揺れる。
驚きの声をあげた水夫に向き直り、微笑む。
「少しばかり、お邪魔しますね」
用意していた小銭を取り出し、船賃として渡しておく。
ふり仰げば、シモンと近衛騎士等が両岸に散っていた。
この舟を目視で追う者と、次の船着場へ先回りする者とで別れたのだろう。
荷を覆っている布の下に隠れた。
舟が次の橋をくぐり、船体が隠れたタイミングですれ違う舟に乗り移る。
また素早く布の下に隠れ、水夫にだけ見えるよう船賃を差し出す。
蒸し暑い。外の様子は伺えないので、追っ手を撒けているかよく分からない。
こんな風に護衛から逃げるのは、子供の頃以来だ。緊張で胸がドクドク音を立てた。
少し土っぽい匂いの中で、息を潜める。
もう一度だけすれ違う舟に乗り換えた後、布から顔を出した。
風に乗った水滴が、暑さで熱を持った頰を打つ。
「なぁ、姉ちゃんは何してんだ?」
水夫が不思議そうにこちらを見ていた。
目を伏せて俯き、怯えるか弱い女性を演じる。
「しつこい男達に絡まれて……逃げています。この船を追う人影を見ましたか?」
「あぁー、あれのことか」
水夫が顎で後方を示した。シモンだ。それと、近衛騎士が一人。
「そんな事ならこれはいらねぇよ」
水夫が足元に置いていた小銭を蹴る。
元気に舟を渡っておきながら怯えた女性とは、ちょっと無理のある設定かと思っていたけれど……世の中、善良な人が多いようだ。
「こっから降りて、道なりに行けば人通りの多い街道に出る。早く帰って、旦那に守ってもらいな」
「……ありがとうございます」
左手の指輪を見たのだろう。実質その旦那から逃げてる状況とは、わざわざ訂正する必要もない。流して笑っておく。
船賃はその場に残し、教えてもらった通り、船着場ではなく一部低くなっていた岸へ降りる。
路地を進み角を曲がると、確かに街道が見えた。
髪色を隠していた帽子を外し、代わりにポケットから取り出したショールを被る。
街道へ出て、シモン等が来る前に適当な服飾店へ入った。マネキンの着ていたドレスを購入し着替え、すぐに店を出る。
これで大分、見た目の印象が変わった。
街道を外れ、再び路地へ入る。
分岐で一度止まり、物陰に隠れた。しばらく後方をうかがい見る。
追っ手は……来ていないようだ。
上手く撒けたのだろうか。
ホッと詰めていた息を吐く。
けれど、まだまだ、これからが大事だ。次は帝都から出たい。
乗合馬車を使いたい所だけれど……シモンが先回りしている可能性もある。地道に行くなら徒歩か。
物陰から出て、旅支度を整えるため市場へ向かう。
歩きながら指輪を外した。女性の独り旅は珍しいけれど、既婚者となれば尚更だ。
いっそ、男装をした方が何事もスムーズかも知れない。もう一度、服を替えるか……。
考え事をしていて、周囲へ気が向いていなかった。だから突然のことに情けない声が出る。
無骨な手に、思い切り強く肩を引かれた。