作戦3:失踪 -迷宮編-(5)
目が覚めて、最初に聞いたのは少し弱まった雨音だった。
心地よい音の中で、ベッドの天蓋をぼんやり眺める。天気のせいで薄暗くはあるものの、もう朝だと分かった。
視線を外し、すぐ近くにサミュエルの姿を見つける。隠し通路へ入る前、私が読んでいた本に目を向けていた。
昨年、国が行なった施策や議会へ上げられた法案について、フォレステン侯爵家の記録係が記したものだ。
皇太子の彼にとっては、知ってる事ばかりでつまらないだろう。
見つめられてる事に気付いたのか、目が合う。
「起きたか」
「………」
声をかけられ、自分の状況を思い出した。シーツを被り、顔を隠す。
本を閉じる音と、ため息が聞こえた。
「人を呼ぼう。待っていろ」
サミュエルが部屋を出て行き、代わりに数人の侍女が入ってきた。
まず水と薬を貰う。体調はもう悪くないと感じていたけれど、一応飲んでおいた。
身体を拭き清めてもらった後、シーツを替えるため一旦ソファへ移る。
大きめの毛布が目に入った。
「……昨日、サミュエル様はどちらで眠ったのかしら」
「ご想像の通りです」
ゾーイが私に薄化粧を施しながら、不機嫌な声で答えた。今回の件でまた怒らせてしまったようだ。
妃が体調を崩したなら、本来は私室のベッドで眠る。皇太子が体調を崩した場合も同様、妃の方が私室へ移る。
皇太子はいつでも寝室を使う事になっているから、他に専用のベッドは無い。
「客間を使うという手もあったでしょう。そもそも、私を寝室で寝かせたりしなければ……」
「心優しい殿下はエレノア様が心配で、近くにいたかったのでは?」
「……ただの風邪よ」
「そのようですね。もう随分と元気そうで」
身体は丈夫な方だ。吹けば倒れるような令嬢とは違う。わざわざサミュエルが付き添う必要なんて無い。
ゾーイに形ばかり支えられ、ベッドへ戻る。近くで桃の甘い香りがした。
「普段元気だからこそ、弱った姿を見て不安になられたのかも知れません。頭が痛くなった時点で、大人しく寝ておくべきでしたね」
まだ私の仮病を信じてるのか。善良すぎる。
「わざわざ今日、ベッドで過ごす事になるなんて、エレノア様は……」
ゾーイが言いかけて、やめた。サミュエルが戻って来たからだ。
先ほどとは逆に、入れ替わり侍女等が出て行った。
「体調はどうだ」
「良いです」
だから、そばにいる必要はありませんよと、にっこり微笑む。
そんな私の思いを無視するように、彼は再びベッドサイドの椅子へ腰掛けた。
切り分けられた桃へフォークを刺す。
「食べられるか」
「……はい」
いつになく柔らかく微笑まれ、居たたまれなくなる。目を伏せてしまった。
口元へ寄せられたフォークは、サミュエルの意図を無視して手で受け取る。
「こんな所で油を売っていて良いのですか」
桃を口にした。
瑞々しくて甘い。痛めた喉に優しい味だ。
「今日は元より、一日空けてある」
「……そんなはずありません」
予定通りなら、今はマリチマ公爵領で大使と会談している頃だ。
「今からでも謝罪に戻られてはいかがですか。ルクセン王国の大使が帰国するまで、まだ時間があります」
「謝罪など必要ない」
サミュエルが二切れ目の桃を口元へ寄せてきた。フォークも2本目だ。
桃の盛り付けられた皿を渡してくれれば良いものを、敢えてやっている。
手でフォークを受け取った。
「大使の相手なら、代わりがやっている」
「代わり?……務まる者などいないでしょう」
相手は王女まで連れて来ているのだ。サミュエル自身が出て行かなければ、納得するはずない。
「俺より立場が下の者では、務まらんだろうな」
桃を咀嚼しながら首を傾げる。
彼は皇太子だ。並ぶ立場などない。代役が出来る人物なんて…………。
ゴクリと嚥下する。
「まさか……」
サミュエルの笑みが深くなった。
―― 皇帝陛下に代役をさせている!!
「な、なんて事をさせてるのですか……!」
「勘違いするな。父上が大使と話したがったから、代わっただけだ」
嘘だ。
今のルクセン王国に、わざわざ予定変更してまで皇帝陛下が話す事柄など何も無い。
陛下は獅子のような威厳のある方だ。けれど、家族には極めて弱い一面もある。
サミュエルが利のない縁談を遠ざけたいが為、陛下を利用したとしか思えない。
「貴方という人は……」
皇帝陛下さえも手駒のように扱うなんて。
ともすれば一部から嫌われそうな行動だというのに、彼を遠ざける者は少ない。咎めるのは、陛下に心酔している私の父くらい。不思議な人だ。
3つ目のフォークを受け取った。
「そうして、私の邪魔をしに帰ってきた訳ですか」
「随分な物言いだな」
「逃げ出すと思ったから、予定変更を内密にしていたのでしょう」
おかげで計画が狂い、まんまと捕まってしまった。風邪やベンシード伯爵など他の要因もあったけれど……サミュエルが帰ると知っていたなら、まだ隠し通路で脱出の機会を伺っていたと思う。
「それもあるが、本命はただのサプライズだ」
嫌なサプライズだ。気持ちを視線に乗せる。
サミュエルは気にした風もなく、傍らの花瓶から花を一本抜き取った。
わずかな違和感を覚える。普段、ここに花瓶は置いていない。やたら色とりどりの花が生けてあり、豪華な花束をそのまま挿したようだ。
「君は忘れていたようだがな」
彼の手にする花には、ガラス細工の蝶がリボンで留められていた。
カットの仕方か、薄暗い室内にも関わらず、そこらの宝石より煌めいて見える。
当然のようにこちらへ差し出された。
何の花かを目の前にし、彼の言わんとしている事をやっと理解する。
白いバラ。毎年贈られている、私の誕生花だ。
受け取ると、リボンを外された。ガラスの蝶はヘアアクセサリーだったのか、髪にそっと着けられる。
「エレノア、君の生まれて来てくれた日を祝おう」
口付けを落とされた。
両手が花とフォークで塞がっていて、止められない。
「っ……風邪が、うつります」
「妻の誕生日にキスをしない夫がいるか?」
そんなの掃いて捨てるほどいるだろう。
抗議の声を上げようとするも、唇で封じられる。
離された時には、無かったはずの熱が出たように、頭がぼぅっとした。
サミュエルがまた桃にフォークを刺す。
意地悪に微笑み、口元へ寄せられた。
今日は丸一日、こんな日を過ごすのか。
もう二度と風邪など引くまいと決意しながら、観念して口を開いた。