作戦3:失踪 -迷宮編-(4)
「けほっ…けほっ……こほっ」
喉元へ手を当てる。
昨日、いくら水分を取っても喉の痛みは消えなかった。むしろ強くなっている。
不調は喉だけではなく、身体全体が重く、だるい。くしゃみ、喉の痛み、咳、倦怠感……あきらかに風邪を引いている。
健康が取り柄の一つだというのに、数年ぶりの体調不良が今とは、ついていない。
またベンシード伯爵が持って来た朝食を食べているけれど、一向に減らない。食欲も失ってしまったみたいだ。
昨晩の咳を聞いていたからだろう、レモンと蜂蜜、咳止めシロップも添えてあった。
こちらはお茶と一緒に頂いておく。
睡眠薬などを混ぜられていた場合に備え、1時間ほど様子を見てから立ち上がった。
明日はもう、サミュエルの帰ってくる日だ。彼が帰ったら、脱出の難易度が一段と上がってしまう。今日こそ出て行きたい。
小部屋を出て、左右交互に灯りを向けた。
片方は3つ又、もう片方は階段を含む4つ又に分かれている。
この隠し通路、本当に複雑だ。
昨日は朝から日暮れまで道を探って歩いた。けれど分岐が多過ぎて、迷わないようにするだけで精一杯だった。
何とか知った道までは辿り着いたけれど、それで終わり。ベンシード伯爵の足音を聞き、慌てて小部屋へ戻った。
敢えて、井戸も備蓄も無い方の部屋に。
―― パシャッ
足下で、小さく水が跳ねた。濡れた靴をタオルで拭う。
今朝、伯爵が来る前に私が撒いた水だ。拭かずに歩けば足跡が残る。
この隠し通路は、入るも出るも一方通行。つまり、ベンシード伯爵もいずれかの出口から外へ出ている。
警備のいる出口から何度も出ては、何も無いはずの所から人が出てくると、騎士等に不審がられる。
もし他の出口を知っているなら、そちらから出るだろう。
伯爵の歩く様子から言って、悔しいけれど、私以上に通路の詳細を教えられている。
彼の行く道を見つけられれば、私も脱出できるという事だ。
探し始めてすぐ、足跡を見つけた。けれど数歩で消えている。きちんと気づいて水を拭き取ったのだろう。
まぁ良い。これは本命を隠すフェイクだ。
その方向の床にランプを寄せた。
何も無いように見える床、隅々まで確認しながら進む。
「けほっ……ん゛、んんっ」
やはり喉が痛い。鼻も出てきたので、ハンカチで拭う。
あまり薬が効いてないのか、それ以上に体調が悪いのか。……こんな所にいたら、良くなるものも良くならないか。
咳き込みながら目を凝らす。
……見つけた!
ごつごつした床石の窪みに隠れたそれを見つけ、口元が弧を描いた。
今朝、水を撒いた床の上にバスケットを置き、口頭でベンシード伯爵に持ち帰るよう伝えた。
バスケットには、ぐっしょり濡らしたテーブルクロスを忍ばせておいた。中からゆっくり水が滴る仕掛けだ。
伯爵が持ち上げた時、底が濡れていても撒かれた水のせいと思ってくれただろう。
通路には水滴がぽつぽつと続いていた。
これを辿れば、外へ出られる!
簡単に失ってしまいそうな、小さな手がかり。ランプを床近くに下げ、見失わないよう注意しながら進んだ。自然と歩みは遅くなる。
「けほけほっ……ごほっ」
どうもおかしい。
途中で伯爵が気づいたのか、水滴は出口へ着く前に無くなっていた。
けれど、それもかなり進んだ後の事だった。出口は近いはずだ。なのに、一向に見つからない。
「げほっ…ぐっ……こほっこほっ」
壁に寄りかかり、咳をやり過ごす。
そのまま少し休むことにした。重い頭だけ働かせる。
もしや、一見して出口と分からない造りなのだろうか。私の知る他2つとは構造が全く異なるのかも知れない。
もしくは、ベンシード伯爵に嵌められたか。水滴にはずっと早い段階で気づいていて、わざと誤った道を選んで歩かれた可能性もある。
後者なら、もう今日中の脱出は難しい。日暮れまであまり時間が無い。
前者の可能性を追おう。
床や壁、天井も注意深く確認する。
鼻が詰まって、ついぼんやりしてしまうのに耐え、神経を研ぎ澄ませた。
そうして、聞きたくないものを聞いてしまう。
……ッ……ッ……ッ
私のものでない靴音だ。伯爵がもう来てしまった。昨日より早い。
「ん゛…っっ、ゴホッ!けほっ…けほっけほっ」
一際大きな咳が出た。耐えようとしたせいで、喉が余計に痛い。生理的な涙が滲んだ。
「けほけほっ…こほんっ、ゴホッ」
咳のせいで、いくら靴音を抑えようと居場所が丸分かりだ。
とにかく、この複雑な通路を利用し、いずれかの小部屋へ逃げ込まなければならない。
急いで進むも、大きな咳が出る度に足が止まってしまった。体調不良に焦りが加わる。
あ…………しまった。こっちじゃない……!
水滴を辿って歩いた道は、一度しか通っていない。他より反復が少なかったせいか、道を間違えてしまった。
引き返そうとして、思ったより靴音が近づいてると気づいた。いま戻れば鉢合わせになる。
やむを得ず、またも知らない道を進む。
「げほっ……ゴホッゴホッ」
疲労も積み重なってか、咳が酷くなっている。おかげで靴音が聞きにくくて仕方ない。
耳を澄ませた。
今度は、願ってもない音が聞こえる。
―― サァァァァァ……
雨音だ!
出口がすぐ近くにある!
同時に反対から靴音も聞こえた。
より足早に雨音へ向かう。
追い付かれるより先に外へ出られれば、雨音が咳を誤魔化してくれるかも知れない。奇しくも、今は皆の帰宅時間だ。人混みに紛れ、逃げ切れる可能性も十分にある。
チャンスを掴むべく進んだ。
何度か誤った道を選びながらも、音に助けられて出口に辿り着く。
私の知ってる出口と同じ仕掛けを作動させれば、二日ぶりに外の空気が肺を満たした。
警備は……いない!
勢い、雨の中へ飛び出した。
飛び出した……はずなのに、この身は雨に打たれなかった。
「遅かったな」
いるはずのない人が、傘を差し出している。
ルクセン王国の大使と会食し、王女と会っているはずの人が。
「サ…サミュ……」
名前を呼ぼうとして、口をつぐむ。声がおかしい。
「……エレノア?」
頰に手を伸ばされた。
遅れて、先ほど喉の痛みで出た涙を拭われたと気づく。
今、私は酷い状態だ。
強い咳で髪は乱れている。何度も擦った鼻は赤いだろう。化粧なんて出来てないし、入浴だってしていない。
顔を覆って座り込んだ。
途端、再び咳が込み上げる。
「げほっ!…んぐっ……ゴホ、ゴホッ!」
じわりと目の周りが熱くなった。
サミュエルの前で、こんなみっともない姿を見せている。汚い咳を聞かせている。
喉の痛みより何より、それがつらい。
ベンシード伯爵の出てくる気配がした。
サミュエルが彼に傘を持たせ、私を抱き上げる。
顔を隠したまま首を振った。
「下ろしてください。風邪がうつりま……っ、…っ」
無理やり口を閉じ、咳を押し込める。
出るものは出るので、酷い事になった鼻や涙を拭った。喉がこの上なく痛い。
「咳を我慢するな。俺のことは気にしなくて良い」
「……気にします」
サミュエルが下ろしてくれないまま、私は咳を我慢したまま、せっかく出た皇城へ戻って行く。彼の長い足で進めばあっという間だ。
医師を呼ぶよう指示しながら、私室ではなく寝室のベッドへ降ろされた。
「こちらではありません。妃が病に伏してる時は……っ」
何度目か分からない咳が込み上げ、我慢しようと口を閉じる。すると、サミュエルが指をねじ込んできた。
彼の指を噛むわけにもいかず、そのまま咳をしてしまう。
「ゴホッ…けほっ、けほっけほっ…ゲホッ」
き、汚い。
サミュエルの指も汚してしまった。
顔に熱が集まる。
「も、もうここで良いです。サミュエル様は離れてください」
「……分かった」
反対の手で髪を撫でた後、今度は私の頼み通り離れてくれた。
診察のため入って来た医師と場所を代わる。
やはり風邪と診断され、シロップよりも強い薬を処方された。
薬を飲み、まだ部屋にいるサミュエルに醜い姿を見られないよう、シーツを被る。
咳が止まらず寝られそうにないと思ったのに、薬のおかげか、いつの間にか眠りに落ちていた。