作戦3:失踪 -迷宮編-(3)
さらりと髪に触れられる。
急な行動に驚き、問うような視線を向けた。
「すまない。美しい髪だな」
若い、出会った頃のサミュエルが笑う。笑ってるのに、力強い瞳はそのままだ。
昔も今も、私は彼の瞳に弱い。他の令嬢と同じように胸がときめき、どんどん好きになってしまう。
心を隠すように、無言のまま曖昧に微笑んだ。
あぁ、これは夢だ。
随分と昔の夢を見ている。
「いま少し、触れても構わないか?」
耳へ届いた言葉に、身体が固くなる。
頭では拒否しなくては、自分の心を守らなくてはと思った。彼はきっと、ルクセン王国の王女と結婚する。手に入らないものは早く諦めてしまえと。
けれど、胸では勝手に喜びと期待が膨らみ、その言葉を押し止めてしまった。
―― ダメ!ちゃんと拒否しなさい!
いつの間にか第三者になっていた今の自分が叫ぶ。けれど、声にならない。
話そうとしても喉が痛むだけだ。
この時、違う態度を取っていたなら、サミュエルと私は結婚しなかったかも知れない。きっと……無駄な時間を過ごさずに済んだ。
沈黙を了承と取ったサミュエルが、昔の私の髪に手を差し込む。梳かすように指を流した後、ひと房とり、そこへ口付けた。
誰にでも向けられる紳士の微笑みが、意地悪な笑みに変わる。
当時、初めて見たその顔に、相変わらず目を奪われてしまった。
ゆっくり瞼を持ち上げると、眠りに落ちる前に見たのと同じ、石壁が目に入った。小さく質素な部屋がランプに照らされている。
外の光は一切入らないため、時間がよく分からない。
「はっ……くしゅんっ」
くしゃみをすると、乾いた喉が痛んだ。
昨日立ち寄った部屋には井戸が掘られていたけれど、ここには無い。
今は誰も使ってない部屋のようで、保存食の類も無かった。毛布やロウソクなどの備品類があっただけだ。
ベッドとして用意されてる石造りの平台から降りる。
毛布の柔らかさがあったとは言え、寝心地は普段の寝台とは比べられない。身体がギシギシ痛んだ。
懐中時計を手に取る。
そろそろ夜が明ける頃か。
入り口に目を向け、声をかけてみた。
「ベンシード伯爵、おはようございます」
「……おはようございます」
やはり、まだいた。
一晩中こんな所で見張りをするとは……驚くほどサミュエルに忠実な人だ。若いから、伯爵としての余計なプライドが無いのかも知れない。
「いつまでいらっしゃるの?」
「……約20分後です」
思ったより細かい回答だ。20分後、つまり日の出までか。
サミュエルは部下にもきっちり休みを取らせる人だから、そういう指示をしていても納得できる。
昼間は騎士団の警備と迷宮が十分に私を阻む。少なくとも明後日、サミュエルが帰るまでは私が出られないという見立てのようだ。
昨日、居場所がばれ、開き直ってあれこれ質問してみたら、伯爵はやたら素直に答えてくれた。
一応、私を皇太子妃として尊重してくれてるようだ。
彼の言ってる事を信用するなら、サミュエルの留守中、私の行方が皇城内で分からなくなった時に限り、隠し通路への立ち入りを許可されたらしい。
なぜ、そんな許可を出したのだろう。
妃の行方不明による、様々な不利益を阻止したいのは分かる。
けれど、それで伯爵をここへ立ち入らせるくらいなら……離婚申立書へサインする方がずっと良い。
私との正式な離婚でサミュエルが被る不利益など、ほとんど無いのだから。
無い……はずだ。何か見落としがあるだろうか。
ーー キュゥ〜……
考えてると、間抜けな音が小さく鳴った。パッとお腹を押さえる。
ベンシード伯爵には聞こえなかっただろう。けれど恥ずかしさは湧いて、顔に熱が集まった。
タイミングを合わせたように、ノック音が響く。肩が跳ねた。
「いま一度、申し上げます。お戻りください」
「……どうぞ、一人でお帰りになって」
素っ気なく断る。
伯爵がため息をつくような気配の後、靴音が鳴り、遠ざかっていった。
…………と思ったら、反対側の扉に靴音が近づいてきた。
「まだ、何か用かしら?」
「……いいえ」
何がしたかったのか、それだけ言い残し、今度こそ靴音は遠ざかっていった。
しばらく警戒して部屋にいたけれど、時間は有限と立ち上がる。
実を言えば、もう元いた部屋への道が分からなくなっていた。つまり、このままでは飢える。サミュエルが帰るより先に、脱水と空腹で倒れてしまう。
ランプのロウソクを替え、最初に伯爵がいた方の扉から出た。
すると、足に小さな衝撃が走る。物が転がる音に、何かを蹴飛ばしたと分かった。
灯りをかざす。
「これは……」
落ちていたのは、木製の水筒だった。
騎士など、立ち仕事の多い人がよく使用しているタイプの物だ。ベンシード伯爵が持ち込んだのだろう。
持ち上げてみると、中は少しも減っていないように感じられた。
蓋を開けて匂いを確認する。……おそらく、ただの水だ。
なるほど。先ほどの不可解な行動はこの為か。
伯爵が単に水を置いて行くと言っても、私は警戒して反対の扉から出たかも知れない。けれど、彼が反対の扉に寄ってから帰った事で、私は逆に元いた扉から出たのだ。
念のため小部屋に戻り、鍵をかけ、ありがたく水を口にした。
……ベンシード伯爵は、この部屋に水や備蓄が無いことを知っていた。私が道を失ってる事も想像していた。だから水筒を残した。
飢えを理由に出て来させる方法を取らず、私の健康を慮って…………という事はだ。
一旦、部屋を出るのは止めて、小一時間ほど待った。
想像通り靴音が聞こえ、扉の前で止まる。ノック音が響いた。
「食事をお持ちしました」
水筒が無い事を確認したのか、今度はそのまま声をかけてくる。そして律儀に反対の扉へ回ってから帰って行った。
私も一応、彼が反対側にいる間に扉を開け、置かれている物を回収する。
あったのはピクニックに使うバスケット。
保存が効くパン、チーズの他、サンドイッチにソーセージ、卵、フルーツ、ミルクとお茶まで入っていた。昼食分まである。
一緒に入っていたテーブルクロスを広げ、ティーカップにお茶を注ぐ。場所にそぐわない朝食を頂いた。
なんとまぁ、気の利く青年だ。
タイミング的に夕食の受け渡しは難しいけれど、明日の朝も同じことをしてくれるだろう。
これは………利用できる。
紅茶の香りも相まって、自然と目が細められた。