作戦0:申立書
どれだけ努力しようと、報われない事もある。
もがき苦しみ、悲しみに暮れ、運命を呪う?
そんなの時間の無駄だ。
さっさと諦める方が、ずっと良い。
「雪だわ…」
目を覚まし、まず静けさに気がついた。
追うようにして、窓の外をひらひら舞う雪が目に入る。
ため息をついた。
今年も降ったのか。この日はいつも雪だ。
次々と落ちてくる様をぼんやり眺めていたら、後ろから抱きしめられた。
冬の朝は冷える。包まれる温もりに、幸福と離れがたさを感じてしまう。
しばらく身を委ねていれば、肩を引かれ、仰向けにされた。覆い被さるように口付けられる。
「ん……」
朝らしからぬ深さに顔を逸らそうとするも、大きな手が頰を包んで逃がしてくれない。
やっと離された時には、息が上がっていた。
髪を撫で、額へキスを落とす人を睨みつける。
そんな反応を望んでたのか、嬉しそうな目を向けられた。
金色に波打つ髪は、薄暗い中でさえ輝いている。笑顔であるのに翡翠の瞳が力強く、獅子のような猛獣を連想させた。
「おはよう、エレノア」
「…………おはようございます」
むくれたまま、するりと彼の腕から抜け出す。ベッドを下りて、乱れた衣服を直し、ガウンを羽織った。
サイドテーブルの引き出しを開け、中から封筒を取り出す。
振り返ると、夫は上体だけ起こし、未だベッドで寛いでいた。
「誕生日おめでとうございます、サミュエル様」
封筒を差し出す。
出会う遥か前から完成していた淑女の笑みを向ければ、彼もまた紳士の笑みを返してくれた。
「ありがたく使わせてもらう」
受け取られた封筒を目で追う。皇太子である夫へのプレゼント、言葉通りきちんと使って欲しいものだ。
贈るのは、これで7度目となる。
サミュエルがやっとベッドから降り、同じくガウンを羽織った。
封筒の中身も確認せず火を付け、暖炉へくべてしまう。既に組まれていた薪へ燃え移った。
「そのような用途の為に、渡した訳ではありません」
「これが最も有意義な使い方だろう?」
パチパチと音を立て、黒くひしゃげた封筒が炎に消えていく。
扉がノックされた。サミュエルの許可を受け、侍女等が入室する。一人は大きな花束を抱えていた。
彼がそれを受け取り、私の方へ進む。
無視してソファに座り、朝の紅茶を待った。
「今日まで、そしてこれからも共に歩んでくれる君に感謝する」
隣に座り、無視しようのない距離で花束を差し出された。
今日は皇太子の誕生日であり、10回目の結婚記念日でもある。
先程と同じ、淑女の笑みを向けてやった。
「ありがとうございます。でも、これ以上連れ添う気はありませんの」
「……今回の遊びは随分と引きずるな」
「サム、遊びではないのです」
贈り物を燃やされた怒りを込め、愛称で呼んでやる。彼は名前を省略されるのが嫌いなのだ。
「……ふむ。そうか」
紳士の笑みが耳元へ寄せられる。
「その悪い口に仕置きをしてやろう、エリー」
サミュエルも敢えて愛称を使った。私もまた、省略されるのが嫌いだからだ。
そう。嫌いなはず…なのに、夫に呼ばれると嬉しさが混ざってしまう。腹が立つ。
今度はサムを連呼してやると開いた唇が、唇で塞がれた。
お茶を淹れていた侍女が小さく息を飲む。
「ん…む……っ」
わざと髪を乱すように、逃げる頭を抑えられる。
人前でこんな事をするなんて、新婚の時以来かも知れない。
長い口付けの合間、器用に視線で指示を送り、せっかく来た侍女等を下がらせてしまう。
止めさせようと胸を押すも、ビクともしない。逆にソファへ倒されてしまった。
花束が床へ落ちる。
いつまでも終わらず、頭が痺れてきた。身体の力が抜ける。
全く抵抗できなくなると、その姿に満足したのか、ようやく解放された。
「はぁ……っ、……っこ、こんな事してたら……仕事に、遅れます」
またいつ塞がれるか分からない。息が整う前ながら、言いたい事を言ってやった。
「心配ない。午前中は休みにした」
私とは対照的な、余裕たっぷりの声色で返される。
少し前も休みを取っていた。皇太子とはとても暇なのですねと笑ってやる。……息が整ったら。
実際は仕事が少ないのではなく、サミュエルが有能すぎるだけだ。
しかも、やってるのは最低限の仕事という訳でもない。各視察や調査を細かく行い、過去にない施策をいくつも打ち出し、しっかり成果を積み上げている。
人並み以上働くにも関わらず、夕食までには必ず仕事を終え、妻との時間も取る。
大きく息を吐き出す。落ち着いてきた。
さぁ鼻で笑ってあげようと口を開き、案の定、塞がれる。
サミュエルの形良い目が細められた。
芸術のような容姿、溢れる才能、稀に見るカリスマ性、家族への愛情。
まさに完璧を絵に描いたような彼でさえ、思い通りにならない事がある。
結婚当初から変わらず、私を求めてくれる……愛しい愛しい、可哀想な人。
いま私にできる事は、ただ一つだけ。
この男と、離縁してあげよう。
暖炉の中で、教会への離婚申立書が灰となって崩れた。