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荒野の領主

 領主ブルーノはその日、上機嫌で帳簿を付けていた。王宮から恩寵の騎士の世話役を押し付けられ、さぞや浪費するだろうと覚悟していた所が、彼は毎日農民達を引き連れて開墾に勤しみ出した。日暮れには銀貨を惜しみなく配り、農民達の家で夕餉を食って、たまには酒に酔い潰れて騎士に抱えられて帰って来る。そして日暮れ前に起きると身支度をして堅いパンを齧ってジャムをたっぷり入れた茶を飲んで、農村に繰り出す。彼が来た事で増えた支出は微々たる物だった。


「放蕩の守護者イシュタルにしては、控えめな騎士を選りすぐったものよ」


 王より下賜された酒や干し肉は恩寵の騎士が村々に配ってしまった。ブルーノの家族や直属の騎士や兵、従者にまで行き渡ったのは当然として、村々にまで祝いと称して酒や干し肉をバラまいたのは腑に落ちなかったが、マトラが謎を解いてくれた。


『まず、最初に酒を配る際に村々に人の数を申告させて、その通りに酒を配るのです。そして、過少に申告した村には少ない酒を配り、過剰に人数を申告した村には足りるだけの酒を配るのです。すると、あの村は多かったのにこの村は少ないなどと、農民達が不平を述べます。アカツキ様はその声を集めて回り、村ごとの人員を推定して今度は実態に沿って何も聞かずに酒を配ったのです。それから再び人員を報告させて農民達に干し肉を配ると、後はもう正直であること以外に農民達は逃げ道を失ってしまったです』

『算数術……、か』

『いえ、算数という程度ではありません。これをご覧ください、アカツキ殿が書いた計算書です』

『ご覧にならんよ。直に聞いたが二次関数がどうとか、私には分からん』

『……』


 まあ、マトラが分かるなら私が分かる必要はあるまいと、高を括っていたのだが、そのマトラは、折悪く恩寵の騎士アカツキに同道していた。時を戻せる奇跡があるのならば、是非も無く今この瞬間に起きて欲しいとすら思った。


「つまり、アカツキが領内の人口を計算した方法が分かるのは、騎士隊長のマトラだけという事で間違いは無いのだな?」


 近衛騎士ジョゼ・ミカエル・ド・フェブリエが、王宮の使者として遣わされて来たのだ。序列としてはブルーノ候の方が上であるのだが、ノルディノ国王からの王命を帯びている近衛騎士は例外的に国王の一段下の序列になる。しかし、フェブリエは上座になるのを遠慮したので、召使に小さな円卓とティーセットを用意させて近衛騎士フェブリエと二人で茶を飲んでいた。


 部屋の左側には大きな窓が造られて、庭の様子がよく見えた。窓から差し込む明かりを背に、フェブリエは真新しい羊皮紙の束に清書された計算式を目で追っている。


「は、何分私には複雑過ぎて頭に入りませんでな」

「ふむ。私にも分からないが、算術にこんな利用法があるとはな」

「しかも、アカツキはあらかじめ干し肉と酒の値段を定め、借金の返済に充てられるように工夫をしたらしいのです。現物は全て代官の家に運び込んで農民には切符を配った事で、一時的な通貨として機能するようにしたとか」

「王から賜った祝いの品を元手に徳政を行うとは、なかなかの切れ者だな。もう少し歳があれば代官として取り立てたいくらいだ」


 フェブリエは数枚の羊皮紙に一枚一枚目を通す。段々と紙をめくるのが速くなり、最後の紙だけ妙に時間を掛けている。何を書いているか分からないけれども見栄を張りたいという気持ちは、ブルーノ候にも痛いほど分かった。


「まあ……、恩寵の騎士様が算数を知っているとして、我々は生涯を王国の為に命を費やしているのです。何も、我々は義務を怠っていたなどとされる、云われは御座いませぬが?」

「そうは言っていない。この計算書を写して王宮に送る事は頼んでいいか?算数術師達が喜ぶだろうからな」

「そのまま持ち帰っていただいて結構ですよ。恩寵の騎士は王宮から差し向けられたのですから、原本は王宮にあるべきです」

「では、有難く拝領いたそう。写しはこちらから送らせてもらう」

「ご配慮痛み入ります」


 ブルーノ候が執事を呼び、計算書を入れる丸筒を持ってこさせた。先代の当主が学問の事で公爵と手紙をやり取りした時に送られてきた丸筒は赤く染めたクマの皮を用いた高級な品物であったが、王宮へ送るような見栄えの丸筒が他には無い。家宝にも近い筒を差し出すと、受け取ったフェブリエは丸筒を改めて何か気付いた様子で当主を見た。


「これは紋章が入っていないが、何か曰くでもあるのか?」

「恥ずかしながら、先代がさる方と神学の事でやり取りさせて頂いていた時に送られて来た筒でございまして、我が先代の論文が教皇庁の議論で引用されたという知らせが入っておりました」

「ほう、先代は神学を嗜んでおられたのか。結構な事だ」

「お察し頂ければ恐縮に存じます」

「確かに、神学論争は異端審問と裏表だ。国王には上手く申し上げておく。それで、本題なのだが」


 近衛騎士は計算書を入れた丸筒を近衛兵に渡すと、王宮魔術師から丸筒を受け取った。薄い真鍮の全面に王室の家紋である百合が浮彫の螺鈿で象嵌されていて、これもまた家宝に値する秀逸な出来であった。


「内容は大して複雑ではない。アカツキにモンスター討伐をさせろとの王命だ」


 その言葉に当主が思わず目を逸らしたのを、フェブリエは見逃さなかった。


「ブルーノ候?」

「いえ、まあ。我々もそのように考えまして、アカツキ殿にはドラゴン巣の掃討を頼んだのですが……」

「まさか、勝てなかったのか?」

「それです、フェブリエ殿。森の前まで行って引き返して来たのですよ」


 フェブリエの顔に失望の色が浮かんだが、ブルーノ候は唸るようにしながら再び目を逸らした。何か歯切れの悪さを感じて、更に問いただす。


「引き返して来たとは、どういう事だ。まさか恐れをなしたか?」

「我々には考えもしない事ですが、彼はドラゴン相手に決闘を申し込んだのです」

「……詳しい話を聞きたいものだな」

「私も未だに信じかねていますが、同行した騎士団達が言っていた事をそのままお話し致しましょう」


 部屋の中で、暖炉にくべられた薪だけが弾ける音を立てている。近衛騎士は腕を組んで背もたれにもたれかかって、厳しい表情で落ち着かなさげな当主が話し出すのを待っていた。

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