老いた狼
エスランサ王国の東北にあるナバラは、元は独立した小国だった。ナバラ王家は百年前に、男児に恵まれない内に国王が逝去した為に、エスランサ王国に併合される事になった。しかし、生前のナバラ国王は次善の策として、七人いた王女を次々とエスランサの有力貴族達に嫁がせていた。ナバラ国王の死後、混乱した継承権による内紛を憂慮したエスランサ国王は、ナバラの自治を認めて貴族による統治を許さず、早々に継承問題を終結させた。以来、ナバラはほぼ民主制に近い政治体制を築き上げて現在に至っている。
「……恩寵の騎士だと?」
「そうだ。見た目はただのガキだが、アベルの兄貴が愛用していた大斧を魔法で跡形も無く消し飛ばしやがった」
セベーロはホアキンの話に珍しく驚いている。俄かには信じられなかったが、そう考えるとアベルが勢い込んで出て行ったのも合点が付く。ノルディノ王国は恩寵の騎士を召喚した時はエスランサ王国に使節を派遣するという協定を結んでいる。幌馬車を20台持ち出してくる程の用件ではある。
「しかし、ノルディノからエスランサに用があるのは恩寵の騎士ばかりではないだろう。たまたま強い魔法を使うガキがいたからって、なんでそいつが恩寵の騎士だという話になる?お前は恩寵の騎士をおとぎ話だと思ってたんだろ?」
「そりゃあ、本人が恩寵の騎士だって名乗ったからだよ。そうしたらアベルの兄貴の耳に届いてな、馬車をまともな道まで案内する代わりに恩寵の騎士と決闘させろって言いだして」
「待て。お前の話は順序が分からない」
要領を得ない話にセベーロが呆れると、賭けすごろくをしていた男がサイコロを弄びながら話に割り込んできた。
「つまりだ、沢山の馬車が通ってました、その沢山の馬車はノルディノ王国から来ました、アベルがちょっかいかけに行きました、恩寵の騎士が名乗りました、アベルが恩寵の騎士と決闘させろと言い出しました、アベルは大事な斧を吹っ飛ばされました、ノルディノの近衛騎士が出てきてそいつと決闘しました、負けました。アベルは今、手下達と楽しく雪遊びをしています。要は、アベルは気が狂ったって事でいいのか?」
「気が狂ってるのはいつもの事だろ!」
他の誰かが揶揄して、居間は笑い声に包まれた。ホアキンは咳払いをすると話を続けた。
「ああ、いつもの事なのは間違いねえ。だが、俺達は事が起これば命を賭けて戦いに赴く誇り高い銀狼一家だ。ナバラ王国騎士団の末裔として雪原を守る義務がある。そうだろ?セベーロ」
「まあな。どっちみち、『ご挨拶』はしなけりゃなんねえ。大体が恩寵の騎士をエスランサに寄越すなら、王都クレテイユからいくらでもいい道があるじゃねえか。わざわざこんな道使ってる理由はなんだ」
「俺も聞いたんだがね、恩寵の騎士が何か言い掛けたんだが、いけすかねえ気障野郎が口を挟んできて聞けずじまいだ」
「なあホアキン、お前の感想はいらんのだ。恩寵の騎士、恩寵の騎士ってそいつは自分の名前もねえのか?」
「アカツキって名前らしい。それでな、アカツキの周りには騎士と兵士と魔法使いと、あと何者なのか分かんねえ奴らが全部で二十人ぐらいいてよ、道の横でやたら殺気立ってんだよ。でさ、俺そいつらに言ってやったんだよ。てめえらの馬車動かすの手伝ってやってるのに、茶でも沸かしてやろうかって気になんねえのかってな。そうしたら連中の中から服だけは立派なガキが出てきて、そいつが恩寵の騎士のアカツキ様なんだが、悪いな気が付かなかったって、言う事も立派なんだ。そうしたら気障野郎が、まあこれは別の気障野郎だが」
「お前本当に話が下手くそだな!」
「うるせえ!俺だって訳わかってねえんだ!」
「喧嘩をしろと誰が言った?話を続けろホアキン」
いつもはただ先代のよしみというだけで無駄酒食らってるだけのセベーロが、とてつもない殺気を放った。一瞬で全員が静まり返り、ホアキンは恐怖を感じながら言われるままに続ける。
「でだ、恩寵の騎士、いやアカツキが、何か茶を沸かす道具だかを自分で取りに行こうとしたのを、兵士に囲まれてな。気障野郎の話が分かる方が私がやりましょうって言って、なんだかんだで砂糖入りのお茶を大量に沸かしたんだ」
「その話は重要か?」
「いやな、俺も思っても見なかったんだが、あいつら持って来た大釜に茶の葉っぱと砂糖をぶち込んでよ、その大釜をアカツキが物凄い炎出して一気に沸かしたんだよ。それを見てた三下共が集まって来てがぶ飲みしてた所に、アベルの兄貴がやってきて恩寵の騎士がいるって話を誰かに聞いたんだろうな。最初は金を要求してたのが恩寵の騎士と決闘したいって言いだして、大騒ぎさ。そっからはもう幌馬車を十頭立てにして後ろから横から押して次々と原っぱまで運んで、さあ全部運んでやったぞ決闘だっつって、恩寵の騎士に大斧吹っ飛ばされた上に女騎士にボロカスに負けてよ、でもノルディノの連中はそれどころじゃないみたいな顔してるから、こりゃやべえのかなあって思って俺は馬乗って帰って来たんだよ。なあセベーロ、知恵者のあんたがちょっと下まで降りてきてくれよ。兄貴に任せてちゃ何がどうなるか分かんねえ」
「最悪な取引だな。決闘と言ったな、何か約束したんじゃねえのか」
「ああ。大した事はない。負けた方は勝った方の言う事を何でも一つ聞くって約束だ」
「大した事はない?それもお前の感想か?」
「アベルの兄貴曰くは、大した事がないんだとよ。だから俺の感想も『大した事はない』だ」
大した事はない、そう繰り返すホアキンは何かを俺に言わせたがっていると、セベーロは見抜いた。アベルに染まって変な知恵付けやがったと内心で毒づく。
「……なる、ほど、なあ。あいつの事だ、道案内と称してノルディノの使節団について行く気だな?」
「やっぱ、そう思うか。兄貴は変な時に頭回るから始末に負えねえや。どうする?」
「お前が言うな、アベルに道案内させればいいんじゃないか?どの道、これ以上ナバラで騒ぎを起こされちゃあ銀狼一家は何してたって話にもなる。誰かしら張り付かせにゃならんだろ。それでだ、俺も話を聞いていて『ご挨拶』をしなくちゃならん気がしてきたな?」
「それがいい。少なくともどんな奴か、セベーロかルーカスには見てもらわなけりゃ困る。出来れば話もして欲しい」
その時、居間の扉がゆっくりと開いて、長弓を持って空の矢筒を背負った男が入って来た。
「それならセベーロが適任だ」
「ルーカス!あんたもう見てなくてもいいのか?」
「お前が帰ってくるのが見えたからな。ああそれと、今日帰ってくる奴で左足に矢傷を受けて帰ってくる奴らはもう仲間じゃねえ。問答無用で殺せ」
ルーカスは剣呑な事を言いながらセベーロと同じテーブルに座ると、酒瓶をそのまま呷った。
「ふん。そいつらが何をしたか知らんが、ルーカスにしては生ぬるいな」
「銀狼一家にコソ泥が混じってたってだけの話だ。あそこで殺しちゃ死体の始末も面倒だろ?」
「やはりルーカスはルーカスだな。やる事がえぐい。で、どこから話を聞いていた?」
「ホアキンが酒を買い忘れたのを詫びる所からだ」
「全部聞いてたんじゃねえかクソ爺」
「お前こそ俺が何も知らなかったら面倒ごとを俺に押し付けただろう?たまには山を降りた方が体にいいと思うんだがな?」
老人二人が互いに嫌な笑いで火花を散らせ合う。ホアキンが割って入ろうとした時、ルーカスが突然ホアキンに話を向けた。
「それよりお前、あの話はしねえのか?」
「あの話ってのは、どの話だよ」
「なんであのアカツキって奴はアベルの斧を吹き飛ばした後、後ろにいた女騎士に雪玉をぶつけたんだ?」
「その話なら、全く分からん。遠眼鏡を持っていったあんたの方がよっぽど詳しいぐらいだ」
「ふん。まあ、恩寵の騎士とノルディノの間で話が噛み合ってないんだろ。口の動きを見ていたら、イシュタルがどうのこうのとか殺すのが嫌とかなんとか、そんな話をしていたようだがな」
「ちっ、こうなると俺だけ何もしない訳にはいかねえな。話は分かった、ホアキンすぐ出るぞ。アベルが酒でも飲みだしたら面倒だ」
「喜んでついて行きますぜ。馬なら老いぼれた奴が良いか?」
「そうだな。昔みたいにはもう乗れねえが、馬ぐらい乗っていかねえと格好がつかねえからな」
「はっ、こいつにはロバがお似合いだぜ」
「うるせえな!」
ルーカスが手の平を差し出すと、セベーロは思いっきり平手で叩き、乾いた音が部屋中に響く。面倒事を引き受ける時の銀狼一家の挨拶だった。立ち上がったセベーロが面倒くさそうに体をほぐすと、しっかりと背筋を伸ばし、立ち居振る舞いも堂々として顔付きさえすっかり変わっていた。
「ったく、てめえが酒買い忘れるからこんな事になるんだろうが」
「悪かったよセベーロさん。今度からは気を付けるよ」
「謝る時だけ殊勝だなこのボンクラは」
「ええ……」
「おいお前、それ貸せ。俺のはボロすぎて格好がつかん」
すっかり酔いの冷めたセベーロは、近くにいた者と無理矢理に外套を交換して身に纏う。日頃の飲んだくれとは思えない変わりように驚いていないのはルーカスだけで、他の者はホアキンを連れて颯爽と部屋を出て行く姿をずっと見送っていた。