白血病
幸太郎は夢を見た。元の世界で闘病生活をしていた頃の夢だ。病院の中にはWiFiが設置され、大部屋ではあるがクリーンルームの中でも主治医の許可があれば通信機器を持ち込めた。幸太郎は親に大きなタブレットとシリコン製の水洗いできる柔らかキーボードを買って貰い、調子のいい時はネットサーフィンや勉強をしていた。入院して間もない頃に、通っていた学校の担任と面会して今後の事を話し合う事になった。
「では、暁君は大学を目指すという考えなんですか?」
「はい。農大に入って農業を本格的に学びたいです」
クリーンルームに入院した患者は感染症の危険がある為に家族以外との面会が禁止となっているが、幸太郎本人や両親、学校が教育委員会を通じて面会を希望したので、主治医立会いの下に診察室で全員がマスクを着用するという条件で面会する事となった。
「そうですか。学校としても暁君の希望をしっかり受け止めて協力したいと考えています。パソコンが病室で使えるなら、授業内容や宿題をEメールで送ってよいと校長も言っています。しかし、無理はしないでくださいね」
担任との話し合いの結果、幸太郎は勉強を続けられることになった。面会の次の日から毎日メールが届くようになり、授業内容と共にクラスメイトが代わるがわるに励ましのメッセージや千羽鶴の画像などを添付してきた。律儀に全部返信していると、あまり関わりの無かった同級生とも交流が出来て、中には「この問題が分からない」「喧嘩したら○○と仲直りしたいけどどうしたらいいと思う?」などという相談も混じるようになった。教室で直に接しないから距離も近づきやすいのだろうかと思った。
『お前結構面白いよな。退院したら遊びに行こうぜ』
『陰キャを舐めて貰っては困るな。リアルでの空気の読めなさはヤバいぞ』
『それ自分で言う(笑)』
だが、メール越しの関わりも長くは続かなかった。幸太郎が体を起こせない時間が増えていったからだ。母親がメールを読み上げて俺の言葉をそのまま返信してくれたから、病状の進行はクラスメイトには伝わっていなかったらしい。ある日、突然返事が途絶えるまでは。
『幸太郎の母です。今日、彼は一時昏睡状態に陥りました。クラスメイトの皆さんのおかげで最近はずっと元気で、毎日メールを心待ちにしています。これから返信が難しくなるかもしれませんが、きっと読みますので今までと変わらずメールを待っています』
それから、やりとりされた筈のメールの内容を幸太郎は知らない。今更思い出して、返信できなくなったのを申し訳なく思った。体が揺れる。まるでタイヤのパンクした自転車に乗っているような振動が、全身に伝わってきた。おもむろに大きく揺れて、思わず足で踏ん張ると、そこは異世界の馬車の中だった。六頭立ての幌馬車は中の左右にベンチが据え付けられ、前後には同じ幕が張られて外気を遮るようになっている。20人が身を寄せ合いながら三つのストーブで暖を取って寒さに耐えていた。
「起きたか」
声の方を振り向くと、鎧を着た赤い髪の毛の女が隣に座って俺を見ていた。寝ぼけながらこの人誰だっけ?と、ふと思ってしまった。そんなボーっとした俺の首の後ろを冷たい手が掴んで揉んだ。冷え切った掌で一気に眠気を剥がされた。
「大丈夫かアカツキ?馬車の中でならまだいいが、その寝ぼけた顔で外に出てくれるなよ」
そう、思い出した。俺は暁幸太郎、異世界に呼び出されて魔王を倒す使命を帯びた恩寵の騎士アカツキだ。この女騎士は近衛騎士ジョゼ・ミカエル・ド・フェブリエである。今は総勢180名の使節団を指揮する団長で、アカツキもフェブリエの指揮下に入っている。
「ああ、ごめん。ちょっと寝てた」
「夢でも見てたか?」
「まあな。入院してた頃に、同級生と手紙のやり取りをしていた時の夢を見た」
「そうか。入院と言ったが、あまりうなされていなかったな」
「うなされるような夢じゃないしな」
俺の言葉に、フェブリエは大きく息を吸い込んで、大きくゆっくりと息を吐きだす。帷子に包まれた脚を組んで腕組みをした姿勢で、天を仰いだ。
「この世界では、豊かな者は病院になど入らない。医者を呼ぶ金があるからな」
「その病院は小早川養生所とかいう名前だったりするか?」
「小早川養生所というのは知らぬが、病院など有って無いようなものだ。貧しい者が伝染病を広めないようにする為の牢獄のような場所だからな」
車輪が大きな石を踏んだのか、馬車が大きく揺れた。床に固定された簡単なストーブに入った木炭が振動で掻き回される。
「御者、石を踏み過ぎだ!車輪が壊れるぞ!」
フェブリエが幕の向こう側に檄を飛ばす。六頭立ての幌馬車は白く厚い布の内側に細かい鎖を編みこんで獣皮で覆った耐久力のある作りをしている。その分重くなるから、動かすのも難しいのだろうと察せられた。
「ところで、アカツキは向こうでは何の病気だったんだ?」
「白血病って分かるかな」
「血が白くなる病?伝染病か?」
「ガンぐらいわかるだろ。血液がガンに侵されると白血病と呼ばれる」
「癌、か。血液に溶けるような癌が存在するのか」
「具体的には骨髄の……」
「黙らんかアカツキ!」
詳しく説明しようとした時に、突然甲高い一喝が飛んできた。俺の正面に座っていた錬金術師隊々長のカミーユ・ド・ルヴァデがマリーの外套の内側にくるまりながら、目を大きく見開いて睨みつけている。
「科学技術の話はせんでええわい!そうやって無意味な希望を持たせる事で絶望する者もおるんじゃ!ジョゼ、貴様も貴様じゃ!団長だからと言って調子に乗るのではないぞ!」
言いたい事を言って、ただの少女にしか見えないルヴァデはマリーの外套の中に再び頭を潜り込ませた。だが、闘病生活でひどく苦しんだ結果が現状であることを思い返すと、ルヴァデの言葉が深く突き刺さった。
「……悪かったフェブリエ」
「いや、私も迂闊だった。忘れてくれ」
溜息をついたフェブリエは瞼を閉じてうつむいた。そのまま狸寝入りを決め込むつもりらしい。俺は背もたれにもたれかかって正面の斜め上を見続けた。
「それでもアカツキ殿は助からなかったのだな」
「しっ、声が大きいぞ」
誰かがこそこそと言ったきり、馬車の中で喋る者はいなかった。この気まずさ極まった空気に耐えられず、俺もフェブリエに倣う事にした。