残る者の矜持
ブルーノ候の嫡子ヤンは、夜中に館を抜け出して庭園に潜んでいた所を見回りの兵士に見つかり、大捕物を繰り広げた。結局は捕まって寝室に押し籠められていた上に、同じ部屋の中にメイドのミレーユが見張りに付いた。一応は何かあれば大声を出すという段取りになっていたのだが、ヤンを突き飛ばして組み伏せた張本人のミレーユ自体が腕っぷしが強く、到底敵うとは思えない。
「ミレーユ、君はなんで普通の兵士より強いの?」
「仰る意味が良く分かりませんが」
笑顔で答えたミレーユが言い終わるか終わらないかの内に、立っていたヤンは手近にあった壺を投げ付ける。椅子に座ったままのミレーユは手の甲の上で受けて転がして、上に弾き飛ばすと両手を伸ばして落ちてきた壺を頭の上で挟んで抱えた。
「聞き方が悪かったかな。僕は騎士、いや兵士として使い物にならないのかな?」
壺を頭の上に掲げていたミレーユは壺を膝の上に置き、優しく言った。
「ブルーノの家名さえ背負っていなければ、今でも十分に通用すると思います」
「じゃあ、ブルーノの名を捨ててでも僕は騎士になりたい」
「それは違います。ヤン様は貴族としてブルーノの名を継がなければならないのです」
「どうして?」
「……ヤン様は、マトラと御父上から何度となく説かれている筈ですが?」
「分からないよ。魔王が現れたのに、領地に引き籠って座しているのが貴族の務めなの?」
「ヤン様はどう思われますか」
「僕はそうは思わない。魔王を倒すのに異世界の人間に頼るのが貴族の誇りなら、僕はそんなもの要らない」
ヤンの言い様に、ミレーユは苛立ちを覚える。私だってアカツキに付いてエスランサへ行きたかったと、声を張り上げたい気持ちを抑えて問うた。
「では、今このヴァランスに魔王が攻めてきたとすれば、誰がヴァランスを守るのですか?」
何か言い掛けたヤンが、言葉に詰まった。壺の口に目線を落として縁を人差し指でなぞり出したミレーユは、黙り込んでいる。ミレーユが背にする窓から入ってくる光が逆光となり、ヤンからは彼女の表情が読めない。
「誰って、……ブルーノ家だ」
ヤンが答えても、また沈黙が訪れる。壺の縁を巡る指は止まらず、妙な緊張感が部屋に満ちた。どちらも黙っていたが、おもむろにミレーユが言葉を紡いだ。
「それはブルーノ家だけではないでしょう。ノルディノ王国フォルジュハイム王家が治める国民二千万人を守るのも騎士の役目ではないですか?全ての騎士が魔王に向かって行けば、誰がノルディノ王国を守るのですか?」
言い終えると、ミレーユは壺を両手で抱えて立ち上がる。
「ヤン様は恐れ多くもフォルジュハイム王家より賜った家名を蔑ろにして、貴族として為すべき事を放棄してただ蛮勇を持て余して喚いているだけでしょう。もし、どうしても行くというのであれば」
部屋の中に風が吹いた。ミレーユはいつの間にかヤンの横に立って、壺を元の場所に戻した。
「私より強くなってからにして下さい。それか、あの窓から出るなら私は止めませんが」
閉め切っていた筈の窓の一つが開け放たれている。さっき吹いた風は、何も錯覚ではなかったのだ。ヤンは外の眩しさに目を細めて言った。
「そうだな。僕はブルーノの名を継ぐ誇り高き貴族だ。コソ泥みたいな真似をして館を出られるわけがないだろう?」
「ですよね」
ヤンと鼻先を突き合わせる距離で頷いたミレーユは、両開きの窓に近づくと窓を閉めてしまった。その時、礼拝堂から讃美歌の合唱が聞こえてきた。観念したヤンは近くの椅子に腰掛けて、背もたれに体を預けた。急に眠気が差したのは、夜通し起きていたからだろう。緊張の糸が切れて、ヤンはそのまま寝てしまった。