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印刷術

 ピエール・ド・ラファージュは、急ぎ足で旧都グランモイスの大通りを歩いていた。何枚かの羊皮紙を右腕で抱えるように外套の中に持ち、一見の印刷屋に入っていった。中には、一人の男が部屋に置かれたテーブルで金属の活字を並べている。


「お、ピエールの旦那。原稿仕上がったんですか」

「それどころじゃない。俺は旅に出る。この印刷屋も引き払う」

「はい?」


 印刷所に一人だけの活字工のマルタン・サントロが間抜けな声を上げる。ラファージュは奥に入って金庫を開けると持てるだけの金を持ち出し、旅嚢に突っ込むと金庫の鍵をサントロが組んでいた活字の上に放り投げた。


「後はお前の取り分だ。印刷機も好きにしろ」


 そう言って出ていこうとするラファージュにサントロは追い縋り、腕を掴んで引きずり戻した。


「旦那!何がヤバい事になったのかぐらい言って下さいよ!俺だって立ち回りの仕方ってのがあらぁ!」

「うるさいな!イシドールの馬鹿兄貴が失脚して、俺が家を継がされそうなんだ!」

「はあ?名家ラファージュを継ぐ?めでてぇ事じゃねえですか。何が不服なんで?」


 癖のある金髪と白豚のあだ名を持つサントロが不思議そうに聞くと、ラファージュはサントロの腕を振りほどいて苛立ち気に両手を振った。


「クソ兄貴がしくじって勘当されやがったんだ。今更あのクズがダメになったから俺を代わりにしようなんて根性が気に入らん。イシドールが醜態を晒した?ラファージュ家にお似合いの当主じゃねえか!」

「そんなの、直接言えばいいでしょう。血の繋がった親じゃないですか」

「うるさい!母親は気晴らしに実の子供の俺の事をイジメやがって、父親は俺の出来が悪いからと見て見ぬふりだ!召使共まで俺の事をひそひそと陰口叩きやがって、あんな奴らが廃絶して路頭に迷おうが俺には関係ねえ!」

「はー、貴族様でもロクデナシの親なんているんですねえ。しかし……」


 サントロが安っぽい窓から路地を見て、思わせぶりに黙った。


「何だお前。白豚の癖に人間に意見する気か?」

「豚でも親子の情というのはあるんですが、あの方は旦那のお知り合いでは?」

「あの方?」

「朝からずっと向こうに立って、こっちを見ているんですよ。ゴロツキにも見えない上品な紳士でいらっしゃるようだから、旦那の知り合いかと……」


 巨体の横から外を覗いたラファージュは、ゲッと下品なうめき声を上げた。


「シュミットじゃねえか……!」

「はあ、どちらさんで?」

「家庭教師だ。あいつは、俺が何かする度に延々と説教をかまして来やがった」

「なるほど、さながら旦那の親代わりという方なんですな」

「そんなんじゃねえ。あいつは頑固な堅物で、何でもケチを付けなきゃ気が済まないだけだ」

「はー……」


 さりげなくラファージュの顔色を窺うと、先ほどの憎しみの塊のような顔と打って変わって厄介な奴が来たという目で紳士を見ている。どちらもサントロにとって初めて見る顔だった。


「俺は裏口から出る。あいつが入って来たらいないと言え」

「それなんですがね、旦那。話を聞いたらすまねえとは思うんだが」


 白豚は懐から財布を取り出した。ラファージュ家の紋章が入ったなめし皮の財布だった。それを見た瞬間、ラファージュ家の次男は自分が嵌められた事を知った。それと同時に玄関と裏口が勢いよく開いた。


「だ、騙したな!この豚野郎!」

「……はあ、俺には分からんすよ旦那。堂々と帰って見返せばいいと思うんですがね」


 五人の騎士達を歯牙にも掛けず、サントロは入れ違いに出ていこうとした。


「待て、どこへ行くサントロ!」

「仕事にならんし、今日は外で飯食ってきますわ。積もる話もあるでしょうから。あ、騎士さん方、その金属が乗ってる板、仕事の途中なんで触らないで下さいよ」


 活字工は呑気に言って、今度こそ出ていった。何事かと集まってきた人垣を割って進み、大通りの雑踏に消えていく。騎士達と共にはいって来た家庭教師のシュミットがラファージュと相対する。


「お久しぶりですな、ピエール様。お元気そうで何よりだ」

「てめえは何も変わっちゃいねえなシュミット。今度は何の説教だ?」

「ええ、ご立派になられて、今では貴族政を批判する新聞を出されているようですな」

「それが何だ。不敬で俺を殺すか?」

「貴族達の間でも人気がありましてな、このグランモイスではあなたの味方の方が多い。我々も命が惜しいのでね」


 シュミットが窓の外を見ると、人だかりの中に殺気立った者達がいくらかいるのを見て取った。部屋の端に追い詰められているピエールからは見えない。


「ほう。こうやって騒ぎにして商売を続けられなくしようって魂胆か」

「逆ですな。ピエール様、あなたは『恩寵の騎士』の件をご存じですか?」

「『恩寵の騎士』……、魔王を倒す為に召喚されたのに、辺境のヴァランスで開拓や学校の事業を行っているそうだな。それがどうした」

「実はですな、イシドール様の件でラファージュ家は大変に評判を落としました」

「当然だな。召喚の儀式に参加して醜態を晒したんだ。ざまあない」

「実は次の新月に、恩寵の騎士が魔王探索に旅立ちます。ラファージュ家も王宮から同行者の割り当てを受けました」

「ふん。王宮はラファージュ家に汚名返上の機会を与えて慈悲を示したいという事か」

「ですが、今のラファージュ家にはふさわしい者がおりません。親戚や分家筋も本家に関わりたくないという態度で、当主は困り果てております」


 話をしている内に、ピエールの顔付きが変わっていくのをシュミットは見逃さなかった。何しろ皆が知りたい情報を金にする生業で名声を得ている才覚であるから、かえって交渉はしやすいと踏んだのだ。思った通りピエールの顔に笑みが浮かび、シュミットの傍をすり抜けると窓際に立って外の野次馬に機嫌良さげに手を振った。


「なあ、シュミット。窓の外を見ろよ。俺の書く新聞を楽しみにしているグランモイスの民衆や下級貴族は多い。ああいう連中を捨て置いて、ラファージュ家の当主に収まれと言うのか?」

「いいえ。あなたがラファージュ家の汚名をそそいで下されば、後は何とでも致します。お願い申し上げたいのは、恩寵の騎士に同道していただきたい、それだけです」

「分かった、分かった。大変良くお分かりだよ。俺も新聞のネタには困り果てているんだ。これが作り話なら、いっそ騙されたいくらいによく出来ている。いいぜシュミット。俺はどこに行けばいい?」

「明日、クレテイユにお送り致します。それまでに原稿を仕上げて差し上げてください」

「そんな事まで指図される気は無い」


 外がやにわに騒がしくなった。窓の外を見ると、白豚のサントロが人々に囲まれている。両手に二つの袋を持ち上げて、人波を押しのけて部屋に逃れ込んできた。


「はー、ひどい騒ぎだ。こっちは旦那の分すよ。パンとベーコンとワインで良かったっすか?」

「どうした。食ってくるんじゃなかったのか?」

「お前の店が大変な事になってるって色んな奴に声を掛けられて、落ち着いて食えやしない。今も見てたでしょ?何が起こってるんだ何が起こってるんだって、俺に分かる訳がねえっすよ。ねえ?」

「原稿はちゃんと仕上げて下さるそうですよ」


 シュミットが素知らぬ顔で言ったのを、ピエールは聞き逃さなかった。


「お前……、全部知ってやがったな?」

「いやー、シュミットさん。性格悪いっすわ。だって、ねえ?」

「だってじゃねえよ白豚!俺が帰って来たらクビだお前!」

「帰って来たらって……」

「印刷機も動くようにしとけよ。逃げたら許さないからな」

「さっきと言ってる事が違うっすよ」

「ああ。そういう所は兄弟ですな」

「何か言ったかシュミット?」

「いいえ?」


 印刷所から相変わらずの掛け合いが始まると、野次馬は次々と興味を失って去って行く。次の日の早朝にはピエールは迎えの馬車に乗ってクレテイユに向かった。後に残されたサントロは、恩寵の騎士の伝承を集めて本にする事業を始める事にした。

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