占星術
夜に、アカツキは約束通りに月の計算を行っていた。一つ一つ公式を当てはめては、計算結果を羽ペンで羊皮紙の表に書き込んでいく。タイユフェールにあてがわれた、というかタイユフェール自身が望んだ部屋は召使用の粗末な部屋で、彼は初日に徹底的に掃除した部屋で窓を開け放ち、毎晩明かりを付けて極端に分厚い眼鏡を掛けてレンズを磨いていた。使い古した絹の外套とマスクを身に着け、徹底的に埃を避けていた。旅用の保温性に優れた外套を着てもなお冬の夜中では手先が寒いことこの上ないが、同じ部屋で作業をしているタイユフェールの手前、何も言えなかった。
「フランツは、無理ですね。彼には開墾の手伝いでもさせていた方が性に向いているように見えます」
タイユフェールがレンズを磨きながら呟く。アカツキは何も言えず、計算を続ける。
「私も覚えがあります。詩というのがさっぱり分からず、縁談もふいにしました」
なんと返事をしていいものかも分からないが、手が止まってしまう。
「何故、出来もしない人間に算数やら詩やらを教えなければならないのでしょうかね」
彼の言う算数は算数という次元ではないという話はともかくとしても、語り掛ける言葉にアカツキも考え込んでしまって筆を置き、タイユフェールに体を向けた。
「私からすれば、アカツキでもフランツでも大して変わらない。君にやらせている計算の程度なら、一日でやってもらわなければ話にもならない。君はそれに何日かかっている?」
「三日……」
「ようやく終わるな。残念だが、君には釘の数を数える以上の才能は無い。比べる相手と言えばフランツ、そして彼を笑っている村人達だ。嬉しいか?」
「そうっすね……」
まるでボロカスに言われても言い返せず、アカツキも流石に段々と敬語になっていってしまう。レンズを磨きながら話していたタイユフェールは、否定をしないアカツキの言葉に目を上げ、レンズを置いて口に巻いていた布を外して上に被せる。冷たい目をしているアカツキの視線を見返して問うた。
「劣った者と比べて嬉しいのか?」
「俺が教える事で、あの人達は計算が出来るようになる。少しでも知ってるからこそ、教えられる。それが嬉しくないって言ったら嘘になります」
タイユフェールは頭を掻いた。思案気にアカツキの顔を見つめると、質問を次いだ。
「君は、数学という学問がこの世界にあるのを知っているか?」
「数学……、数学というのは、算数をどう利用するかを突き詰める学問だと……」
「そう!数学というのは、算数をどう利用するかを突き詰める学問だ。数なんか数えて何になる?人間は答えを探し出して、意味を理解した。動物には自分の生存に必要な物を求める知能はあるが、数学によって知性を共有する事は出来ない。そして今でも、人間は数学を探求している。人間の知性を人間の物であると論じるのが、数学という学問だ」
「いや、そこまでは知らないですけど……」
「ふむ。そうすると、君は良い教師に恵まれた訳か。君の若さで思い至る話ではなかったな」
「でも分かります」
「了解っす、とは言わないのか?」
二人は笑い声を上げた。一しきり笑うと、タイユフェールはレンズ磨きの道具を片付けて、窓を閉めた。
「今度の恩寵の騎士というのは子供だと聞いていたが、話が分かるじゃないか。向こうの世界でも、恋人には困らなかっただろう?」
「それは、あんまり……」
「そうだろうかな?思慮があって、立ち居振る舞いも粗野ではない。悪くはないと思うんだがな?」
からかうように持ち上げるタイユフェールに辟易したが、さりげなく無視できない事を言ったのが気にかかった。
「というか、何故俺が恩寵の騎士だと思ったんですか?」
「簡単な事だ。魔王が出現したという噂があり、占い師たちがこぞって恩寵の騎士を召喚する儀式の日取りを予想し合った。多くの占い師が秋頃だと言い切ったから、今頃は王宮当たりにいるのだろうと皆は思っている」
「占いで分かるもんなんですか」
「王宮も占いぐらいするからな。同じ法則で同じ事象を占えば同じ結果が出なければなるまいよ。それはともかくとしても、その時期に君みたいなのがいれば、ああこいつが恩寵の騎士だなという風になるのさ。君がもし、この世界の服を着て言葉が喋れれば他の人間と何も変わらないと思っているのなら、いずれ失敗するだろう。気を付け給え」
アカツキは思った。いくらイシュタルの力があっても舐めた事したら殺されると、背筋が冷たくなった。不安が顔に出たのを見て取ったのか、タイユフェールは微笑みながら言った。
「今の恩寵の騎士が何をしているのかは秘密でも、過去の恩寵の騎士の行状は多く知られている。その中で、未だに禁書扱いになっているのが、前回の恩寵の騎士の事だ。『ナチス』というのは知っているか?」
微笑んではいるが、『ナチス』の言葉でアカツキは固まった。今度はアカツキが何か言うまで待っているつもりらしかった。
「ああ、聞いた事は……、いや、あんたは何故それを知っている?」
アカツキの当然の疑問を無視して、話し続ける。
「彼はその『ナチス』の高官だったそうで、魔王を倒した後に自分の国を持とうとした。横暴なやり方に裏切り者も多く出したが、狂信的な者達が彼を支え、同盟軍に敗北した後にどこかへ消え去ったという。彼自身は『ナチス』という言葉を嫌っていたらしく、その呼び方が知られて同盟軍の首脳で用いられたそうだ」
「……異世界に来ても嫌われるんだな」
「魔王を倒した恩寵の騎士が討伐されるという伝承も多い。君も他人事ではないぞ」
「ああ、俺は……」
「恩寵の騎士を迎えた時と、魔王を倒した時は希望を叶えるのが慣行だ。君の望みは何だ?何を聞いても驚かないが、言わなくても構わない」
タイユフェールの言葉を真に受けて、アカツキは本当のことをそのまま言ってしまった。
「俺は、元の世界に帰りたいと思っています」
だが、アカツキの言葉にタイユフェールは首を傾げた。厚い眼鏡を外してレンズに被せていた布を耳に突っ込んで、ゆっくりと布を払うとレンズに被せ直して薄い眼鏡をかけ直し、首を回した。
「アカツキ。何の冗談だ?」
「何が冗談なんですか?俺は元の世界に帰りたいと思っています」
「うん?元の世界に帰りたい、そう言ったか?」
「はい」
二回聞き直したタイユフェールが、両手の指を組んで落ち着かなさげに動かす。正気を疑うような眼差しに、アカツキは何かとんでもない事を言っただろうかと戸惑った時、部屋の扉の外で何かが落ちる音がした。タイユフェールは立ち上がり、外開きのドアをゆっくり開けると、そこには怯えた顔をした双子のメイドの片方がいた。
「今の話、聞いていたな?」
「い、いえ、聞いていない、私は何も」
「マリーか。入れ」
タイユフェールがマリーを引きずり込むと、部屋の外に出て扉を閉めた。ガチャガチャと金属音がして、すぐにタイユフェールは部屋の中に戻ってきた。ティーセットの破片が乗った盆を持って、挙動不審なマリーに差し出す。
「お前はそこの椅子に座って、これからする話を聞いていろ。なあ、アカツキ。君は恩寵の騎士の伝承を全く聞いていないんだな?」
部屋の扉にもたれかかったタイユフェールがアカツキをほぼ睨みつける。ここで理解したのは、今『おかのした』とか絶対に言ってはいけないことと、伝承とやらを全く聞いていないと言わなければならないことだけだと察した。だが、正解は黙っている事だった。タイユフェールはアカツキの言葉を待たずに口を開いた。
「恩寵の騎士には、一つの共通点がある。誰でも知っている事だ」
アカツキは自分が何を言われようとしているのか、さっぱり分からなかった。だが、マリーも青ざめている。一体この二人は何を知っているのか、変に緊張せざるを得なかった。
「マリー、お前も知っている筈だ。恩寵の騎士がどこから来るか」
「言えません、私、言えません」
二人の様子をアカツキはただ見ているしかなかった。何が問題になっているのか、全く分からなかったからだ。
「では、私から言おう。アカツキ、君は向こうの世界で殉死したな?」
殉死。ちょっと違うが、まあ、ざっくり死んだのは間違いない。
「そっか、死んだのか俺。ちょっとまあ、頑張ったんだけどな」
「それで、君の望みは何だったかな?」
「元の世界に戻る事だ」
淡々と言うアカツキに、二人は信じられないという顔を向けている。俺、何かやっちゃいました?って思わざるを得ない空気が部屋を満たす。
「……、マリー、彼は向こうの世界ではあまりモテなかったそうだ」
「それは今は関係なくないかタイユフェール」
「大事な事だ。彼には知らない事も教えられるだろう、なあ?マリー」
顔を赤らめて俯くマリーが小さく頷いた。
「いやいやいやいや、そういう事ではないぞ?俺は、えっと」
この状況で母親と約束があるからとか、ちょっと言えなかった。それが更に誤解を招いたのか何なのか。
「私は少し散歩に行ってくる。二人とも、部屋をあまり汚さないでくれよ」
そう言って、タイユフェールは素早く部屋を出ていった。言い抗う時間も無く、扉は閉められた。
「……」
「……」
二人して固まり、何を話していいかも分からなかった。マリーは俺の方を見ず、やはり恥ずかしそうに俯いている。俺は反対の方向にある窓の外を見て言った。
「星、綺麗だな」
「そうですね」
そのまま夜明けまで、二人は何も喋らず椅子に座っていた。夜明けが来るまで、ずっと二人で星空を眺めていた。