算数術
ブルーノ候の居館に、町で雇った家庭教師が逗留していた。季節が暖かくなるまで何もする事が無いヴァランスでは、農民達は大人の男達が出稼ぎに出るなどして糊口をしのいでいる。子供達はおろか大人ですら数も数えられず、それではいけないと恩寵の騎士であるアカツキが主張して、学校を開くことになったのだ。費用はアカツキがブルーノ候から借りるという条件で承諾したが、マトラによれば恩寵の騎士が貧窮して王国が助けない訳はないから心配しなくていいと言われて、ひとまず信用する事にした。
「アカツキ、閏月の計算が終わったら他の人の勉強を見てあげてください」
「了解っす」
家庭教師の職を求めていた天文学者のタイユフェールは、恐ろしく厳しかった。彼が自ら編み出したという微分積分の計算をアカツキは一週間で叩き込まれ、実質的に彼の助手としてこき使われている。生徒達は、子供から大人、老人まで領内の様々な人々が集まっている。居館に蓄えられている飢饉用の麦を取り崩して、真面目に受ければ一日一人分の麦を渡すと触れを出すと、思った以上の領民達が集まった。青空の下、少しでも算数が出来る者達が教わりながら入れ替わり立ち代わりに生徒達の間を歩いて回り、ようやく成り立っていた。
「アカツキ様、ここが分からないのですが」
「リュカ、私が教えましょう」
「よっしゃあ!終わった!リュカ、何が分からないんだ!?」
黒い炭で数式を書きつけた数枚の麻布をタイユフェールに押し付けると、アカツキは少し年下の少年の背中を叩いた。タイユフェールは麻布に書かれた数式に目を通し、二桁の掛け算を教えるアカツキの背中に言い放った。
「アカツキ。続きは夜にしましょう」
「了解っす」
アカツキは目を合わせずに低い声でぶっきらぼうに返事をする。常に偉そうなタイユフェールに対するせめてもの反抗だった。最近では、村々で不服な命令に従う時の言葉として流行っているらしいと、ミレーユから聞いた。
「アカツキ様、ごめんなさい」
「いいよ。タイユフェールは何やってもどんどん難しい事を言ってくる。厳しいけど、悪気がある訳じゃない」
「アカツキ様は何を教えられているんですか?」
「今は、月がいつ満月になって新月になるかの計算を教えられている」
「へえ、僕にも計算できるかな」
「出来るよ。リュカは頭が良いからな」
リュカが躓いているのはアカツキでも教えられる所だった。分からない理由を推測して教えると、自力で解けるようになった。アカツキは一つ一つ検算し、全問正解しているのを確かめた。
「いいね。リュカは算数の才能があるよ」
「そうなんですか。自分ではわからないです」
「だよな。自信持てよ」
このくすんだ黄色の髪を持つ少年は、日頃の農作業の手伝いで焼けた顔が印象的だった。嬉しそうにはにかむ彼はアカツキの世界で言えば小学校高学年くらいだろうか、算数の呑み込みは早い。タイユフェールに付けばアカツキよりも難しい算数や数学の領域にも素質がありそうだった。
「ねえ、僕の問題終わっちゃったから、フランツに教えてやりたいんだ。ねえアカツキ、いいかな?」
「フランツ、か」
フランツは、リュカの親友だった。同じ年に生まれたというので仲がいいが、フランツは青空教室では不出来な部類だった。多分、アカツキは彼を発達障害の類だと推測していた。
「あいつは、俺が教えるよ。もっと幼い子に足し算と引き算を教えてやってくれ」
「でも、フランツは頭が良いんだ。計算ぐらい、頑張れば出来るよ」
「思いあがるな。フランツは俺が教える」
アカツキの思いのほか強い口調にリュカは少し怯えた表情をした。それを見たアカツキは、空を見上げて言った。
「あいつの家は鍛冶屋だから、数字よりも鉄を見る方が向いてると思う。リュカは鉄の善し悪しなんて分かるか?」
「フランツは良くお使いに出て、釘の数を間違ってよく親に怒られてるんだ。だから、算数はフランツに必要だと思う」
「まあ、俺に任せろ。あいつが鍛冶屋になったら、リュカが釘の数を数えてやればいい。だから、リュカはリュカで勉強しなきゃいけない」
「そうだけど、フランツは幼い子供達にもバカにされてるんだ。放っておけない」
「じゃあ、恩寵の騎士の俺は誰よりも魔法が使えるから、誰よりも偉いのか?」
「アカツキは世界を救うために……」
「子供達を馬鹿にしても構わないと言うのか?」
「それは……、」
アカツキはリュカの背中を叩いた。
「俺も王宮ではバカにされるし、タイユフェールには怒られる。お前のお父さんにも、算数なんか教えて何になるんだって怒鳴られた」
「お父さんがアカツキを?」
「ついでにマトラにもブルーノ候にも説教されたけど、俺は何も恨んでいない。言われて当然の事だからだ」
「でも、子供たちがフランツを馬鹿にするのは違う……」
「あいつは、大人になっても同じことを言われるかも知れない。だけれども、計算のできないフランツは嫌いか?」
言われてリュカは考え込んだ。そして言った。
「でも、フランツは子供達に乱暴な事はしない。フランツは馬鹿にされて怒るけれど、子供たちは僕よりもフランツが好きだ」
「そうだな。フランツにはフランツの良い所、リュカにはリュカの良い所があるんだ。心配するな、任せろ」
「うん」
とは言え、フランツはあまりにも出来なさ過ぎた。リュカが子供達を教えに行くと、俺はフランツの所に行った。そうして、最悪の光景を見た。タイユフェールがフランツに付いていたのだ。
「……」
「……」
黒いくせ毛でリュカよりも焼けた顔の体格のいいフランツは炭を投げ出し、タイユフェールは腕を組んで仁王立ちをしていた。周りの人間達は苦笑いやら何やらで、好奇の眼差しを二人に向けていた。
「なー、算数が出来てる奴は、月の計算を手伝って欲しいんだけどなー」
今やタイユフェールの次に算数が出来るアカツキの大声の一言に、人々はぞっとした顔をして注意を自分の麻布の方に向ける。麻布はそれぞれが持ち帰り、秋に作る石鹸と縄で炭を洗い落とすのだ。麻布は各自が古着を解いたり買ったりする。持って来ない者には渡す麦を少し減らす代わりに貸し出したので、麻布のあるなしで授業が受けれない事は無かった。
「アカツキ。あなたに任せていいですか」
「何でも闇雲に厳しくしても良い事ないぞ」
流石に気分を悪くしていたアカツキが食って掛かると、タイユフェールは眼鏡をくいっと上げて言った。
「算数屋も鍛冶屋も長年の修行と素質が必要なのは、同じ事です。あなたみたいな子供に説教されるほど、私も若くは無いのでね」
タイユフェールの冷たい視線に、アカツキは思わず見透かされたような気持ちになった。たじろいでいると、タイユフェールは他の者を見に行った。フランツを一番笑っていた子供の方に向かって行くあたり、三十を超すという彼も薄情に見えるが何ら思ってないようではなかった。
「大丈夫か、フランツ」
「ははは、いや分かんねえっす。算数って、俺には向いてないんですかね」
「分かる所まで頑張ろう。何ていうか、得意でない事を分かるのも修行だと思うんだ」
「得意でない事を分かる、か。アカツキさんは良い事言うや」
半ば涙目でも笑顔を浮かべる彼を見て、アカツキは心が痛んだ。8+7=16、9+5=15という一見して何がどうなったのか分からない答えに、恐らく繰り上がりがあると全部の数字を足してしまうという仮説が当てはまるように思えた。タイユフェールに分からない筈もないが、恐らくアカツキが困る気持ちと同じだろうと察した。