鳥になりたい
俺は今、白血病の末期を迎えて死につつある。ICUで多くの機械に囲まれる中、俺の左手を両手で握りしめる母親の手が温かい。
「幸太郎、大丈夫だからね。お医者さんが大丈夫だって言ってるから、心配しないでいいのよ」
母親の願望を投影したような嘘に笑ってしまう。治療が中止されて以来、鎮痛剤を投与されるようになった俺は、力の入らない手で母親の手を握り返す。同じ部屋にいる医者と看護婦は何も言わずに、ただ待っている。多分、次に意識を失ったら全てが終わるのだろう。
「そっか。じゃあ、心配しない」
俺は暁幸太郎、家庭菜園が趣味の普通の中学二年生だ。付き合い程度にはゲームもやるが、適当にラスボス倒してアイテムと隠し要素をコンプすると、もうする事が無くなる。だが土いじりを始めてから八年、インターネットを使えばいくらでも情報が得られて無限のやり込み要素があるガーデニングは未だに飽きず、専門書も何冊か持っている。学校には残念ながら園芸部は無いが、担任が色々と気を配ってくれて学校でも小さな畑を作っていた。
「今日ね、クラスメイトの子達が学校の畑でとれたサツマイモを持って来てくれたのよ。幸太郎が元気になったら食べれるように、干し芋にしようと思うの。幸太郎はどう思う?」
返事の代わりに手を握り返す。サツマイモの次は玉ねぎになるんだろうなと思った。基本的に地面に埋まっているので、一度植えてしまえば世話は楽だ。本当はキャベツを作ってからの大根を作るというスケジュールを考えていたのだが、担任一人では手間がかかり過ぎるのだろう。半ば強制的に参加させられるクラスメイトの事も考えると、畑を放置されるくらいならば幼稚園児でも出来るレベルの作物でも作ってくれるだけ有難かった。
「お母さん、応募していた市民農園が抽選で当たったの。幸太郎の体調がよくなったら、一緒に見に行こう?これから冬だから、ほうれん草なんかいいと思うの。ほうれん草はね、鉄分が、鉄分がね」
そう言って、母親は泣き崩れた。俺は黙って濃い酸素で肺を満たす。俺はもうすぐ終わるんだろうなと、妙な直感があった。母親が再び顔を上げると、俺は目だけを向けた。
「俺さ……、死んだら鳥になりたいんだ。いつでもさ、好きな時に家に行けるからさ」
「え?そんな事言わないで、諦めちゃダメよ。きっと良くなるわよ」
「うん。俺、生きたい。やっぱり死にたくないな」
強がって笑おうとしたが、意識が朦朧として声もまともにでないようだ。母親はずっと顔を近づけて、かすかな俺の声を拾おうとしている。
「なあ、母さん。春キャベツ、もう収穫した?」
それが、この世での最期の言葉になるんだと思った。入院したのはちょうど半年前だ。意識が消える直前、幸太郎は今が秋だと思いだした。朦朧とする意識の中、最後に考えたのは八年前に、生まれて初めて収穫した時のトマトの赤さと味だった。
『あ!鳥が食べてる!』
『美味しく育ったから鳥さんも食べたくなったのよ。幸太郎も食べてごらん?』
『うん!』
『どう?おいしい?』
『おいしい!』
こうして、俺という物語は幕を閉じた。
「幸太郎」
気付くと、温かい風が吹いている。地面があるようなないような不思議な浮遊感に包まれて、妙に気持ちがいい。枕元にある筈の時計を取ろうとするが、手探りでは見つからない。
「幸太郎。幸太郎」
ぼんやりと、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。布団を引き寄せようとするが、ベッドから落としてしまったようだ。横に寝返って体を縮こませる。
「……あと五分だけだから」
「起きなさい。起きなさい、暁幸太郎」
この声は母親じゃない。呼びかける声に違和感を感じて目を覚ますと、闘病生活中にずっと付きまとっていた薬の副作用が消えている。ついでに髪の毛もある。体を起こすと、俺は良く分からない空間で寝そべっていた。
「幸太郎。あなたの世界の神に掛け合って、あなたの魂を借りることになりました」
なんかヤバい事言ってる声のする方に顔を向けたら、白人のすごい美女がいた。何事かと体を起こして周囲をキョロキョロすると、上下左右360度が星空に包まれている。
「私は女神イシュタル。力を与えましょう。その力で私の世界を救いなさい」
自称女神のイシュタルさんは唐突に無茶苦茶な事を言いだした。ボンヤリした頭で、これが臨死体験かと思った。すると、この話にNOと言えば生き返る可能性があるのではないだろうか。まだ死にたくない、その思いで口が動いた。
「断る!俺はまだ死ねないんだ!」
女神を名乗る女は首を傾げて幸太郎の顔をじっと眺めた。何かを合点したようで、手を唇に当ててクスクスと含み笑いをした。美しい金色の緩やかなカーブを描く長い髪の毛が揺れる。
「何がおかしいんだ?」
「さあ、嫌ならそのように伝えればいいでしょう。行きなさい」
「伝える?誰に?何を?」
その質問には答えずに、謎の女神は言いたい事だけ言って光の中に消えた。俺も眩しい光に包まれて、気が付くと目の前に可憐な少女が跪いて俺に向かって祈っていた。
「誰?」
見回すと俺は祭壇らしい物の上に立っていた。神殿のような部屋は、柱の列に挟まれた低い場所に魔法使いや騎士・貴族の格好をした人達が合わせて十人くらいいた。その表情は至って真面目だが、値踏みをするような目で見ている者も少なくない。異世界に来た俺の最初の発言は、とても間抜けだった。
「なんだここは?」
理解を超える状況が続いて混乱している俺が突っ立っていると、俺の前で跪いていた少女が目を開いて俺を見上げた。さっきの女神と見まがうほどにそっくりだと思ったが、その顔立ちは一回り幼い。と言っても、多分俺と同じくらいの年齢ではあろう。正直、可愛くてドギマギする。
「あなたが、恩寵の騎士様ですか?」
「恩寵の騎士?なんだそれ」
全く空気が読めない俺が困惑していると、少女の後ろで誰かが失笑した。少なくとも、好意的な雰囲気はない。笑いを噛み殺してる貴族風の若い男を睨みつけると、俺の視線に気づいた男は聞こえよがしに声を上げた。
「ははは、確かに何もない空間から人間が出てきましたな!それで姫様、この方はどなたで?」
完全にバカにされている。姫様と呼ばれた少女は立ち上がって振り向くと、小さくため息を吐いた。誰かが咳ばらいをすると、魔法使いの老人がフードを降ろして祭壇の前に出てきた。こちらは全く笑わず、俺の顔を真剣に凝視している。
「しかし、凄まじい魔力じゃ。うぬの名前は?」
老人の迫力に気圧されたが、怯んだらまた貴族に笑われそうなので虚勢を張った。
「俺は暁幸太郎だ」
「ほう、うぬの名前はアカツキか。変わった名前で興味深いのう」
アカツキは名字だと言い掛けたが、老人は食い気味に問うてくる。
「前の世界でのうぬは何をやっていた」
「……学生だ」
俺が正直に答えると、件の貴族が手を叩いて笑った。
「学!生!するとなんだ、お前は自分を教育を受けている人間だと言いたいのか?女神もとんだ子供をよこしたものだ!ははは、服もなんだそれは!学生ではなく道化の間違いではないのかな!」
言われて自分の恰好を見ると、学校の制服を着ていた。紺のブレザーのジャケットに白いシャツと緑のネクタイ、黒地に暗い赤の格子が入った個性的なデザインだ。学校外で非行をしても連絡が間違いなく来るようにという目的でこんなデザインになったそうだが、反対が多かったらしい。
「ほら、踊ってみろよ。なにせ世界の命運がかかってるんだからな、ははは」
それはともかく、この失礼極まりない貴族は性格が悪すぎる。もうぶん殴ってやる、そう思った時だった。全身が金縛りのように動かなかった。いや、操られている。俺の口が勝手に動いたのだ。
『イシドール・ド・ラファージュ。あなたは私を愚弄するのですね』
突然、短い人生でついぞない怒りが背骨を這いあがっていった。俺の意思に関係なく体が動き、俺の手が勝手にさりげなくお姫様を優しく抱きしめて頭を撫でると、幸太郎の後ろに下がらせて俺は祭壇を降りていく。右手に炎、左手に氷を生じさせて、それぞれが剣と盾の形になった。祭壇の上のお姫様が悲鳴交じりの懇願を叫んだ。
「やめて、イシュタル様!ラファージュは、ただの正直な男です!彼に悪気はないのですよ!」
階段を降り切った所でお姫様が叫んだが、俺に憑依したイシュタルは意に介さない。悪気が無くてこれなら完全にアウトだろと他人事のように思っていると、ラファージュ君は俺の両手から迸る炎と氷を見て流石に物を言えなくなった。震えながら後ずさりまでしている。そんなに怖いなら最初から言うなよとは思った。
『お黙りなさい。イシドールの挑戦を受けたのはこの私ですよ。あなたには関係のない事』
イシュタルに支配された俺の体が、半分振り返ってお姫様に言い放つ。これはまずい、これイシドールが完全に殺される流れだ。変な世界に呼び出されて最初にやるのが人殺しなんて勘弁だと思った。
(ま、待ってくれ。これは人間同士で決着をつけるべき事じゃないのか)
俺の必死の呼びかけに、女神の動きが一瞬止まる。だが、やはりイシドールを執念深く目で追っている。他の連中は跪いて顔を伏し、助ける気はないようだ。
『では、幸太郎。あなたがアレをどうするか、見て差し上げますわ』
女神はわざわざ声に出して返事をした。普通なら明らかおかしい人だが、それで一層イシドールは怯えて柱の方に向かって後ずさりしている。
一方、俺の体は自由になったが、炎と氷は消えてくれない。せめてもっと形を決めて欲しいと考えると、右手の炎は剣に、左手の氷は盾の形になった。熱かったり冷たかったりはしないが、ちょっと試すつもりで炎の剣を床に刺すと、熱で溶けて赤熱した。これは人間に当てると死ぬなあと、妙に冷静に考えた。
女神に喧嘩を売った無抵抗の人間を殺さずに済ませる方法は、恐らく一つ以上ある。イシュタルの機嫌を直せそうな方法があるとすれば、やはり適当にボコって締め上げてとにかく謝らせる事だろう。とにもかくにもイシドールに謝らせればワンチャンある。
「悪いな、イシドールさん。そういう事だ」
一言だけ言い捨てて、俺はイシドールに向かって走り込んだ。
「死ねや、このボンクラ貴族がぁ!!!」
「な、なにをする気だ、俺はラファージュ家の」
「うるせえよ!」
完全に間合いに入った。俺は炎の剣を振りかぶり、盾を横に向ける。死の恐怖に染まるイシドールの顔をよく目に焼き付けた。そして。
「シャイニング、ウィザーーーーーーーーーーーーーーー」
ド。適当なプロレス技を叫び、跳び膝蹴りをかました。厳密にはシャイニングウィザードではないが、異世界の人間には分からないから大丈夫だろう。氷の盾でぶん殴っても良かったのだが、このドSな女神の力はなるべく使いたくない。横に振った膝蹴りはイシドールの胸板に当たり、奴は後ろにこけて悶絶した。
「痛い……、だが、普通の蹴りじゃないか。何が女神イシュタルの力だ。こんな茶番、俺は認めんぞ」
しかし、謝るという雰囲気は決してない。胸の中心に綺麗に入って尻餅をついているのにも関わらずイシドールの口は減らないので、俺は舌を巻いた。何と言えばこいつを黙らせる事が出来るのか、黙れ殺されたいか、ぐらいか?マジで勘弁してくれ。そう思った時だった。
『黙れ、殺されたいか』
体がまたイシュタルに乗っ取られる。今度はイシドールではなく立ち並ぶ柱の一本に向かって歩み寄る。いつの間にか顔を上げていた魔法使いの老人が、慌てて問いかけてきた。
「女神さま、今度は何を」
魔法使いの老人が言い終わらない内に、女神は俺の左手にある氷の盾で柱を叩いた。柱は一瞬で氷結し、すぐに分厚い氷に覆われた。盾でぶん殴ってても即死攻撃とか、とてもクレイジーな力を何の説明も無く与えてくれている。頼もしい限りだ。
『イシドール。今一度問う。殺されたいか?』
(気に入ったんですかそれ)
イシュタルに憑依された俺はイシドールを見下ろしている。彼の股間から色々漏れているし、もういいじゃねえかと言おうとした時だった。魔法使いの老人が両膝をついて平伏していた。
「女神様、この者は軽率ですが、心の全く悪い人間ではございません。わし等がきちんと言い含めますので、イシドールをお許し下さい」
(マジかお前どう考えても苦しいだろそれ)
しまったと思った。俺の心の声は今、イシュタルに筒抜けなのだ。俺の顔が魔法使いの老人の方に向く。何事か思案をした様子だったが、ふと柔らかな感情が怒りの中に混じるのを感じた。
『いいでしょう。私はいつもやり過ぎる。コッペル、アカツキ、フォルジュハイム、今回はあなた方に免じて許しましょう。さようなら』
女神がそう言うと、体から怒りが消えて、ついでに気力と体力も失われていた。柱にもたれて座り込むと、とてつもない疲労感が全身に走る。その時、誰かが俺の前に立った。さっきの老人だった。
「アカツキ。うぬは、何が望みじゃ」
「元の世界に……」
それから俺は意識を失ったらしい。老人が何かを指図する声だけが記憶に残っていた。