①
異世界転生なんて、するもんじゃないなぁ……。
窓もない、石造りの小部屋。
小さなベッドがひとつあるだけの簡素な内装。
扉の代わりには、鉄格子のかかった檻。
ーーそう、ここは牢屋である。
一人の少女がベッドに腰かけ、打ちっぱなしの汚れた天井を眺めていた。
顎の下で切りそろえた灰色のストレートの髪の毛は少し乱れ、大きな同色の瞳には疲れたような光が浮かんでいる。
おまけに、濃緑のメイド服は裾に泥がついてしまっていた。
なんでこんなことになっちゃったかなぁ……。
少女は、ここまでの出来事を反芻していた。
前の人生では、保育士として働いていた。
仕事は楽しくやりがいがあったけれど、保育士の人数が少なく、なかなか休みが取れなかった。
友達もそれほど多くはなく、また休みが合わないので、学生時代の友人たちと遊びに行く機会も徐々に減っていった。
そんな中、唯一の楽しみが仕事から帰ってきてから乙女ゲームをプレイすることだった。
特にハマって何度も繰り返しプレイしたのは、剣あり魔法ありのファンタジー系の乙女ゲーム『サフィロスの翼』、通称『サフィつば』だった。
そして今。
少女は『サフィつば』の世界である、サフィロス王国に転生していた。
自分がどうやってこの世界に来たのかは覚えていない。
ただ、突然に思い出してしまったのだ。
しかも、最悪のタイミングで……。
◇◆◇◆◇◆
クレメンス伯爵令嬢であるセシリアは、華の十七歳。
この世界のヒロインのポジションにいる令嬢である。
クレメンス伯爵の出世に伴い、最近王都へ移ってきたばかりの社交界のニューフェイス。
茶色の長い髪に大きな黒目の、どちらかというと日本人の可愛い女の子を意識した外見。
ゲームでは名前の公式設定は一応はあるものの、プレイヤーが好きに変えることができたはずだ(どうやら、ヒロインの名前はデフォルトのままであるらしかった)。
ストーリー序盤では大人しく目立たないという設定だが、その心優しい性格と素直で飾らない立ち振る舞いで、攻略対象の登場人物たちを次々と虜にしていく。
癒やしの魔法を得意とする彼女は、怪我をしたキャラクターを手当てしたり、あちこちで活躍する有能な魔法使いでもあった。
そのセシリア嬢の居室で、ひっそりと動く影があったーーメイドのノエルである。
ノエルは、セシリア嬢の恋のライバルである、ローレル侯爵令嬢ダリアのお付きのメイドだ。
ゲームでは、ダリア嬢はありとあらゆる手を使ってセシリア嬢を陥れようと画策する、いわゆる悪役令嬢だ。
ノエルは、そのダリア嬢や取り巻きの令嬢たちに付き従い、セシリア嬢に嫌がらせをするという、悪役令嬢のさらに下っぱという役どころであった。
しかも、ダリア嬢は自分では決して手を下さず、汚い仕事はすべて側使えの立場であるノエルがやるのだ。
この時も、ダリア嬢に命じられて、セシリアのドレスに毒の針を仕込むべく、部屋に侵入していた。
この日の舞踏会に着る予定である、きらびやかなドレスがノエルの目の前にある。
この世界では、毎月決まった日に夜会が行われ、そこでは各月のテーマカラーのドレスを着用する。
1月は赤、2月は黄色のドレス、といったように、テーマカラーは十二色ある。
これはゲームの中でスタートからエンディングまでが一年間という設定だからだ。
毎月の舞踏会に誰と出席するのかといった事柄がゲーム攻略に大きく関わってるくるため、ドレスの準備にはどの令嬢も余念がない。また、好感度が高いと、攻略対象のキャラクターがプレイヤーにドレスを贈ってくる場合もある。
今月は青がテーマなので、セシリアのドレスもブルーを基調としながらも、白や水色の宝石が散りばめられた豪奢なものだった。
これは、攻略対象であるこの国の皇太子ーージュードが贈ったものだった。
ダリア嬢はジュード王子がセシリア嬢に高価なドレスを贈ったことが面白くなく、ノエルに針を仕込むように命じたのである。
毒針を手にしたノエルは、今まさにドレスに針を突き刺そうとしていた。
その時、である。
稲妻に打たれたように、ノエルの身体がびくんと震えた。
「あっ……!? 私……!? 転生……。そ、そんな……」
走馬灯のように前世での記憶がノエルの脳裏を駆け巡る。
そして、理解した。
大好きだった乙女ゲーム、『サフィロスの翼』の世界に来てしまっていること。
自分はヒロインでも、敵役の悪役令嬢でもなく、そのお付きの悪役メイドであること。
今まさに、毒針をヒロインのセシリアのドレスに突き刺そうとしていること。
ノエルは思わず毒針を床に取り落とした。
「私、なんてことを……」
次の瞬間ーー。
「そこまでだ!!」
扉が開き、セシリア嬢、ジュード王子、そして衛兵たちが部屋に入ってきた。
「あ、貴女は……ノエル! ダリア様のお付きのメイドではありませんか! 貴女がなぜこんなことを!?」
セシリア嬢のセリフだ。
茶色の長い髪に大きな黒い瞳。
公式設定そのままの、可憐な外見だった。
ジュード王子がセシリア嬢を庇いながらノエルに近づく。
金髪碧眼の麗しい王子が、今は鬼の形相であった。
「さしずめ、ダリア嬢が貴様を送りこんだのであろう。衛兵ども! この娘を捕らえよ!」
「はっ!!」
ーーそっか、このシーンなんだ。
ノエルは瞬時に理解していた。
ヒロインのドレスに毒針を仕込もうとしていた悪役メイドを現行犯で捕らえたことをきっかけに、その主人であるダリア嬢はこれまでの数々の罪を断罪される。
ダリア嬢の断罪イベントは、ジュードルートでのハッピーエンディング直前の一番大きな波乱で、これにより二人の愛はより確かなものとなるのである。
ブルーのドレスの次の月は、白のドレスの月ーーエンディングの月である。
最後となる舞踏会で、ジュードが白いドレスを着たセシリアにプロポーズをするのだ。
ウエディングドレスならぬ、エンゲージドレスというわけだ。
もはやエンディングは近い。
ジュード王子が、まるで汚い物を見るかのような蔑んだ眼差しをノエルに送ってくる。
ジュードは一番人気のキャラクターで、ノエルが一番好きだった攻略対象でもある。
ちょっと強引だけれど、可愛いところもあって、本当は優しい王子。
剣も魔法も得意で、ヒロインの窮地には必ず駆けつけてくれる……。
しかしそれは、ゲームのヒロインだけに向けられる顔なのだということを、ノエルは痛いほど理解した。
今の自分は、ヒロインどころか、ヒロインを傷つけようとしたメイドーー。
メインの悪役ですらない、下働きなのである。
衛兵がノエルの腕を取る。
ひきずるように連れてこられたのが、この牢屋だった。
「しばらくここに入っていろ! 貴様の処遇は追って沙汰する!」
ガシャン……と、冷たい檻の音が牢屋に響き渡る。
もう何もかもが手遅れだった。
ダリア嬢が断罪される時、ノエルも一緒に断罪されるのだ。
確か、ダリア嬢は貴族の身分を剥奪され国外追放。
しかし、ノエルは実行犯ということと、平民の身分でありながら貴族の令嬢を害しようとした罪は重くーー。
「死刑になるんだったわよね……」
ノエルの独白は牢屋の壁に吸い込まれ、誰に聞かれることもなかった……。