主任とルーキー、大団円(4)
頬が熱い。
立ち止まり、向き合って、手を繋いだまま、お互いに真っ赤な顔をしている。
「どうお呼びしたらいいでしょうか、その……」
ここまで言われると、最早『主任』とは呼べない。
かと言って他の呼び方がするりと出てくる状態でもないから、私は尋ねようとした。
「何て呼びたい?」
そこへすかさず尋ね返されたので、考える。
年上の方だから呼び捨ては絶対駄目、だとするとさん付けになるんだろうか。
「ええと、い、石田さん……とか」
答えたら、ものすごく嫌そうな顔をされてしまった。
「そんな他人行儀な呼び方、へこむから止めてくれ」
「いけませんか」
「駄目。却下だ」
となると残る選択肢は、一つくらいしか浮かんでこない。
「お名前で呼んだ方がいい、ってことですよね」
「そうだな」
今度の質問にははにかまれた。
「そっちの方が恋人らしい感じがする」
うれしそうな言葉だった。
私だって、好きな人の望むことは叶えたいと思うし、幸せにしたいとも思う。先月だって思った、この人の為なら何でも乗り越えられるって。
だから、
「あのっ」
「どうした、藍子」
「ええと……」
目が合ったら心臓がひとりでに跳ねた。続けようとした声は喉元で止まる。頭に浮かんでいた固有名詞はあっさり雲散霧消する。以前にいただいた名刺の文面を思い出し、掴まえて再び引き戻すのに数秒掛かった。
「あの……」
固有名詞が浮かんでいても、言葉が続かない。
立ち止まったまま、逃げ出したくて、項垂れたくなる。
「その……」
ためらってばかりの私の右手を、大きな手がぎゅっと握ってくる。それでまた心臓が跳ねた。
だけどこの手の為にも、握ってくれた今の気持ちの為にも、一番大好きな人の為にも、乗り越えなくちゃと思った。強く思って、私は次の瞬間、力一杯息を吸い込んだ。
言った。
「た、隆宏さんっ」
酷い声になった。
引っ繰り返って、甲高くて、そのくせ震えた不格好な声。さっきの深呼吸で間違ってヘリウムガスでも吸い込んじゃったのかもしれない。そのくらい無様な呼び方になった。
ちらと主任を見たら、目が合った瞬間に吹き出された。
「わあ、笑わないでくださいっ」
「いや悪い、可愛いなと思ってな。本当だって、馬鹿にして笑ってるわけじゃない」
そう言いながらげらげら笑っている。
でも私も、主任になら笑われるのは嫌じゃなかった。今の不格好さは自分でもわかっていた。
「私、家でも練習してきますから」
「は? 家でって、何をだ」
「主任のお名前を呼ぶことです」
笑うのを止めた主任が、今度は口をぽかんと開ける。
その表情に向かって私は頷く。
「淀みなく、自然に、ちゃんと呼べるように練習してきます」
「練習ってお前な。そこまで大した話じゃないだろ」
「大した話です。主任が私のこと、『藍子』って呼んでくれたみたいに、私も自然に呼べるようになりたいです」
私だってどうせなら、好きな人の名前を呼ぶ絶好の機会を狙いたい。そういう時に噛んだり、声が上擦ったり、呼び間違えたりするのは嫌だ。ちゃんと呼べるようになっていたいから、練習してこようと思った。
「主任だって私の呼び方、私のいないところで練習してくださってたんですよね」
「いや、あれは練習ってわけじゃないんだが……似たようなもんか」
「だから私も頑張ります」
私が頼み込むと、主任は戸惑いつつもやがて苦笑を浮かべた。
「いつまで待てばいい?」
「え、ええと、じゃあ、年度末までには!」
今年度中に決着をつけるべきだと思う。
だから決めた、ルーキーとして最後の日を、タイムリミットにしようと。
「結構掛かるな」
「す、すみません。でもその日までには、完璧に呼べるようになってきます」
「わかった。だったら俺も、ホワイトデーのお返しは三十一日にする」
上着のポケットに右手を突っ込んだ主任が、目の端でちらと私を見る。ポケットの中には何かを、大切そうに隠し持っているようだった。私が気付いた時、そっと言い添えられた。
「お前の頭の中、既に一杯みたいだからな。今は渡さない方が良さそうだ」
でも私は、その事実だけで更に一杯になってしまった。びっくりした。
「お返し……用意してくださったんですか?」
「ああ」
「そんな、だって、営業課でも皆さんからいただいてました」
「俺は個人的にも貰ってただろ? そっちのお返しだよ」
まさか個人的にいただけるとは思っていなかった。私のあげたものは例のチョコレートリキュールだけなのに。さすがに恐縮したくなる。
「あ、あの、ありがとうございます。すみません、お気を遣わせてしまったみたいで」
「別に遣ってない。それに渡すのは今日じゃないからな、礼はその時でいい」
主任は笑う。
「俺を待たせるからには、しっかり練習してこいよ」
「はい。もちろんです」
頑張る。絶対に。
繋いだ手が軽く引かれて、またゆっくりと歩き出した。
さっきよりも距離が近い。時々、肩がぶつかった。
「どうせ、今日も帰る気なんだろ?」
「えっ、それもその、もちろんですけど」
「泊まってけって言っても聞かないだろうな」
「わあ、む、無理ですよ! だって私、何にも用意してきてないです!」
化粧品も着替えもあの可愛いルームウェアだって持ってきていないのに、泊まりになんていけない。そう思って答えたら、主任は案の定というそぶりで頷いた。
「わかってる。用意が必要だよな、何事も」
春の月光を浴びた表情は、当たり前だけど大人っぽくて、余裕ありげだった。
三十歳って数字は、今でもすごく、偉大に思える。
ルーキーイヤーの最終日がやってきた。
三月三十一日。年度末は、思っていたほどドラマチックではなかった。年度末と月末らしい忙しなさで、定時を四時間ほど過ぎたところで退勤した。
明日は四月一日、新年度が始まる。朝礼で社長の訓示があることの他は、今のところ特別な行事もないらしい。新入社員が配属されてくるのは私の時と同じく五月から。営業課に新人が来るのかどうかはわからないけど、新年度を迎えてもしばらくの間は、私が一番の新参ということになるみたい。
そして当たり前だけど、明日も勤務だ。取引先をあちこち回るスケジュールを立てている。だから社会人二年目もそれほどドラマチックな幕開けはせず、仕事に追われたり、仕事を追い駆けたりしながら過ごすんだろうなと思う。
きっとそんなものなんだろう。
人生にはたくさんの節目があるのかもしれないけど、節目の前と後には普段の生活がある。
ともすれば劇的なことばかりに目が向いてしまう私は、そのくせ毎日のように何かかにかであたふたしている。これからも大して劇的ではないはずの日々に、うろたえたり、動じたり、慌てふためいたりするのかもしれない。
だけど二年目は、せめてもうちょっと落ち着いていたいなあ。
「お疲れ、小坂」
定時を四時間過ぎたタイムレコーダーの前で、主任が声を掛けてきた。
私は向き直って答える。
「お疲れ様です、主任」
そう呼ぶと、未だに主任は照れたような顔をする。勤務中にそんな表情をされるとこっちまでどぎまぎしてしまう。
あの話を打ち明けられてからというもの、なるべく『主任』と呼ばないようには出来ないか考えていたんだけど、当然ながら無理だった。勤務中はそう呼ぶしかない。
だから勤務時間外こそ、そう呼ばなくても済むように練習してきた。今日がそのタイムリミットだ。
「俺ももうじき上がりなんだ、たまたま、だがな」
いつものように主任は言って、こっそりと付け足してくる。
「送ってく。いいよな?」
「はい。ありがとうございます」
私も大きく頷いて、後からちょっと照れてみる。そもそも恋人同士でいることには慣れた気がしないんだけど――それもいつかは普通になるのかもしれない。なって欲しい。
車高の高いSUV車からの眺めには、すっかり慣れてしまった。
もっとも、この慣れには若干の後ろめたさがつきまとう。やっぱり家まで送ってもらうのは申し訳なくもあるし、私が車を持っていたらなと思うことだって多々ある。
この間そう告げたら、じゃあお前が運転するかと言われて驚いた。主任の車の車高には慣れても、運転するとなるとこんな大きな車はさすがに――今度、練習させてもらおうかな。
私が助手席に、主任が運転席に座り、両側のドアが閉じたところで、
「あの、隆宏さんっ」
十八日ぶりに、ご本人の前で、声に出して名前を呼んでみた。
以前よりはずっと自然に呼べたと思う。気負いは抜けていなかったし、何だか急き込んだような呼びかけにもなっていたけど、少なくとも声は裏返らなかった。ちゃんと私らしい声で呼べた。
シートベルトを締めようとしていた主任の動きが止まる。
こっちを目だけで見て、やがてじわじわ表情を緩める。
その顔にたしなめられた。
「お前な、まだ会社の中だぞ」
確かに車は発進しておらず、ここはまだ我が社の地下駐車場だ。
「あ、その、退勤後だからいいかなって思ってしまったんです」
「いや、駄目だと言いたいわけじゃないが……相変わらず不意を打ってくるよな」
「す、すみません。びっくりしましたか」
私が問うと、主任は改めてシートベルトを締めた。それから横顔でにやっとしてみせる。
「練習したか」
「はいっ。家で、ばっちり練習しました」
「面白いよな。人の名前呼ぶのに家で練習してくるんだからな」
喉を鳴らすように笑う主任が、次いで尋ねてくる。
「一体どんな練習をしたんだ」
「はい。まず、いただいた名刺を音読することから始めました」
「……親御さんに怪しまれなかったか」
「そこもばっちりです。家族に怪しまれないよう、ドアを閉め切った自分の部屋でぼそぼそと繰り返しました。そうしてお名前を頭に叩き込んだ後は、枕に向かって小声で呼びかける練習をしまして――」
私の説明はげらげら笑いによって遮られた。
主任はハンドルに突っ伏し、肩を揺らして大いに笑った。しばらくは会話もままならなかった。
「お前本当に面白いな。可愛さと面白さの両方が揃ってる女なんて、そうそういないぞ」
その言葉はずっと前にも言われていた。一挙両得だって。主任の好みは多分一般的なセンスとは違っているんだろうけど、だとしても恋人いない歴二十三年だった私にとっては、最高に素敵な誉め言葉だ。
「あ、ありがとうございます、……隆宏さん」
もう一度呼んだら、主任はちょっと困ったように笑いながら頬を掻いた。
「これはこれで、何かこう、落ち着かない気分になるな」
「やっぱり、社外でするべきでしたか?」
「と言うより、早くたくさん呼ばれたいと思ってな」
「それでしたら今度から、頻繁に呼ぶようにします!」
「いやそうじゃなくて……ん、まあいいや」
主任は何か言いたそうにしながらも言わなかったけど、多分、私が名前で呼ぶのをうれしいと思ってくれてるんだろう。だったら今日からはたくさん、頻繁に呼ぼう。
というわけで、心の中でも『主任』と呼ぶのは勤務中だけにしよう。
今はもう呼ばない。隆宏さんって呼ぶ。
「ところで、渡したいものがある」
まだエンジンの掛かっていない車内で、主任が――隆宏さんが、スーツの胸ポケットから何かを取り出した。
握り拳の中に隠したまま、私の手のひらの中へ押し込んでくる。
ひやりと冷たく、硬かった。
「ホワイトデーのお返し。失くすなよ」
そう言われて、私は手のひらの中を見てみる。
あったのは、鈍く光る金属製の鍵だった。キーホルダーも何も付いておらず、鍵自体が真新しい。会社で使っている鍵とは形が違うようだけど、何だろう。
「これ、何でしょうか」
私が尋ねると、すかさず意味深長に笑んでくる。
「合鍵だ」
「へえ……どこのですか?」
「どこのってお前、俺の部屋以外のどこが考えられる」
「……え!?」
合鍵って、つまり、そういう合鍵?
はっとする私に、隆宏さんは呆れたように説明をくれた。
「俺だって、何にも考えてない相手に渡したりはしないからな。どういう意味かわかるだろ?」
「え、あの、その、えっと」
「結婚を前提に考えてるってことだよ」
言葉が思考の上をつるっと滑っていく。何かすごいことを言われているような気がするけど、すごさしかわからない。いや、すごいことだとわかっているだけでも十分だろうか。
合鍵なんて、貰ったのは初めてだ。
自宅のは持ってるけど、それとは意味合いが全然違う。
「今度から、親御さんに聞かれたらそう言え」
隆宏さんの言葉は続く。
「もちろん『必要とあらばいつでも挨拶に来させる』ってな。いい加減な付き合いだとは思われたくない」
うちの両親ならそうは思わないはずだ。私の恋人が『優しくて立派な主任さん』だって知っているから。
ただ家に連れてきなさいよとは言われているから、ここは私も覚悟の決め時だろうか。隆宏さんが根掘り葉掘りされてしまうのは悪い気もするし、どうしよう。
「それから、俺のいない時に部屋に来てもいい。いつでもいいから、適当に荷物を運び込んでおけ」
「に……荷物、ですか? それって」
何のですかと尋ねようとすると、釘を刺すような答えがあった。
「あの可愛いルームウェアとかな。俺の部屋に置いとけば、いつでも泊まりに来られるだろ」
「え、そ、そんなっ」
そういう話題を振られると、どぎまぎしてしまうから困る。泊まりに行くのがこれからは普通になるのかな。そんな自分、ちっとも想像出来ない。
「こっちは一晩くらいじゃ足りないんだよ」
呻く言葉が耳の中で響く。
「俺もようやく半同棲のありがたみが理解出来そうだ。――そういう訳だから藍子、結婚するまでは頻繁に通えよ。合鍵渡したんだからな、有効に活用しろ」
握り締めた手の中の合鍵に、私の体温が伝わっている。きっと平熱よりも高めだ。くらくらする。
「い、いただいてもいいんですか、本当に」
確かめてみたら、軽く睨まれた。
「馬鹿。冗談でこんなもん作ってくるか」
「そうですよね……あの、じゃあ」
この鍵は信頼の証だ。
私にだって、それくらいはわかる。
「ありがとうございます。大切に、します」
「大切にするだけじゃなくて、ちゃんと使え」
「も、もちろんわかってます!」
「何なら休みごとに来てもいい。逆にあんまり来なかったら拗ねてやるからそこは肝に銘じておけ。金曜の夜にお前を攫って帰るくらいのことはするぞ、俺も」
この人は優しいのか可愛いのか強引なのか、わからないなと今更思う。どれにしても好きには違いない。
ただ一つ、私が身に染みて実感しているのは。
「何か質問その他、言いたいことはあるか」
そう問われたから、恐る恐る言ってみた。
「私、隆宏さんには一生敵わない気がします」
少なくとも追いつけはしない。七歳の差は大き過ぎて、引きずられていくのがせいぜいだ。
だけど、隆宏さんは言う。
「俺に始終不意打ち食らわせてるお前が言うな」
傍目には余裕ありげに映る面持ちがそんな言葉を口にするから、私はふと、三十歳から見た二十三歳ってどういう印象なのかな、と考えたくなる。七歳の差は大きいなって、同じように実感しているのかもしれない。
愉快に思えてちょっと笑ったら、隆宏さんもちょっとだけ、何だか悔しそうに笑った。
それから、改めての挨拶をする。
「今年度は大変お世話になりました」
「こちらこそ。お蔭で三十になってから、全くもって退屈してない」
「その……来年度も、これからも、よろしくお願いします!」
「ああ。よろしくな、藍子」
向けられた笑顔はとびきり素敵だ。胸がどきどきする。
そういうわけで、私のルーキーイヤーはどきどきしたまま、あたふたと終わってしまった。
これからもこんなふうに落ち着きなく過ぎていくんだろうけど、二年目も――明日からも、頑張ろうと思う。
公私どちらも。
石田主任の前でも、隆宏さんの前でもだ。




