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主任とルーキー、大団円(2)

 年度末の慌しさは、休日の過ごし方にも波及していた。

 先月のバレンタインデー以来、お休みの日に主任と会うのは初めてだった。

 あの日以降も、退勤後に『たまたま』車で送っていただいたことも何度かあったし、メールや電話でのやり取りは普通にしていた。顔を合わせるだけならほぼ毎日会っている。でも、私服で会うのはあの日以来だったから、出かける前から既に面映さで一杯だった。


 待ち合わせは駅のコンコースだ。

 時刻は奇しくも一ヶ月前と同じ、午後四時を回った頃だった。

 三月十三日の夕暮れは一ヶ月前よりも遅く、駅の窓越しに見た空は春先らしい、青の透けた花曇だ。桜の時期にはまだちょっと早いけど、駅構内へ吹き込む風は、ほのかに土や緑の匂いがしていた。

 主任は私より数分遅れてやってきた。コンコースに立つ私を見つけると、どことなく悔しそうな、それでいて済まなそうな顔もしてみせた。

「悪い、遅れた」

 待ち合わせ時刻は午後四時半で、まだ三十分も早い。なのに謝られてしまったから、大急ぎでかぶりを振る。

「いえ、私が勝手に早く来ただけですから。それに待ったのも、ほんのちょっとです」

「どのくらい前から来てた?」

 風が強かったせいだろうか、主任の髪は少し乱れていた。でも直そうと、手を伸ばせるほどの勇気はない。代わりに大きな手がそれを、無造作にかき上げる。

「三、四分ってところです。ですから、大丈夫です」

「そうか。それならよかった」

 主任は心底ほっとした様子だった。

「俺もこころもち早めに出てきたんだがな。まさかお前が先に来てるとは思わなかった」

「すみません」

 私は恥じ入りながら答える。

「そわそわしちゃって、早く出て来たんです。お会いするの久し振りですから」

「会うだけなら毎日のように会ってるだろ」

「そうなんですけど……私服でお会いするのは久し振りです」

 からかう物言いをされたから、私の方も拗ねる口調になってしまう。

 確かに会うだけなら昨日だって会った。昨日のビジネス的ホワイトデーではケーキもいただいた。美味しかった。

「休みの日に会いたかったか?」

 私服の主任は、勤務中よりも意地悪かもしれない。駅のコンコースでそんなことを聞かれても答えにくい。だからと言って嘘もつけない。

 頷いた。

「……はい」

 そのまま俯いていたら、軽く笑われた。

「だから言ったろ。忙しくても、お前が泊まりに来てくれたら一緒にいられるって」

「そ、それはその、うかがいましたけど」

 たちまち頬が火照ってくる。


 一ヶ月前にあったことは、未だに思い出すだけで恥ずかしくて堪らなかった。

 主任の方も、あの日の出来事を口にしてはこなかった。

 ただ、今みたいに匂わせるような言い方はよくされている。それだけでも十分居た堪れなくなる。

 年度末で忙しいからとデートの約束はしてこなかったけど、何度か冗談めかした誘いは貰っていた。

『会いたくなったらいつでも泊まりに来ればいい』

 そんなふうに言われて、だけど直ちに首肯出来ない辺りが私の未熟さでもあり、意気地のなさでもあるのだと思う。不甲斐なくもじもじしたままでいても、何も変わらないとわかっているんだけど。嫌じゃないって気持ちだけはちゃんと持っているくせに。

 二月十三日は、その証明をしてみせた日でもあった。前に進めば様々なことが変わっていくのだと知った日だった。

 あともう一歩、私も前に進めたらいいのにな。


「俺はいつでもいいんだがな」

 主任が、俯く私の顔を覗き込んでくる。つり上がった形のいい目が笑んでいる。

「今からでもいいぞ。霧島には断りの連絡を入れて、このままお前を連れ帰っても」

「だ、駄目ですよ。霧島さんたち、せっかく待っててくれてるんですから!」

「何だ、藍子。俺といるよりもあいつらといる方がいいって言うのか」

 名前で呼ばれているのもあの日以来だ。不思議なことに、今の方がずっとどきどきする。

「そういうことじゃなくてです。あの、からかわないでください」

 言い返すと、主任はなぜかうれしそうに笑う。

「俺はお前をからかうのが好きなんだ」

「……うすうす、そうかなって気がしてました」

「今日は思う存分お前を構い倒してやるからな。覚悟してろよ」

 もしかすると主任だって、今日が楽しみでしょうがないのかもしれない。お休みの日に私に会えたのがうれしかったのかもしれない。今の浮かれようを見ていて、何となくそう思った。


 霧島さんとゆきのさんの新居は、ここから五駅先にあるらしい。

 今日はお二人と安井課長、それに私たちで飲み会をする予定だった。あと、結婚式の映像の上映会をするのだとか――いい式だったから観るのがすごく楽しみだ。

 切符を買って、改札を抜け、ちょうどやってきた電車に乗り込む。土曜の夕方はまだ空いていて、私と主任は並んで座った。

 座った直後、手を握られた。ひんやりした大きな手の感触にどきっとする私を、主任は満足そうに見てくる。

「今日の服もいいな」

「そ、そうですか? うれしいです」

「春っぽい感じがする。そういう色も似合うな、藍子」

「ありがとうございます、主任」

 お礼を言ったら、意外にもくすぐったそうな顔をされた。

 三月の日中は陽が出ていれば暖かい。上着を薄くするくらいならいいかなと思って、スプリングコートを着てきた。明るい、きれいなピンクのコートだ。夜はまだ冷え込むかもしれないけど、今日はお酒も入るし、そんなに寒さは感じないはず。

 一方の主任も、もう冬の装いではなかった。薄手のパーカーの上にジャケットを羽織っている。私服姿の時はちょっと可愛くも見えるし、だけど格好いい人は何を着ても素敵だなと思う。

 思うだけじゃなくて、勇気を振り絞って言ってみる。

「主任も素敵です。……あの、いつも、そうですけど」

「言い過ぎだ。止めろよ、照れるから」

 一層くすぐったそうにした主任が肩をぶつけてきた拍子、電車が動き出した。

 窓の外、線路沿いの街並みが流れていく。連なる電線は折れ線グラフみたいに細かく上下を繰り返している。差し込んでくる春の光は床の上、揺れながら時折ちかちか瞬く。

 繋いだ手が温かい。

 さっきぶつけられた肩も、まだ触れ合っていて、温かい。

 座席に寄り掛かるようにして視線を上げれば、主任もちょうど私を見下ろしていた。目が合うと、にやっとされる。昨日の勤務の疲れなんて感じられない、うれしさが溢れている笑顔だった。

 私もぎくしゃく笑い返しつつ、尋ねてみた。

「主任、お疲れじゃないですか」

「いいや、別に。今日はまだ会ったばかりだぞ」

「年度末ですし、昨日もお忙しかったみたいですから、どうかなって」

「それは慣れた。もう八年目だからな」

 言い切る口調は頼もしい。私もそう言えるようになれるだろうか。なれたらいいな。

 それから私は少しためらい、おずおずと語を継いだ。

「実は……その、安井課長からうかがっていたんです」

「何を?」

 課長の名前を出した途端、主任がしかめっつらになる。わかりやすい変化はもちろん、親しみから来るものなんだろう。

「主任が、元気がないようだって」

「俺がか? いや、元気ないって言うか……」

「言われて私も、とっさには思い当たることもなかったんですけど、もしかしたら年度末だからかなって思ったんです」

 はっきり、疲れている様子を認めたわけではなかった。でも理由として最も説得力があるのはそれかなと考えている。疲れていたから、浮かない顔つきに見えてしまったんじゃないか、と。

 私の問いに、主任は複雑そうな面持ちでいる。揺れる電車の中、下ろした前髪も微かに揺れている。

「疲れてないわけじゃないが、それとは違う理由だろうな」

 やがて、そう答えてきた。私の顔を目の端で見ながら。

「違う理由……?」

「ああ。いろいろ考えてることがあって、だから安井には元気のないように見えたんだろう。心当たりはある」

 主任は言ってから、ふと苦笑いを浮かべた。

「あいつも大概お節介だよな。そんなこと、わざわざお前の耳に入れなくてもいいのに」

 声も笑いを含んでいたけど、言われた内容には胸がざわめいた。

 考えていることってなんだろう。主任が元気のないように見えるほど、勤務中にも考えている事柄って?

「あの、差し出がましいようですけど……悩み事、ですか?」

 力になれるなら、なりたい。急き込むような思いで尋ねた。

 すると主任には、僅かに複雑そうな顔をされた。

「悩みってほどでもないな。結構、些細なことだ」

「わ、私でよければ、聞くだけなら出来ますっ」

「そうか?」

 繋いでいた手がその時、ぎゅっと握られた。息が止まりそうなほど強く。

 複雑そうにしていた顔は、意味ありげな笑みへと変わる。

「じゃあ、今日の帰りに話す。素面じゃ到底言えないからな」

 素面では言えない悩み、それって一体どんなことだろう。まだ胸がざわざわしていたけど、向けられた笑みにはどぎまぎもさせられた。そんな場合でもないのに、何を考えているのやらだ。

 ただ、体調を崩したわけではないようだから、そのことにはほっとしている。よかった。

 あとは主任の考えていることが、私にどうにか出来ることだったらいいんだけどな。

「藍子」

 思いを巡らせる私の頭上、優しい声が振ってくる。

「そんなに心配しなくてもいい。本当に大したことじゃないから」

「え?」

 顔を上げた時に映ったのは、まだいくらか複雑そうな、だけど奇妙に照れた面持ちだった。

「聞いたらお前も、何だそんなことか、って思うはずだ」

 本当に、そんなに些細な内容なんだろうか。

 考えてみたところでちっとも思い当たらないけど、言われたからには帰りまで待ってみよう。

 それにしても意外だ。主任みたいにはきはきした人でも、お酒を飲まなきゃ言いにくいことって、あるんだ。


 お邪魔した霧島さんご夫婦の新居には、お正月にはなかったものがたくさんあった。

 大きな食器棚やスライド式の本棚は真新しかったし、その食器棚の中に小さなガラス細工の動物たちを見つけた時は、こういうのっていいなとしみじみ感じた。家具が増えたせいか、お部屋に招かれたというよりも、ご家庭に招かれたという印象を抱いた。

 私と主任が到着した数分後に安井課長もやってきて、その後は以前と同様に、私はゆきのさんのお手伝いをし、主任と課長と霧島さんとはリビングで仲良く喧嘩を始めた。

「何ぐだぐだ言ってんだ、いいからとっととリモコンを寄越せ」

「そうだぞ霧島、キスシーンのエンドレス再生くらいで抵抗するな」

「抵抗しますよ! リモコンは渡せません!」

「そんなに見るのが嫌なら、お前だけ目隠しでもしてりゃいいだろ」

「それか霧島にモザイク処理をするかだな。石田、何とか出来ないか」

「変な加工も止めてください! って言うか俺も主役なんですから、気分良く見せてくださいよ! 普通に!」

 今日は結婚式のビデオ上映会をすると聞いていた。普通に見るって選択肢はないのかなあ、と流し台でレタスをちぎりながら思う。私はお料理の盛り付けを任されていて、ゆきのさんは現在ガス台の前、エビのフライを揚げているところだった。

 そのゆきのさんが少し笑う。

「楽しそうな言い争いをしますよね、皆さん」

「本当ですね!」

 私も力一杯頷いて、それからつられて笑ってしまう。

 何だかんだで仲良く喧嘩の出来る関係は素敵だ。誰かに恋人が出来ても、結婚しても、こうして付き合っていける友達ってすごく貴重じゃないだろうか。主任と課長と霧島さんなら、きっとおじいさんになってもあんなふうに仲良くしているに違いない。

 そして出来れば私も、その様子をずっと傍で眺めていたいなと思うし、当たり前だけどゆきのさんだってずっと一緒にいるだろう。いつか、安井課長の奥さんとお会いする日も来るかもしれない、なんてぼんやり考えてみたりする。その時までには私も、主任みたいに、誰かの為に快く動ける人でありたいとも思う。

 今はまだ、ちぎったレタスをお皿の上に並べる程度が精一杯の私だけど。

「藍子ちゃん、こっちの揚げ物をお願いしてもいいですか」

「はいっ」

 あと、揚がったフライを盛り付けるのも。

 キッチンペーパーの上で一度油を切ったフライを、レタスを並べたお皿に盛り付けていく。ゆきのさんはやっぱりお料理が上手で、エビフライも白身魚のフライもイカリングだってとっても美味しそうだった。こっそりつまみ食いもさせてもらったけど、それは二人だけの秘密。見た目の通りにとっても美味しかった。

「藍子ちゃんがいてくれたら、私も寂しくなくてうれしいです」

 菜箸で器用に揚げ物を捌くゆきのさんが、そっと告げてくる。

「映さんたちの会話に入っていくのって、なかなか技術が必要になりますから」

「わかります」

 今もリビングでは言い合いが続いている。いつの間にか話題は『飲んだ時の締めを何にするか』に移り変わっていて、締めは麺類でなくてはならないと主張する霧島さんが熱弁を振るっている。そこに主任と課長が茶々を入れる構図は変わらず。

「お酒を飲んだ後こそあっさりした麺ものの美味しさが生きるんです!」

「何言ってんだ、お前は飲んでる最中も食ってるだろ」

「飲み会でいきなりラーメンから入るのも霧島くらいのものだよ」

 ちなみに主任はアイスクリームがいいと言っていて、課長はあられの入ったお茶漬けがいいのだとか。私は甘いものもいいけど、やっぱりご飯ものがいいなあと思う。麺類ならうどんがいい。結局何でもいいのかもしれない、美味しければ。

 もっとも、締めの楽しみの前に飲む楽しみがあるわけで。

「ゆきのさんと一緒にお酒飲むの、初めてですね。すっごく楽しみです」

「私もです。これから何度でもそういう機会、あるといいですね」

「はいっ、大歓迎です!」

 私の言葉に、ゆきのさんは揚げ油の火を消しながらくすくす笑う

「確か、藍子ちゃんはお酒に強いんだそうですね」

「え……それも主任が言ってたんですか?」

「いえ、これは映さんから聞きました」

 そういえば霧島さんから尋ねられたことがあったっけ。誤解されている気がするなあ。

「ぜ、全然ですよ。霧島さんたちに比べたら私なんてまだまだです」

 営業をやっているとお酒を飲む機会も多いので、自然と強くなってしまうものらしい。だから課の飲み会ではうっかり羽目を外す人もいない。

「じゃあ、酔っ払っちゃった藍子ちゃんから、惚気話を聞ける期待しててもいいですか」

 いたずらっぽい表情で聞かれると、二重の意味で心拍数が上がる。

「い、いえ、むしろそうならないよう気を引き締めておきます! そんなことしたら恥ずかしくて、酔いが覚めた時が居た堪れないですから!」

 私はうろたえたけど、ゆきのさんは楽しそうに言ってくる。

「どうぞ遠慮なく惚気てください。こういう集まりって無礼講ですから」

「わあ、そんな……」

「そうだぞ藍子、遠慮することない。堂々と言えばいいだろ」

 と、キッチンに割り込んできたのは主任の声だ。

 ぎくりとして振り向けば、キッチンの戸口には主任と、課長と、霧島さんの姿があった。三人とも押し合い圧し合いしながらこちらを覗き込んでいる。

 さっきまでリビングで言い合いをしていたと思ったのに、一体、いつからいたんだろう。

「酒が入ると口も軽くなるもんだからな。気にせず惚気てやれ」

 主任が私に言ってくる。無理なことを。

「むむむ、無理です。本当に無理です主任!」

 私が大慌てでかぶりを振ると、なぜか主任は照れたような顔になり、同じタイミングで霧島さんが突っ込んできた。

「その言葉、先輩が言いますか。いつもお酒が入るとあっさり軽くなる人が」

「しょうがないだろ、惚気たいお年頃なんだから」

「今日は小坂さんがいるんですから、あんまり品のないこと言わないでくださいよ。あっさり振られちゃっても知らな――いたっ」

 霧島さんが今度は脇腹をつつかれている。

「縁起でもないこと言うな。――そんなことないよな、藍子?」

「あの……そ、そうですね」

 皆のいる前で聞かれても困るんです、主任。

 そこへ安井課長が怪訝な顔をして、

「石田、お前いつの間に小坂さんを名前で呼ぶようになった?」

「この間からだ。羨ましいだろ」

「羨ましいも何も……俺たちにとっては今更だよ。なあ、霧島」

「そうですね。付き合う前から遠慮なく惚気てられるのは石田先輩くらいのものです」

 皆の会話を聞いているだけで居た堪れなくてもじもじしたくなる。無礼講だとしても、王様の耳はロバの耳だとしても、主任はもうちょっと控えてくれないかなとこっそり思う。嫌じゃないけど、絶対に振ったりもしないけど、ものすごく恥ずかしい。

「じゃあ、そろそろ始めましょうか」

 いつの間にか、ゆきのさんは油の跳ねたガス台をきれいにしていた。

「今、お料理持っていきますから。座って待っていてください」

 ゆきのさんの言葉に、主任も課長も霧島さんもびっくりするほど素直だった。三人が先を争うようにリビングへ戻っていくのを見て、ゆきのさんはおかしそうに笑ったし、私もつられてしまった。


 居た堪れなさも確かにあるけど、ここにいるのは楽しくて、幸せだ。

 こういう機会がこれからもたくさん、何度でもあればいいな、と思う。

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