ジンクスとチョコレート(5)
主任が出してきたホットプレートは、確かに年季が入っていた。
それをリビングのテーブルに置くと、二人で挟むように向き合って座る。鉄板に油を引き、豚肉を敷き、肉がいい感じにかりかりしてきたところへ生地を流し込んで焼いていく。キャベツの他はネギとこんにゃくが覗いていて、次第にいい匂いが漂ってくる。
焼き慣れているのか、主任はとても手際がよかった。焼き色の付くタイミングを計るのも上手ければ、生地を裏返すのだってすごく上手だった。右に割り箸、左にフライ返しでひょいときれいに引っ繰り返す。その鮮やかさに驚いていると、笑いながらやってみるかと尋ねられ、まごまごしているうちに挑戦することとなった。
私もお好み焼きが初めてという訳ではないけど、割り箸で引っ繰り返すのは難しかった。まだ液状の表面を崩さないようにと思っても、裏に割り箸を差し込んだ拍子、ぐずぐずと端から裂けてしまう。
「わ、わ」
「慌てるな、ちょっとくらい崩れてもいいから」
あたふたする私に優しい声が掛かる。
それで意を決して、えいやと踏み切ってみる。片側の緩い生地を乾坤一擲、フライ返しでどうにか支え、多少形を崩しながらも無事に裏返すことが出来た。
「お前も上手いじゃないか」
「そ、それほどでも……やはりこれは、主任のご助言のお蔭です!」
「俺だって大したこと言ってないだろ」
何が面白かったのか、肩を揺らして笑う主任。私もほっとしながら笑っておく。
「あとは、美味しく仕上げられたらいいんですけど」
「お好み焼きなんてそうそう不味く出来るもんじゃない。心配するな」
石田主任は優しい。そんなことはもうずっと前から、好きになり始めた頃からわかっていた。ルーキーが相手だろうと分け隔てなく優しくて、誰かの為に動ける、頑張れる人だった。
そういう人を時々怖いと思う私は、ちょっとおかしいと思う。一緒にいるだけで楽しくて、幸せになれる人なのに、時々怯えたくなる気持ちは場違い過ぎる。ずっと楽しいまま、幸せなままで接していられたらいいのに。
もう少し、今みたいに笑っていられたらいいのに。
「飯時になると目の輝きが違うよな」
主任も笑っている。と言うか、にやにやしている。
「ご飯の時だけではないつもりなんですけど」
「そうか?」
短く問い返されると、そうでもないのかなと自分でも思えてくる。でもそれにしたって、主任は健啖家な私をことさら強調し過ぎてはいないだろうか。
「安井課長からもうかがいました。主任が私のことを、食べさせ甲斐があると表現していたって」
おずおず切り出せば、何やら不満そうな顔をした主任が応じる。
「あいつ、どうしてまたそんな話を」
「どうしてって、むしろ私が聞きたいです。そんな話、どうして安井課長にするんですか?」
言われた時は困ってしまった。食い意地が張ってないなんて主張するつもりも今更ないけど、その一面ばかり強調されて広まってしまうのはいくら私でも恥ずかしい。
「自慢したいから」
きっぱり、主任はそう答えた。
数秒間、呆気に取られてしまった。
「じ、自慢になってないですよっ。私がいかに食いしん坊かなんて!」
「なるよ。俺にはこんな可愛い彼女がいるんだって言い触らしたいんだよ」
実に幸せそうな顔をされる。言っていることには異論が山ほどあったけど。
「お前の一挙一動が可愛くて可愛くてしょうがない。俺一人で抱え込んでるとどんどん膨らんでって破裂しそうだから、あいつらにも聞かせてやってる」
「破裂……ですか?」
「ああ。いつもいつも、どっかにぶつけなきゃ気が済まないくらいだ。あいつらも適当に聞き流すことに掛けちゃ上手いもんだからな、お蔭で堂々と惚気られてるよ」
今日までずっと、主任はどうして私の恥ずかしい話を安井課長たちに打ち明けちゃうのかなって不思議だったけど、ようやくわかった。
つまりあれだ。王様の耳はロバの耳。
この間も、ゆきのさんからいくつか聞いていたっけ。
「だからどんどん食え。俺はそんなお前の一挙一動を眺めて、またあいつらに惚気てやるから」
「わあ、止めてください! そんなに見ないでください!」
動機がわかったとしても恥ずかしいのには変わりない。焼き上がったお好み焼きを皿に盛ってもらったものの、視線を感じていては食べにくい。じゅうじゅう音のする焼きたてを前に、私はためらい、主任はにやにやしている。
「食べないのか、小坂」
「……恥ずかしいんです」
「何だよ、照れることないだろ? しかし、そうやってもじもじしてる姿もこれはこれでいいもんだな。可愛くて」
でれでれの口調で言われてしまうと、反論も異論も唱えにくい。
可愛いと思われることが嫌なわけではないから。主任の言う私の可愛さってイコール食欲なんだろうなと、再認識もしたけど。
ともあれ、せっかく一緒の晩ご飯だ。私の食欲よりもお好み焼きそのものを堪能してもらいたい。なのでそっと提案してみた。
「私は、主任と一緒に食べるご飯がいいです。きっと美味しいですから」
「確かにな。お前と二人で食べるものが不味いはずもない」
了解も得たので、そこからしばらく歓談と食事の一時を過ごした。
お好み焼きは熱かったけどすごく美味しくて、二人でぺろりとたいらげてしまった。
恥ずかしさは食欲によって淘汰され、気が付けば随分いっぱい食べてしまった。私の心はいろいろと単純な仕組みだと思う。
食後の片付けを済ませてからはお風呂を沸かしてもらって、順番に入ることにした。
この順番でまたちょっと揉めた。
「小坂、先に入っていいぞ」
主任に勧められた私はとんでもないとかぶりを振る。
「いえ! 主任より先に入るだなんて出来ません!」
「客は一番風呂に入るもんだろ」
「そ、そうかもしれませんけど、年功序列で考えるならやはり……」
「つべこべ言ってると無理矢理一緒に入るぞ。いいのか」
そんなふうに脅かされてはつべこべ言い続けるわけにもいかない。私は意見を翻して一番風呂の権利を賜った。
そして初めて、バスルームに立ち入った。
きれいに掃除をしたというだけあって、バスルームは本当にぴかぴかしていた。オレンジがかった照明の下では白い壁も浴槽もお湯も柔らかく、温かく感じられた。入浴剤は冬らしい柚子の香りで、お湯に浸かると自然に溜息が出た。
シャンプーやボディソープは一種類しかないそうで、それでもいいなら自由に使えと言い渡されていた。私としてはお借り出来るだけで大変ありがたかったのだけど、それ以前に一種類しかないシャンプーやボディソープというのはつまり、主任が普段使っているものだという事実に気付いて、じゃあこれを私が使うと主任と同じ匂いがするのかななんて考えたらもうどぎまぎしてきてあっという間に駄目になった。早速うっかりのぼせかけた。
初めて泊まった日にお風呂でのぼせて倒れたりしたら恥ずかしいどころの騒ぎではない。私はカラスもかくやという速度で入浴を済ませ、この日の為に購入したルームウェアに身を固めて足早にリビングへ舞い戻った。
リビングでテレビを見ていた主任には、さすがに怪訝そうにされた。
「思ったより早いな。のんびりしてきても良かったのに」
「その、倒れたらいけないと思いまして」
正直に答えたら笑われた。
「何で倒れるんだよ」
理由は言えない。のぼせるから。
それから主任は立ち上がって、高速湯上がり姿の私をしげしげと眺めた。
フリースのルームウェアは上着の丈が長くて、視線を向けられた際にも安心感がある。ただそれでも仕事用でもデート用でもない服装を見られるのは初めてだったから、緊張した。まして化粧も落としてきているし、髪も乾かしてないし、観賞に堪えうる自分になっている自信は全くもってない。
「その服、いいな」
肩に落ちていた、湿り気を含んだ髪を払うようにして告げられた。
「いつもそんなに可愛いの着て寝てるのか」
「普通のパジャマだと失礼に当たりますから、思い切って買ってきました」
「今日の為に、か?」
尋ねてくる主任は心なしか満足げだ。頷く私の濡れた髪に触れ、隠そうとしている頬っぺたまで覗こうとする。視線を感じたら、それだけで眩暈がした。
今日の為に用意をしてきたことが、他の何よりも気恥ずかしく思える。
すごく張り切っているって思われてそう。事実、その通りなんだけど。
「少しだけ待ってろ」
吐息が熱く、頬に触れる。
「その間にちゃんと、髪を乾かしておくようにな」
ただのありがたいご助言が、今は判決を言い渡されたみたいに響く。本当に大したことは言われていないのに、頭の中がぐらぐらしている。
「俺が上がったらアイス食べるぞ。楽しみにしてろよ」
私の内心に気付いているのかいないのか、主任はそんな言葉とドライヤーを残してバスルームへと消えた。
いつもならアイスに心弾ませているはずなのに、弾むどころか弾け飛びそうだった。
リビングのメタルラックの中、テレビが点いたままになっている。時刻は夜の七時半過ぎ、土曜の夜のバラエティ番組が騒々しい声を立てている。耳には届くのに頭の中まで入ってこない。そのくせ扉を二枚隔てた向こうの、雨にも似た水音だけはいやにはっきり聞こえてくる。
私は床に座り込み、借り受けたドライヤーで髪を乾かした。温風がいやに熱く感じて、ひからびそうだった。
格好いい人はどんな服装でいても格好いいものだ。
私はその事実を、湯上がり姿の石田主任によって実感していた。
主任はパジャマを着ないらしい。普段から着ていないのだそうだ。上は長袖のTシャツ、下はジャージという実にラフないでたちでリビングへと戻ってきた。
問題なのは服装よりも髪型だ。洗った後の髪は水分を含んでつややかに見えた。勤務中に前髪を上げている時とは違う、しっとり落ち着いた印象。その髪が頬に張り付いているのを見たらどきっとした。それでいて、大きな手とバスタオルがわっしわっしと髪を拭いているのを見た時も、どきっとした。好きな人のことだから何でも格好よく見えるというのも当たり前なのかもしれない。でもとにかく、心臓がテレビよりも騒々しい。
私は乾いた髪にバスタオルを被り、隙間から覗くように観察していた。
微かに、同じ匂いがした。
シャンプーもボディソープも同じものを使ったからだ。
「チャンネル、好きに替えてよかったのに」
ふと、主任が言う。
どうやらテレビを見ていなかったことを悟られたらしい。
「お、お構いなく」
床に座ったままで私は答える。どうせどの番組を点けたって頭には入ってこなかった。もう既に一杯だから。
少し考えるような間があって、それから尋ねられた。
「消してもいいか?」
あまりよくない気もしたけど、頷くしかない。見ていないのに点けているなんてもったいない。
「……はい」
答えてすぐ、テレビはぱちんと消えてしまった。
二人きりのリビングは、静かになる。
どきどきしている私の傍に、主任は自然に腰を下ろした。心臓の音が聞こえはしないか不安にもなる。
「そんなに緊張するなよ」
主任がタオル越しに私の肩を叩く。
「無理です」
ぼそっと私が答えれば、その顔には苦笑が浮かんだ。ほんのちょっと気遣わしげな。
「髪、ちゃんと乾かしたか」
「……はい」
「じゃあ、タオルももういいな?」
よくなかったけど、頷くしかない。私がぎくしゃく顎を引けば、主任は私の頭からバスタオルを払い除け、そのままドライヤーと一緒に持っていってしまった。
主任も髪を乾かしてから、すぐに戻ってきてくれた。
チョコレートリキュールの瓶と、ガラスの小鉢を二つ、手にしている。
「悪い、小坂。これテーブルの上に置いてくれ。アイス持ってくから」
「は、はいっ」
慌てて立ち上がり、主任の手から瓶と小鉢とを受け取る。私がそれらをテーブルの上に置いた時、キッチンからは冷凍庫の開く独特の音がしていた。
「きっと美味いぞ、奮発したからな」
何やら得意そうに、五百ミリのアイスを持ってくる。格好いい人は、奮発したアイスにうきうきしている顔だってもちろん格好いい。おかしいのはその顔に、アイスよりもずっとときめいてしまう私自身だ。
主任は着々と支度をする。ガラスの小鉢に銀色のスプーンがバニラアイスを盛り付ける。さすが奮発しただけあって、バニラビーンズが点々としていて香り高い。更にそこへ、栓を空けたばかりのリキュールが掛けられると、辺りには二月らしい甘い香りが漂う。
「ほら、美味そうだ」
早速、小鉢の一つを手渡された。私は頭を下げる。
「ありがとうございます」
お礼を言うのさえぎこちない。そんな自分が、だんだんともどかしくなってくる。
主任に促され、ソファーの上に並んで座った。
肩が触れ合うほどの距離には意識せざるを得なかったものの、離れて座る必要性も感じなかった。
チョコレートリキュールを掛けたアイスは確かに美味しかった。甘い香りの中、アルコールは緩やかに回り始める。いっそ酔っ払ってしまった方が気楽かもしれない。
こういう時こそ、アルコールの力に縋るべきかもしれない。
素面のままでは言えないことを、ちゃんと伝えられる夜であって欲しい。
今はまだ緊張している。時計を見れば、午後八時をとうに過ぎていた。冬の夜は長いはずだから、焦らず、気を落ち着けたい。
私の緊張を斟酌してか、主任はアイスを食べながら話しかけてくれた。
「小坂は夜更かし平気な方なんだろ?」
「あ、はい。それなりに……」
「なら、映画でも観るか? お前の好みに合うかどうかはわからんが、いくつかあるぞ」
それはとっても素敵な提案だと思ったけど、今日の私は面白い映画にさえ集中出来るかどうか怪しい。隣にいる人に集中するので脳内CPUが百パーセントに達している現状だ。乾いた髪を無造作にかき上げている主任は、筆舌に尽くしがたいほど格好いい。
「あ、あの、お気遣いなく」
錆びついた声で答えれば、主任はかえって気遣わしげに眉根を寄せた。
しばらく思案を巡らせるようにしてから、不意に、
「しりとりでもするか」
「しりとり?」
今度は、予想外の提案がされた。




