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ジンクスとチョコレート(3)

 私は霧島さんの奥さんと連れ立って会社を出た。

 二月の夜はコートを着ていても肌寒い。風は切るように冷たくて、無防備にしてる耳の辺りがちりちりしてくる。知らず知らず背を丸めて歩いてしまう。

「二駅先のショッピングセンターまで行こうと思います。構いませんか?」

 霧島さんの奥さんは姿勢がいい。そして歩き格好も決まっている。もしかするとそれも秘書課の、そして受付業務の賜物なのかもしれない。

 私も見習わなくちゃなと、とりあえず胸を張ってみる。

「はい。私も電車で通ってますから、駅近くならどこでも大丈夫です」

「ありがとうございます。デパートだと閉店ぎりぎりになっちゃいますから」

 霧島さんの奥さんは、笑い方も可愛い。おっとりした感じは旦那さんと似ているような気がするけど、同い年という感じはあまりしない。って言ったら霧島さんに失礼かな。

「何だか勢いで誘ってしまったみたいでごめんなさい」

 その奥さんに笑顔で謝られて、私はかぶりを振る。

「いえ、私もご一緒出来てうれしかったです!」

「そう言ってもらえると心強いです」

 月光に似た水銀灯の明かりに、肌の色が透き通ったように映った。営業課のアイドルという呼び名に相応しい人だ。可愛い上にきれいだなんて、すごく羨ましい。

 私がぼんやりしているうちに、言われた。

「小坂さん」

「はい」

「あの、良かったら、名前で呼んでもらえませんか」

「……え?」

 隣を見ると、目が合った時の表情があどけなくも見えた。

 石田主任と安井課長が揃って言っていたことを思い出す――この人が誰かの奥さんだとは、とっさに考えつかないかもしれない。

 霧島さんの奥さんはにこっと笑って、付け足してくる。

「ゆきの、です。小坂さんにはそう呼んでもらえたら、うれしいなあって」

 そんな言葉が無性にどぎまぎした。隣を見ながら歩くのが難しくなるくらいに。

 でも急いで言ってみた。

「……ゆきの、さん」

「はい」

 私のたどたどしい呼びかけにもとびきりの笑顔で答えてくれる。

 それからもう一つ、言われた。

「じゃあ私も、『藍子さん』って呼んでもいいですか」

 この瞬間、私は長谷さんが営業課のアイドルと呼ばれる所以をまさに、目の当たりにしたように感じた。こうやって笑いかけられたら、確かに何だかいいことがありそうな気がする。

「あ、あの、さん付けなんて全然、結構です! 是非呼び捨てにしてください!」

「なら、ちゃん付けでも構いませんか? 藍子ちゃん、で」

「ももも、もちろんですっ」

 名前呼びでしかもちゃん付け。うれしくてしょうがなくなる。

 そういえばこんなふうに仲良しを作ること、ここ最近はなかったな。子どもの頃はこれだけですぐ友達になれた。だけど大人になったら、名乗るより先に名刺を貰うようになった。出会った人を呼ぶ時は名字で呼ぶし、話すのは仕事のことが多くなった。年賀状もバレンタインデーのチョコレートも仕事用ばかりになってしまった今、こんな機会があるとは思ってもみなかった。

「これからもよろしくお願いしますね、藍子ちゃん」

「こちらこそです、ゆきのさん!」

 歩きながら名前を呼び合って、笑い合っているのが幸せだ。いつの間にか寒さも感じなくなって、私もゆきのさんにつられたみたいに姿勢良く歩いていた。

「それにしても、ゆきのさんが私の名前を知っててくださって、うれしいです」

「存じてます」

 と、ゆきのさんが目をくるくるさせる。可愛い。次いで言われた。

「だって以前から、石田さんがそう呼んでましたから」

 危うく、そうなんですかーなんて暢気に相槌を打つところだった。

「――え! しゅ、主任がですか!?」

 ビル街に響く声。慌てて自分の口を押さえたけど、とっさに叫んでしまったものは仕方ない。

 もちろん主任は私の名前を知っているはずだ。だって上司だもの。契約書を始めとする各書類にも当然、フルネームで書いているから、知らないわけはない。でも。

 名前で呼ばれたことはない。

 恋人同士になってからだって、一度も。

「はい。……え?」

 私の驚きに気付いてか、ゆきのさんも怪訝な顔をした。すぐに尋ね返してきた。

「石田さんは普段、何て?」

「『小坂』って、名字で呼ばれてます」

「へえ……そうなんですか。意外ですね」

 ものすごくびっくりした様子で、ゆきのさんは白い息をつく。

「映さんたちとお酒を飲む時は、いつもそうなんですよ。石田さん、お酒が入ると藍子ちゃんのことを『藍子』って呼ぶんです」

「わあ……!」

 声が出た。

 何と言うかこう、びっくりの上に、非常に面映くて。

 私の前では一度も呼んだことがないのに、どうして私のいないところで呼んでいるんだろう。そんなの変だ。しかもお酒の入った時って、他に恥ずかしいこととか言ったりしてないかな。ちらほら他の方からもうかがってたような記憶もあるけど、私のいないところではすごく惚気る人らしいから、私だけが知らないことがまだまだたくさんあったりして。

 どうしよう恥ずかしい。知りたくないけど知っておかなくちゃまずい気もする!

「でも面と向かってはまだ呼んでないなんて、ちょっと面白いですね」

 ゆきのさんは首を竦めて笑う。

「石田さんのことですから、絶好のタイミングを計ってるのかもしれないですよ」

 絶好のタイミングと聞いて思い浮かぶのは――。

 十三日の約束。

「だって、ずっと前からでしたから」

 ここ最近の悩み事を甦らせた脳裏へ、まるで正反対の朗らかな声が響く。

 我に返って、私はおずおず口を開いた。

「ずっと前……っていうのは、主任が、私の名前を……」

「はい。お付き合いされるずっと前からです」

 すんなりと頷かれて、それはそれで驚いたりもする。

 一体、どのくらい前からなんだろう。

「映さんや安井さんには始終突っ込まれてましたよ。まだ彼女じゃないんだからって。でもそういう時、石田さんはいつもむきになって言い返すんです。もう決まったようなものだからいいんだって」

 いつから、なのかな。

 主任の中では、いつ『決まったようなもの』だったんだろう。

「その通りにお二人が上手くいって、私、本当に良かったなって思ってるんです」

 うれしそうに、ゆきのさんは言う。

「藍子ちゃんのこと、あんなに幸せそうに語る石田さんを見てたら、誰だってそう願っちゃいます。上手くいくといいなって」

 私のことを幸せに語る石田主任の姿は、見ていなくても想像がつくような気もする。

 だけどまだ、てんでわかってないのかもしれない。

 主任がどのくらい私を好きでいてくれているのか。いつから、どんなふうに想ってくれていたのか。何にも知らないでいるのが申し訳ない気持ちになる。

 恥ずかしいなんて足踏みしている場合じゃない、ちゃんと知っておかなくちゃいけないことだ。見て見ぬふりをするのも、そこから逃げ出したりするのも、酷く失礼なことだ。知ることが怖いなんておかしい。知らないままでいる方が余程怖い。

 私はたったの二十三歳で、未熟で、物を知らなくて、すっとこどっこいの駄目なルーキーだけど、それでも今は間違いなく石田主任の恋人だ。その私が主任の気持ちをまだ良く知らないなんてこと、やっぱりおかしい。

 前に進まなくちゃいけない。

「……ありがとうございます、ゆきのさん」

 冷えた空気に白い息は溶けたけど、声は溶けてしまわないように、はっきりと言った。

「今のお話を聞いたら、私もすごく、幸せな気持ちになりました」

「いえ、こちらこそです。いつも幸せにさせていただいてます」

 ゆきのさんもなぜかお礼を言ってきて、それからこっそり付け加える。

「だけど今の話、石田さんには内緒にしてくださいね」

「はい」

 私は深く頷いた。


 沿線にあるショッピングセンターに着いたのは午後七時頃だった。

 催事コーナーではバレンタインセールをやっていたけど、ゆきのさんはチョコレートじゃなくて、違うものにしようと提案してきた。

「営業課の皆さんは、たくさん貰ってくるみたいですから。甘いものじゃない方がいいんじゃないかなって。どうでしょうか」

「ナイスアイディアです!」

 私も諸手を挙げて賛成。甘いものの後にしょっぱいものを食べたくなるのは自然の摂理だ。

 というわけでゆきのさんと二人、おかきやおせんべいを見て回った。出ていた試食も一緒につまんで、一番美味しかったのを選んで、お金を出し合って買った。たったそれだけのことが楽しくて、悩み事なんて本当にどうでもよくなってしまった。


 二月十二日は予定通り、ビジネス的なバレンタインデーとなった。

 私も用意したチョコレートを持参して、外回りの際に配って歩いた。いつもよりも得意先を多く回るよう、ルートとスケジュールの調整もしておいた。

 用意したのは小さめの、模様つきの板チョコレートだ。捻りはないけど好みだってあるだろうし、主任も、好き嫌いのあまりなさそうな品にしろとアドバイスしてくれていたから、なるべくプレーンなのを選んだ。

 本当言うと、迷惑がられはしないかと緊張もしていたんだけど、大抵の会社では営業チョコも貰い慣れているようで、取引先では断られることはおろか困った顔をされることもなかった。ホワイトデーにはお返しをするからね、なんて今日のうちから言ってくださった方もいたし、それどころか窓口のお姉さんが、私にまでチョコレートをくれたりする会社もあった。何でも性別には関係なく、毎年あった来客には挨拶代わりに配っているのだそう。思いがけず甘いものをいただけて、うれしかった。

 ビジネス的なバレンタインデーというのも、なかなか捨てたものじゃない――なんて食べ物にはあっさり釣られてしまったりして。ロマンチックではないかもしれないけど、優しい気持ちになれる日だった。


 私がいただいたのは一つきりだったけど、営業課の皆さんはそれはもう、たくさん貰ってきたらしい。

 営業チョコもこれはこれで気を配らなければいけないもののようで、どの企業の誰々さんからどの程度の品をいただいたのかを、ホワイトデーに備えて記録しておかなければいけないのだとか。皆、外回りから戻ってくるなり手帳を開いて、紙袋やスーパーの袋にいっぱいになったチョコレートを検めている。皆がいつもと違う、同じ行動を取っている光景がちょっと面白い。私も来月のお返し、忘れないようにしようっと。

 そんな中でも、新婚である霧島さんは相変わらずからかいの的となっている。

「大漁だな霧島。こんなに持って帰って、奥さんに不安がられたりしないか?」

 皆と同じようにチョコを検分している霧島さんへ、石田主任がちょっかいをかけている。結婚以来ずっとそうだけど、今日は皆にことさらからかわれている新婚さんが、今もうんざりした顔で応じた。

「大丈夫ですよ。全部仕事上の付き合いだってちゃんと言ってありますから」

「お、何だ。結婚したら急に亭主関白になったのか」

「なってないです! この間から言ってますけど勤務中にそういうこと言うの止めてください!」

 突っ込まれて噛み付く霧島さんに笑い声が沸き起こる。

 もちろん、主任だって本気で『亭主関白』なんて言ったわけじゃないだろうけど。霧島さんとゆきのさんにそういうイメージはない。

「そんなことを言うなら、先輩こそどうなんですか」

 と、霧島さんが切り返そうとする。

「あんまりたくさん貰って歩いたら、出来たばかりの彼女に愛想尽かされるんじゃないですか?」

 揶揄する物言いはもちろん主任へ向けられたものだったけど、傍で聞いていた私も、どきっとした。

 主任はどう答えるのかもちょっと気にしていたら、呟くような答えが聞こえた。

「あいつは、やきもちを焼く性格じゃない」

 え、そんな。私だって一応は、少しくらいはやきもち焼いたりするのに。

 そりゃあ今日の件についてはお仕事の一環だと思っているし、チョコレートの十個二十個でへこんだりもしないつもりでいるけど、何だか買い被られているようでそわそわしてくる。

「そうでしたね」

 霧島さんにもすんなり納得されてしまった。そう見えるのかな。

「むしろ先輩の方が妬いてるんですよね。彼女があちこちにチョコを配って歩くから、朝から心配で心配でしょうがないって顔を――いたっ」

 言葉は途中で小さな悲鳴に取って代わり、その後は話題も足を踏んだ踏まない蹴った蹴ってないという実に微笑ましいやり取りへと移行した。お二人の小競り合いを顔を上げずに聞いていた私も、笑いを噛み殺すのに一苦労だった。

 主任もやきもちを焼く人のようだけど、そんな主任を安心させたいと思う。

 今日だってちゃんと、営業用としてチョコレートを配ってきたつもりだ。心配されるようなことは何にもない。胸を張って言える。そういう私を、主任には見ていてもらいたい。


 ともあれ、営業課全体でチョコレートファウンテンが出来そうなほどの収穫だったビジネス的バレンタイン。ゆきのさんと私が用意したおかきの詰め合わせもなかなかに好評だった。

「やっぱり甘いものの後には、しょっぱいものが食べたくなるよな」

「なりますよね!」

 主任の言葉に、私は全力で頷いた。

 ゆきのさんも出来れば営業課に顔を出したかったようなんだけど、秘書課は秘書課で他に配らなくてはいけないところがあるらしくて、来られないかもと言っていた。

 だから営業課のアイドルからの贈り物は、責任を持って私がお預かりしていた。机の上に置いたおかきの缶の傍、メッセージカードも添えている。

『皆さんでお召し上がりください』

 可愛らしい字でそう書いた下にゆきのさんは署名を、私は自分の認印を押しておいた。その文面が効いたのか、プラスしょっぱいもの効果もあってか、おかきは業務中も飛ぶように売れていった。

「こういう、一味違うものだとありがたいですね」

 霧島さんもそう言ってくれたので、私は笑顔で応じる。

「ありがとうございます。実は、ゆきのさんが出してくださったアイディアなんですよ! チョコレートじゃなくって、何かしょっぱいものにしようって」

「へえ、そうなんですか」

「――『ゆきのさん』?」

 私の言葉に対する、霧島さんと石田主任の反応は全く違った。腑に落ちたように顎を引く霧島さんに対して、主任は俄かに眉根を寄せている。

 少しの間を置いてから尋ねてきた。

「小坂、お前、いつの間に霧島夫人を名前で呼ぶようになった?」

 聞かれるだろうなと思っていた。

「この間からです」

 答えつつ、笑いを抑え切れない。報告するのはくすぐったいけど、誇らしくもあった。

「そういえば、彼女も小坂さんのことを『藍子ちゃん』って呼んでました」

 霧島さんが思い出したように言って、にっこりする。

「二人で買い物に行かれたんでしたよね」

「はいっ。先日、仕事の後にご一緒しました。それからです」

「仲良くなるの早いな」

 主任には感心されたみたいだった。

 でも、こうやってゆきのさんと仲良くなれたのも、巡り巡っては主任のお蔭だ。主任のことを好きな人たちが皆で、私の背中を押してくれた。だから私は出来ないと思っていたことも出来るようになったし、きっと前に進めるようになっている。

 ゆきのさんは温かい言葉を私と、主任に対してくれた。二人だけの秘密になった打ち開け話は、幸せな気持ちと勇気をくれた。

 私だって、今なら言える。他の誰よりも石田主任が好きだ。

 怖いことはまだまだたくさんあるかもしれないけど、十三日は、絶対に逃げたりはしない。本命チョコも用意した。なるべく本当の気持ちを伝えたいと思うし、その後で一緒に、幸せに笑っていたい。

「ゆきのさん、すごく優しい方なんです。私がどうお呼びすればいいか迷っていたら、名前で呼んでくださいって言ってくださったんです」

 嬉々として報告したら、なぜか主任の方が照れた顔をしていた。

「そうか、よかったな」

「はいっ」

 私は頷く。

 それで主任はもう一度照れ笑いを浮かべた後、聞こえよがしにこう言った。

「奥さんもこれから旦那に対してあれこれ不満募らせるだろうからな。そういう時は愚痴でも聞いてやるんだぞ」

「何で不満持つのが当然みたいな言い方するんですか!」

 それにまた霧島さんが言い返して、また些細な小競り合いが始まる。本当に仲がいいんだなあ、と思ってしまう。


 私も、ゆきのさんとこんなふうに仲良くなれるかな。

 そう考えてはみたけど――それでも絶対、足を踏んだり、蹴ったりはしないな。

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