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八年目と一年目(1)

 社会人になってみてわかった。

 八月は大変だ。


 学生時代の八月と言えば、遊んでばかりいる時期だった。

 夏休みの真っ最中、毎日のように友達と遊びに行った。暑さにばててる暇もなかった。海に行ったりプールに行ったり遊園地に行ったり、日が暮れたら家の庭で花火もしたりして。夏を満喫するのに忙しくて、夏の終わりを意識することさえなかった。お蔭で毎年のように、夏休み最終日には泣きを見る羽目になっていた訳だけど、それも今となってはいい思い出なのかもしれない。

 社会人一年目の今年、まだ水着も浴衣も着ていない。海やプールには行ってない。行く暇もないと思う。花火なんて、そもそも出来る時間に帰ってない。勤務を終えて家に戻る頃には九時を過ぎてることがたびたびあった。お盆前はいつも忙しくて、残業が多いのだそう。そのせいか最近は暑さが堪えるようになってきた。

 去年までは夏が好きだった。気温が上がるだけ上がると無性にわくわくした。朝起きてカーテンを開けて、空がからりと晴れてると、今日は何をして遊ぼうかと考えた。雲一つない青空も、強い陽射しも好きだった。夏休みは天国だった。夏は楽しいものだとばかり思っていた。

 社会人になってみてわかった。

 ――八月は、地獄だ。


「暑い」

「暑いですね」

「これクーラー効いてんのか? 壊れてるんじゃないか?」

「一応、全開にしてます」

 社用車の中は蒸していた。駐車場に日陰なんてそうそうあるものじゃなく、営業先回りで車を停める度に程好く過熱されていく。クーラーを掛けてもガラス越しの陽射しには太刀打ち出来ず、気付けば汗が滲み始めている。ハンドルを握る手が滑りそうだった。

「うんざりするほど暑い」

 石田主任は助手席でぼやいている。ハンカチをうちわ代わりにして、ぱたぱた扇いでいるのが横目に見えた。恨めしそうな表情がちょっと可愛い。――可愛いなんて言ったら失礼かな。七つも年上の人に。

 大体、主任がこの車に乗り合わせているのだって、私がまだ一人で営業に出かけられる状況じゃないからだ。お得意先への道順やら市内の地理やらを教えてもらって、頭に叩き込んでいる真っ最中。主任に暑い思いをさせているのが申し訳なくなる。早く主任にご迷惑を掛けない一人前になりたい。私がそう言えば、主任にはまたたしなめられてしまうに決まっているけど。

「もしかして、主任は夏、お嫌いなんですか?」

 そうだったらより申し訳ないなと思いつつ、運転席から質問してみる。

 答えはすぐに返ってきた。

「聞くタイミングが間違ってるぞ、小坂」

「へ? そ、そうでしょうか」

「そりゃお前、この車の中で聞かれたら、好きだなんて答える訳ないだろ」

「確かに……」

 蒸し風呂のような車内には、ようやくひんやりした風が吹き込み始めた。でも次の得意先にはもうすぐ着いてしまうらしい。車を停めて、エンジンを切ったらクーラーも止まる。なのに夏の陽射しは止んだりしない。そう考えると確かに、先の質問は愚問でしかないみたいだ。

「じゃあ、どのタイミングでお聞きしたらいいんでしょうか」

 私は再び尋ね、主任はまたも即答した。

「ビアガーデンで聞け。絶対に『好き』って言うから」

「それは私でも好きって答えます」

「だよな。暑気払いが必要だよ、全く」

 切実な声で主任が呻く。

 夏の営業は大変だ。蒸し風呂と冷房の効き過ぎた得意先とを行ったり来たり。暑気払いをしたくなる気持ちもわかる。むしろ私は、早く夏を追い払いたい。昔はあんなに八月が好きだったのに。

「飲みに行きたいな」

 石田主任の呟きが聞こえた。独り言なのか、問いかけなのか、判断の難しいトーンだった。

 とっさに応じた。

「そ、そうですね! こう暑いとさすがに」

 さすがに、何なんだか。自分でも突っ込みたくなったけど、主任は別に突っ込んではくれなかった。ボケた訳じゃないけど気まずい。

「ここんとこ行ってないしな」

 呟くような声は更に続いた。

 ハンドルを握る手が余計な汗を掻く。私は思いっきり言葉に詰まる。


 気の利く人ならここで、デートに誘ったり出来るんだろうな。

 それなら今度行きましょう、二人で、なんて言ってみたりして。

 だけどそんな大それたことが言い出せるほどの度胸はなかった。というか上司を誘うのは失礼に当たらないんだろうか。連れてってください、って言うべきなのかな。それとも、皆で行きたいですね、くらいにしておくのがいいのかなあ。目上の人の誘い方ってまるでわからないや。学生時代の先輩をデートに誘うのとはまるで違うから……。

 あれこれ考えたくなるのをぐっと堪えて、まずは運転に集中する。


 石田主任のお誕生日祝いをしてから、もうすぐ一ヶ月が経つ。

 その間に私が何をしていたかと言ったら、まるで何もしていない。

 もちろん営業課の一員としてはいろいろ学んだ。得意先の方々のところへご挨拶に回ったり、市内を車で走る時の近道を教えて貰ったり、後は見積書の作成やデータ入力も教わっている真っ最中。ここ二週間は特に業務が忙しかったから、もちろんルーキーらしく雑用もこなしている。お弁当の買出しと備品の補充は、自分で言うのもなんだけどもう完璧だ。一人でばっちり出来るようになった。

 でも、忙しいからと言って主任のことを忘れていられるかと言ったら、そうでもなかった。

 むしろ忙しい時こそ主任と接する機会も多くて、お世話になったりご迷惑をお掛けしたりしている。忙しい時でも石田主任は優しくて、私は中途半端な気持ちを持て余している。いっそ今だけでも忘れて仕事に集中していたいのに、それが出来ないんだから。


 一つのことだけに集中するのは難しいって、霧島さんは言っていた。

 仕事の合間に恋をすればいいんだって。

 頭ではわかっているんだけど、実行に移すのはなかなか大変だった。ともすれば仕事さえ放り出してどぎまぎしてしまう自分がいて、自己嫌悪に囚われてしまう。仕事で接する時くらい、普通にしていられたらいいのに。

 こうして狭い社用車の中、二人きりでいるだけで緊張してくる。何気ない会話が妙に上滑りしてしまう。

 今の私はやっぱり、ばればれなんだろうか。


「小坂は運転上手いよな」

 不意に、主任がそう言った。

「えっ? あ、えっと、そうでしょうか?」

 話題が転換したことに戸惑いつつ、問い返す。ものすごく声が裏返った。誉められたのかもしれない、そう思って。

 緊張する私の隣で、主任はいともあっさり語を継いだ。

「上手いよ。助手席にいてもいらいらしないし、むしろ乗り心地がいい」

「あ……ありがとうございます!」

 誉められた。うれしい。ちょっとテンションが上がりそうになる。何とか抑える。でも口元がどうしようもなく緩んでしまう。

「学生時代から結構乗ってたのか?」

「は、はい、乗っていました! 遠出をする時は大抵私の運転で」

「へえ。車持ってんのか」

「あ、いえ、まだです。父の車を借りたり、あとはレンタカーだったりです」


 さすがに学生の身分でマイカーは手が出なかった。お父さんの車がある以上、停めておく場所もなかったし。

 でも運転技術が上達したのはそのお蔭かもしれない。お父さんの車だったり、レンタカーだったりすると、もう是が非でも安全運転しなきゃって気になるもの。ぶつけたり擦ったりしたら一大事。お父さんが泣いちゃう。

 今だって社用車だから気合入りまくりだ。

 もちろん、主任の命をお預かりしているから、というのもある。


「そうか、そうだよな」

 妙に納得した様子で、主任が微かに笑った。

 何が面白くて笑ったのかはわからなかったけど、そういうそぶりは不思議と大人っぽく見えた。

 どきっとしたのを悟られないよう、慌てて話題を続けてみる。

「主任は運転するの、お好きですか」

 これはタイミングに合った質問だったんだろうか。主任の答えはやっぱり早かった。

「まあな、助手席にいるよりは自分で運転する方が気楽だ」

「わかります。気になって、ちらちら見ちゃいますよね」


 きっと免許を持ってる人は、皆そうなんじゃないかと思う。助手席に座ったら、運転席にいるドライバーの一挙一動が気になってしょうがないと思う。私も友達の車に乗せて貰った時とか、お父さんの車に乗る時はそうだ。どうしても気になっちゃう。

 この社用車を、石田主任が運転してる時だってそう。

 もっとも、主任の運転中はどうしても、フロントガラスを見据える横顔とか、バックミラーを覗く眼差しとか、ハンドルやギアを握る手の方に視線が行ってしまう訳だけど。勤務中でもそのくらいのよそ見、盗み見は許されるはず……だといいなあ。役得として。


「でも小坂の運転はいいな。安心して見てられる」

 ちょうど信号で停止したタイミング、主任がそう言った。

「誉めていただけてうれしいです」

 ギアをローに入れながら、私は素直に照れた。照れた後で少し考えて、ふと気付く。

「主任……その、私の運転を見ていらっしゃったんですか?」

「まあな」

「ず、ずっとですか?」

「いや、ずっとってほどでもないけど」

 主任がふっと笑った。ずっとと言うほどでもないってことは、ずっとではないにしろ或る程度は見ていたということ? 私の一挙一動を?

 うろたえたくなる私に、主任の言葉は更に続く。

「お前の場合は顔を見てた方が面白い」

「顔!? や、ちょっと、見ないでくださいっ」

「小坂は横顔からしてわかり易いよな」

「な、何がですかっ!」

 聞き返したのに石田主任はげらげら笑うばかりで、何も答えてはくれなかった。


 どぎまぎする私をさて置いて、信号が変わる。

 車が動き出す。

 セカンドに入れようとした手が、ギアからつるりと滑りかけた。

 見られてる。そう思うと、運転に集中するのが精一杯だった。夏の陽射しが強すぎるせいか、暑くて、汗が止まらなくてしょうがなかった。

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