意識と無意識(3)
霧島さんの暮らす部屋は、アパートの一階にあった。
そのドアを、主任はチャイムも鳴らさずに開けた。
鍵が掛かっていなかったことにも驚いたけど、出迎えに現れた人が部屋の主ではなく、安井課長だったことにまたびっくりさせられた。
「遅い!」
安井課長は不満げな表情で言った。
スーツ姿とは違う、普段着の課長とお会いするのは初めてだ。カーディガンにスキニージーンズというきれいめの格好だった。
ただその服装よりも、たった今浮かべた拗ねたような表情の方が新鮮だった。主任や霧島さんと比べると更に大人っぽい印象のあった安井課長も、お休みの日はこういう素の表情をするようだ。
「買い物してから行くって言っといただろ」
主任も噛みつくように応じる。手を使わずにスニーカーを脱ぎながら、提げた紙袋をがさっと持ち上げる。
紙袋を一瞥した課長は得心の面持ちになったものの、低い声を立てた。
「お前らが来るまで、俺がどれほど肩身狭かったか想像してみろ。何せ相手はプレ新婚夫婦だ」
プレ新婚夫婦、というのがどういう意味か把握するのに、私だけが時間を要した。把握してからはなるほどと思った。
「あてられたか」
「甘ったるさで窒息しそうだった」
「塩舐めときゃよかっただろ」
「にがりでもがぶ飲みしないと追いつかないレベルだぞ」
安井課長の言葉に、主任はそこで意地悪そうな顔をしてみせる。
「けど残念だったな。俺と小坂がもっと当ててやるから覚悟しろ」
こちらに飛び火すると思わなかったので、私はよろよろもたもたとブーツを脱いでいるところだった。名前を出されて恐る恐る視線を上げれば、こちらに目をやる安井課長に笑いかけられた。
「そんなこと言ったって、小坂さんはまだ石田のものじゃないだろ?」
ぎょっとしているうちに課長が自ら語を継いで、
「今からでも遅くない、俺に乗り換えないか? 小坂さんならいつでも歓迎だ」
「えっ」
その言い方は明らかに冗談めかしていたから、本気だとは思わなかった。だとしても反応に困ったのは事実で、何か言った方がいいのかなと思っていれば、主任が私よりも早く口を開いていた。
「馬鹿言うな。誰が渡すか」
どきっとするようなことを平然と言われて、更には手を差し出された。
見れば、主任は既に靴を脱ぎ終えている。私はと言えばまだブーツを脱ぐのによろよろ、もたもたとしていたところだったから、一瞬ためらったものの素直に手を借りることにした。
大きな手はさっき繋いだ時と同じようにひんやりしている。
「あの、ありがとうございます」
ブーツを脱ぎ終えたところでお礼を述べたら、にやっとされてしまったけど。
「気にするな。安井に見せ付けてやりたかっただけだ」
それこそ冗談のように主任が言い、その肩越しに覗いた安井課長もまた冷やかすような笑みを浮かべている。
私はぎくしゃく目を逸らしつつ、お二人それぞれの内心を何となく、察したような気分でいた。
靴を揃えてから室内へと立ち入る。
ちょうど奥の部屋から霧島さんが現れたところで、入ってきた私たちを見るなりおやっという顔をした。
「あれ、先輩も来たんですか。俺は小坂さんだけでいいって言ったのに」
「むしろ俺がいなきゃ小坂を連れて来れなかったんだぞ、感謝しろ」
主任が言い返すと、霧島さんはわざとらしく眉を顰める。
「大体、遅いですよ先輩。お蔭で安井先輩から散々からかわれたんですから」
「からかってない。俺は本気で、霧島と長谷さんの門出を祝おうと思ってるよ」
薄緑色のカーペットの上、安井課長は座りながら反論する。その隣に主任も座ったので、私は遅まきながらお邪魔しますと言って、後に続いた。
アパートの室内は外観から想像がつくくらいの広さだった。リビングはテレビとローテーブル、それにソファーがあるくらい。あまり物があるふうではなく、かと言って生活感がないわけでもない。テレビの上には卓上用のミニカレンダーが、下のテレビ台にはDVDプレイヤーがあって、漠然と家庭的なイメージを抱かせた。
リビングからは閉じたままの襖と、間仕切りのない台所が見えていた。私がそこへ目を留めた時、ちょうどキッチンに立っていた長谷さんが振り向いて、にっこり笑顔でお辞儀をした。
「あっ、石田さんに小坂さんも。いらっしゃいませ」
長谷さんは赤いギンガムチェックのエプロンを身に着けていて、それが何だかびっくりするくらいに可愛かった。特にフリルとかはついていない至ってシンプルな型のエプロンが良く似合っている。うっかり、お辞儀を返すのが遅れたくらいだった。
「あ、あの、お邪魔してますっ」
私は引っ繰り返った声で挨拶も返し、長谷さんにはそこでちょっと笑われた。
「楽にしていてくださいね。私の家じゃないですけど」
「はい、ありがとうございます!」
頷きつつ、ここが長谷さんの家じゃない、という点はなかなか飲み込めなかった。ごく自然にキッチンに立っていて、本当に奥さんってふうに見えているから余計に。安井課長の言っていた『プレ新婚夫婦』なんて言葉の意味をいち早く察する。
その安井課長と、霧島さんと、それから石田主任とは、言い合いとも何ともつかない応酬を続けていた。私が長谷さんとの挨拶を済ませて、視線をそちらに戻した時もまだ続いていた。
「だから、からかってないって。お前の結婚式で歌を歌ってやろうとしてるだけだろ」
「言っておきますけど変な歌は止めてくださいよ!」
「変な歌って何だよ。どんな歌にする気だったんだ?」
「いや、俺のアイドルを掻っ攫われた恨みは、やっぱり失恋の歌で晴らすべきかなと」
「絶対に駄目です! 縁起でもない!」
「面白そうだなおい、俺もカメラ係じゃなきゃ歌ったんだがな」
「何なら二人で歌うか? 霧島言うところの縁起でもない歌を」
「止めてくださいってば!」
今のところ課長がからかい、主任が煽り、霧島さんが一人でむきになっているようでもあったけど、三人のやり取りはいつも以上に楽しそうに見えた。普段着の顔、とでも言うんだろうか。長谷さんも霧島さんの隣に座って、くすくす肩を揺らして聞いている。きっといつもこんな感じなんだろうなあ。
私はまだこの空気に慣れていない。思わず目を瞬かせると、すかさず主任が説明してくれた。
「安井はあれで結構歌が上手いんだ。営業課時代は、カラオケ接待で契約を取ってきたこともある」
「カラオケでですか? すごいですね!」
よほど歌唱力がなければ出来ないことだと思う。説明を受けた安井課長は、そこで照れたように笑った。
「下調べが大変だけどな。相手の年代や趣味を踏まえて、好きそうな曲目を練習しておかなくちゃならない。一度、入れた曲を全く知らないと言われた時は、頭が真っ白になったよ」
これはこれで、お酒を飲むだけの席とはまた違う苦労があるみたいだ。
私は去年お呼ばれした飲み会のことを思い出し、あの時の居た堪れなさを振り返ってみる。あれは最初の一歩であって、これから何度でも経験する出来事に違いない。そのうちに私も営業の一環として、カラオケのお誘いにあずかる日がやってくるかもしれない。
と同時につい先日、主任が『最近の歌には詳しくない』と言った理由もやっとわかった。仕事の忙しさだけが原因ではないらしい――ある意味、仕事が原因なんだろうけど。
「お蔭で古い、縁起でもない歌だけはしこたま覚えた」
そう語る安井課長は、どことなく誇らしげだったけど。
「失恋だろうと不倫だろうと恨み節だろうと何でもござれだ。霧島、どれがいい?」
「どれも嫌です!」
霧島さんが声を上げる。
即座に石田主任が吹き出す。私は笑ったら失礼かなと思っていたけど、主任があんまりおかしそうにしているものだから、結局こらえ切れずに笑ってしまった。
「そんなにむきになることないですってば」
長谷さんが、ふてくされた様子の霧島さんに声を掛けている。
「一曲くらい縁起の悪い歌があったってどうってことないです。むしろメリハリがあって盛り上がるかもしれないですよ」
受付勤務の人らしく、ごく優しく、穏やかに続ける。
途端、場の空気が落ち着いた。
「あ、長谷さんがそう言うなら、そうかもしれませんね」
すっかり霧島さんは毒気を抜かれたようだったし、安井課長はしてやられた顔つきで息をついている。
主任が横目で私を見、はにかむような笑みを浮かべる。私もくすぐったい思いがした。
なるほど、プレ新婚夫婦ってこんな感じ。
「じゃあ、そろそろご飯にしましょうか」
会話が一段落ついたところで、長谷さんが再び立ち上がる。
「今日のメニューはお正月らしく、力うどんです。すぐに用意しますから、ちょっとだけお待ちください」
予想通りの麺類だった。
うきうきしながら私も立ち上がる。
「あの、お手伝いすることがあれば、是非やらせてください!」
宣言してすぐ、皆が一斉に私を見た。若干の気恥ずかしさを感じたものの、長谷さんはうれしそうに微笑んでくれた。
「助かります。なら、お餅を焼くのをお願いしていいですか?」
「はい」
私もうれしかった。
お手伝いを許してもらえるって、ここにいることを許してもらえたみたいで。
二畳ほどの広さのキッチンに、初めて足を踏み入れた。
食器棚の中段に置かれたオーブントースターへ、長谷さんから手渡された角餅を並べていく。
「焦げ目がつく前、膨らんできた頃に止めてください」
「了解しました!」
威勢良く返事をすると、長谷さんはまたうれしそうに笑ってくれた。
「小坂さん、よろしくお願いしますね」
ちょっと照れたけど、もちろん、頷いた。
「お任せください!」
オーブントースターをガラス戸越しに覗き込む。
真っ赤な光の中に置かれたお餅を眺めていれば、だんだんと変化が現れる。表面にひびが入り、少しずつ少しずつ膨らんでくるのがわかる。
そういえば我が家ではお餅を焼いて食べることがない。うちのお父さんは柔らかいお餅が好きだから、いつも茹でたところにきな粉や砂糖醤油を掛けている。うどんの具とは言え、焼いて食べるのは何だか新鮮。これって長谷さんのおうちの風習なんだろうか、それとも霧島さんの好みなんだろうか――ふとそんな疑問が湧き起こる。
密かによそ見をしてみれば、私のすぐ背後には長谷さんの背中がある。
エプロンを着けた長谷さんは流し台のところでかまぼこを切っている。ガス台ではお鍋が二つ、普通のお湯とめんつゆの二種類がふつふつ煮立っている。もうもうと立ち込める湯気のお蔭で、台所は夏みたいな暑さだった。
長谷さんの包丁裁きは危なげなかった。一定のスピードで、かまぼこを均等な幅に切り分けていく。工場の機械みたいに手早くて、正確に見えた。料理が上手だと聞いていたけど、確かにこうして眺めてみても上手そうだなあと思う。きっとうどんも美味しいだろうなあ。楽しみ!
――あ、そうだ。お餅。
ちょっとよそ見をしている間に、角餅は風船みたいに次々膨れ上がっていた。慌ててタイマーをゼロまで押し進める。それからガラス戸を開けるとお餅が萎んでいくところで、それこそ空気の抜けた風船によく似た格好をしていた。
「お餅、出来ました?」
私が声を掛けるより早く、長谷さんがこちらに気付いた。すぐさま食器棚から割り箸とお皿を取り出し、手渡してくれる。
「じゃあ一旦、お皿に載せておいてもらえますか? これから麺を茹でますから」
「はい!」
お箸とお皿を受け取って、トースターからお餅を移す。焼き過ぎていないのが幸いしてか、計五個のお餅は苦もなく移動を終えた。互いにくっつかないよう少し離して並べておく。
私がお餅の移動作業を終えた頃、長谷さんは煮立ったお湯に乾麺を入れていた。
ぱらぱらと白い麺がお湯の中へ飛び込んでいく。菜箸でそれを大きく掻き混ぜた後、長谷さんは腕時計を見た。手首を上げるようにして見た。大人っぽかった。
「すごく、てきぱきしていらっしゃるんですね」
感嘆の思いで私が言うと、いかにもくすぐったそうにされてしまった。
「ありがとうございます、小坂さん」
「長谷さんはとってもお料理が上手だってうかがいました。うどん、楽しみです」
「上手と胸を張って言えるほどではないんですよ」
そこで長谷さんは微笑み、
「一人暮らしが長いから、慣れちゃったんです。昔はもっとものぐさで、自炊が面倒だと思うことも多くて、夏じゅうそうめんと冷麦だけで過ごしたこともあったんですけどね」
愛嬌ある顔に似合わず、なかなか豪胆なことをおっしゃる。
思わずぽかんとしていれば、直にいたずらっぽい面差しが覗いた。
「その時はさすがに体調を崩しました。それで反省して、ご飯を作るようになったんです。ちょうど私が新人だった頃の話です」
「へえ……!」
ちょっとびっくりだ。大人っぽい長谷さんにもそういう頃があったんだなあ。全然イメージと違うけど、それはそれで可愛いと思ってしまうのは人徳のなせる業なのかも。
そういう経緯もあって、今は普段からちゃんとご飯を作っているんだろうな。素敵な成長ぶりだ。私も見習わないとと思いはするものの、実家暮らしだとどうしても気が緩んでしまうからいけない。
「まさに『人に歴史あり』という感じですね」
私が率直な感想を述べると、長谷さんにはおかしそうにされた。鍋を掻き混ぜながらくすっと笑って、
「小坂さん、可愛いこと言いますね」
「――え!? あ、の、ええと」
年上の女の人に言われても、やっぱりどきっとしてしまう言葉。お餅の皿を持ったまま慌てふためきそうになる。
長谷さんは目の端でこちらを見て、僅かに含んだような表情を浮かべる。
「前に、石田さんも言ってましたよ。小坂さんが時々大げさな、あまり使わないような物言いをしたり、そうかと思えば意外なことを知らなくて、知らないことには目をきらきらさせて聞き入ったりするのがすごく、可愛いんだって」
それから優しく添えてきた。
「今、その気持ちがちょっとわかりました」
一層どんな反応をしていいのかわからなくなる。
どうして主任は、長谷さんにまでそんなことを話しているんだろう。可愛いだなんてそんな、しかも私からすれば微妙と言うかあんまり可愛さを感じない点を挙げられているのもむずがゆい。物言いが可愛いって。大体、そんなに大げさな物言いしてるかなあ。普通だと思うんだけどな。
恨めしさと恥ずかしさから、リビングの方をうかがってみる。
ローテーブルを囲んだ主任と課長と霧島さんは、賑々しく何かを論じ合っているようだった。
耳を澄ませば微かに聞こえる会話内容。
「長谷さんなら内掛けの方が似合うな」
もっともらしい口調で主任が言い、
「いや。絶対ウェディングドレスの方が似合うに決まってる」
頑として課長が言い返し、
「どっちも似合います。何たって長谷さんですから」
霧島さんが自分のことみたいに誇らしげに宣言する。
どうやら結婚式の衣装について話しているらしい。でも霧島さん、そんなこと言ったら絶対突っ込まれるんじゃないかなと思っていれば、本当にすかさず突っ込まれていた。
「そりゃ長谷さんは可愛いだろうがな。新郎がこんなもんだしなあ」
「いかに花嫁がきれいでも、隣に立つお前が七五三並みなら結婚式は中止だな」
「勝手に決めないでくださいよ!」
声を上げる霧島さん。主任と課長はげらげら笑い、キッチンまでもが揺れたように感じた。
今更だけど、仲がいいんだなあと思う。




