意識と無意識(1)
日付が変わった直後、石田主任から電話があった。
『あけましておめでとう、小坂』
「あっ、おめでとうございます、主任!」
張り切って答えたら、新年早々笑われた。
『年明けの第一声が小坂の声ってのもめでたいな。いい年になりそうだ』
笑いながらもうれしそうな声に聞こえた。
こっちまでうれしく、おめでたい気分になる。
『しかしお前はこんな時間でも元気だな。起きてたか?』
「はいっ。することがないのでずっとテレビを見てました」
煌々と点る画面の中、年越しカウントダウンを終えて賑う舞台が映る。
こんな時間でも元気なのは私に限ったことでもないみたいだ。電話越しに聞く主任の声も、別段眠そうな様子ではない。
「主任もカウントダウンを見ていらしたんですか」
聞いてみる。そういえば主任の好きなテレビ番組ってまだ知らないな、と思いながら。
返ってきたのはだるそうに変わった苦笑いだった。
『見てたと言うか、ずっとチャンネル回してた。大晦日って見るもんないよな』
わかる気もする。十二月末から一月の初めにかけてはずっと、特番や長い時代劇ばかりになる。見るものがないと言うほどではないけど、いつもと違うテレビ欄に気が逸ることも時々。
「私も紅白終わった後はずっと流し見でした」
『紅白か、俺はそっちも見てないな。最近は知らないアーティストばかりでついてけない』
ぼやきの後、溜息まで聞こえた。
『こういう時に歳食ったって実感するな。小坂はまだ最近のに詳しいんだろ?』
「詳しいと言うほどではないですけど、大体わかります」
少し前までなら胸を張って、詳しいですと言えたんだけど。近頃は仕事で帰りも遅くて、歌番組も満足に見ていない。だから主任の嘆きはこれから行く道なのかもしれない。来年の紅白は知らないアーティストばかりになっているのかも。それはそれでちょっぴり寂しい。
『そうか。いいよな、若くて』
主任はそう呟いてから、穏やかに笑った。
『でもまあ、三十になっといてよかったって気持ちもある。お蔭様でそれなりに楽しめてるよ、こと近頃はな』
数ヶ月前、三十歳のお誕生日が来ることを愚痴っていた主任が、前向きな言葉を口にした。そう言えるようになったことに、私も貢献できていたのならうれしい。
信じてもらえないかもしれないけど、私は、以前からずっと思っていた。
三十歳は嘆き悲しむような歳ではなくて、私からすればすごく大人で、とっても素敵な年齢のはずだって。少なくとも石田主任は素敵な三十歳になっていますって。
二十三の小娘が言ったところで信憑性は薄いかもしれないけど――。
告げようか告げまいか迷っている間に、主任が語を継いでいた。
『ところで、お前はいつ頃帰ってくる?』
「明日……じゃなくて、今日の午前中には帰ります」
もう日付が変わって、年も明けて、一月一日を迎えていた。
『今日ってことは、一日だよな』
主任も一瞬考え込んでしまったらしい。そんな僅かな間があった。
『確か、お前の家からも近いんだったな』
「はい。隣町なのでたまに来るんです、祖母の家」
私が今いるのは、お父さんの方のおばあちゃん家だ。
年末年始はここで過ごすのが、毎年の慣わしだった。
うちのおばあちゃんはまだ六十代。一人暮らしが余裕で出来るくらいに気が若くて、背筋もしゃんとしているけど、そこはお約束という奴なのか寝るのがとっても早い。そして一緒に来ているお父さんやお母さん、妹は酒を飲んでいたからか、大晦日のうちにあっさり寝てしまった。
それで現在、テレビでカウントダウンを見ていたのは私だけだった。私は車を運転して帰らなくてはいけないので、お酒を飲んでいなかった。せっかくの楽しみが堪能できなくて、おまけに一人ぼっちで、本音を言うとちょっと寂しかった。
だから石田主任が電話を掛けてくれて、しかも新年の挨拶までしてくれて、張り切りたくなるくらいにうれしくなってしまった。
新年早々いいことがあった。これはものすごくいい年になりそう!
「主任はどんな大晦日をお過ごしになったんですか」
私は尋ねる。
年末年始のお休みに入ってからも何度か電話をする機会があって、その時に主任は、お休みの間の予定をこう答えていた。
――実家に帰るのも面倒だから、多分、一人でごろごろして過ごす。
『お蔭様で、一人ぼっちの寂しい大晦日を満喫したよ』
答えた主任は、直後まるで噛みつくように、
『わかってるだろうがな、寂しいってのはお前がいないからだ。この数日間、お前の顔を全く見てない。そのせいで何をするにもだるくて調子が出ない。どうしてくれる』
「ど、どうってその……」
いきなり強く言われても困る。とりあえず考えて、答えてみた。
「だるいとおっしゃるのは、体調を崩したからではないんですよね?」
そうしたら一層噛まれた。
『新年早々俺の話を聞いてなかったのか、小坂』
「いえ、聞いておりました! でもあの、ご病気でなければいいなと思って」
『ある意味病気だ。治療薬としてお前が欲しい』
主任は主任で、新年早々とんでもないことを言う。
電話とは言え、おばあちゃん家でそういう言葉を聞かされるのは何だか妙な感じだ。私はもぞもぞと座り直した。
テレビの向こうではアイドルたちが笑顔で手を振っている。よく見る営業スマイルが、今は早く帰れと急かしているようだった。
会いたいのは同じだ。私だって。
『こんなことなら去年、本気で帰さなきゃよかったな』
でも決定的に違うのは、主任の方がずっと大人だということなのかもしれない。そんな台詞もさらりと、むしろ溜息交じりに口に出来てしまう主任と、去年の出来事を一通り思い出すだけでいてもたってもいられなくなりそうな私。七歳の差も新年早々意識させられて、どぎまぎした。
『それでだ。一月三日、空いてるか』
「三日ですか? ええと、特に予定はありませんけど」
『三が日のうちから連れ出しても問題ないか?』
「大丈夫です」
もしかして初詣のお誘いかな。予想を立てた私に対し、次に向けられたのは意外な言葉だった。
『霧島が、お前を連れて遊びに来いと言ってる。行く気あるか?』
「え……? あの、霧島さんのおうちに、ですか?」
この上なく意外なお誘い。どう答えようか迷っているうちにも、平然と話は進められていく。
『話すと長いんだがな。あいつが結婚を機に引っ越すことになって、引っ越し前に長谷さんや安井と集まって、思い出一杯の部屋で食事会でもやろうかってな話になった。それでまあ、いい機会だから、小坂も誘うかって話が持ち上がった訳だ。わかったか?』
「お、概ねわかりました。でも……」
聞く限りではかなりメモリアルな食事会のように見受けられるんだけど、そこに私がお邪魔してしまってもいいんだろうか。
『他の連中も、お前に是非来て欲しいって言ってる。長谷さんは話し相手が欲しいみたいだし、安井もお前に来て欲しがってた。霧島に至っては、先輩抜きで小坂さんだけでもいいですよ、なんて抜かしやがった』
確かに霧島さんなら言いそうだ。
いやそれよりも、長谷さんには仕事納めの日にも誘ってもらっていたっけ。私の方こそ是非お話してみたかった。もしご迷惑でないなら。
『それと結婚祝いの品もな。ついでだからその日に渡そうと思ってる』
「先日見に行った漆器ですね」
『ああ。まずはあれを買いに行かないとな。だから小坂にはその買い物にも付き合ってもらって、その後で奴の部屋に乗り込むって流れを計画してたんだが、どうだ?』
どう、と問われても何だか夢見心地と言うか、すごいことを提案されているようで頭がついていかない。
もちろん嫌な気分ではないし、むしろすごくいい機会だと思う。主任と、主任の周りの方々とを仕事から離れて眺められる機会。霧島さんや長谷さんや安井課長とも、仕事以外の話を出来るかもしれない機会でもある。
「私でよければ、ご一緒します!」
『いい返事だ。じゃあ決まりだな』
「はいっ」
『だが忘れるな、お前に一番来てもらいたがってるのは俺だ。今回は仕事でもないし、遠慮も容赦もなく、自由気ままにお前を独り占めするつもりだから覚悟してろよ』
またしても答えに困ることを言い切った主任は、その後でもう一度笑った。
『思ってた以上に、俺はお前の顔が見られないと駄目らしい。ジンクスはご利益もあるが副作用もでかいな』
例によって私はどう答えていいのかわからなくなっていたけど、主任の過ごした一人きりの大晦日に思いを馳せるくらいの余裕はあった。
『来年は一緒に過ごせるといいな』
その言葉には素直に応じた。
「そうですね」
『……珍しくちゃんと答えたか。本気で言ってるんだろうな?』
「も、もちろんです」
主任が冗談っぽく疑ってきたので、私もぎくしゃく、笑える限り笑っておいた。
「あの、本当言うと私も寂しかったんです。こうしてお電話いただけて本当にうれしいです、ありがとうございます」
寂しかったのは家族が寝てしまったから、だけではなかったみたいだ。
来年はもっと、別の過ごし方をしたいと思う。
『新年早々、可愛い奴め』
吐息交じりの声がして、くすぐったかった。
『じゃあ今年は、お前の初夢を見るくらいで妥協しとくか。まずは今夜、みっちり練習しないとな』
「ええと……ゆ、夢を見る練習なんてあるんですか?」
とりあえずそこを突っ込んでみた。
主任は、にやっとするのがわかるような声で答える。
『ある。でも、どんな方法かは内緒だ』
――気になる。
実際にどんな初夢を見たのかは、三日、お会いしてすぐに聞いてみた。
「初夢を見る方法、上手くいきましたか?」
「見たには見た」
我が家まで迎えに来てくれた主任は、助手席に座った私にそう答えた。
車はすぐに動き出す。サイドミラーに玄関からこちらを伺う両親の顔がちらと見えた。そちらに会釈をしてから、主任がハンドルを握り直して、続ける。
「でも若干、不本意な夢だった」
「不本意……ですか?」
私は運転席の主任に集中しようと思うのに、サイドミラーの中が気になってしょうがない。うちのお父さんとお母さんはまだこっちを見ている。寒いのに、わざわざ外まで出てきて見送ってくれている。気持ちは少しわかるけど、曲がり角を曲がって映らなくなった時は、さすがにほっとした。
改めて主任の方を見る。横顔が苦虫を噛み潰したようだった。
「一応、小坂は出てきたんだがな。勤務中の夢だった」
「でもそれなら、夢を見る方法、成功したってことですよね?」
私は思う。そしてすごい、と感嘆する。
自由に夢を見る方法があるなんてすごい。私も是非試してみたい。仕事のある日、特に面倒な案件やプレゼンの前の晩なんかはいい夢をたっぷり見ておけば、朝の目覚めも気分よく、仕事にも張り切って取り組めそうな気がする。
わくわくと明日への希望を見いだしかけた私に、
「成功? お前が猫背でパソコン打ってて、途中で慌てて姿勢直す夢でもか」
と主任が続ける。
「そんな夢だったんですか? あの、恥ずかしいです」
勤務中の夢って言うなら、せめてもう少し――キャリアウーマンっぽくばりばり仕事をこなしているところとか、パソコンに向かっているにしてもきりりと姿勢良くしているところとか、何と言うか現実よりも色をつけて見てもらえたらよかったのに。そんないかにもありのままの姿を夢に出されても。
「だから言ったろ、不本意だって」
「本当ですね……」
「俺だって見るなら、お前に違う意味で恥ずかしがってもらえるのがよかった。もうちょい色気のある夢な」
それはそれで無茶な注文のような気がする。色気のある私とばりばり仕事をする私、どちらも別ベクトルで非現実的だ。自分で言うのも何だけど。
「見たい夢を見る方法、やっぱり気になります。教えてください」
身を乗り出さんばかりに尋ねれば、主任は横目で一瞬だけ、こちらを見た。
「内緒ったら内緒だ」
「えっ、どうしてなんですか?」
「教えてやったところでお前には無理だ。どうせ無闇に恥ずかしがって出来っこない」
余計、気になる。
そんな恥ずかしいことをしている主任というのも、もっと気になる。
「プレゼントした奴、つけてきたんだな」
私がうずうずしたタイミングで、全く別の話題が振られた。
プレゼントという単語だけですぐに思い当たった。香水の話だ。
「はい、あの、そうなんです! その節はありがとうございました!」
改めてお礼を言わなくてはと、私はそこで姿勢を正した。
「そこまで力一杯言わなくてもいい。先に貰ったのは俺の方だ」
「いえ、素敵な品をいただけてうれしかったです。すごくいい匂いでした」
頭を下げた時、まだ嗅ぎ慣れない香水の匂いがした。すっきりと爽やかな香りはグリーンノートっていうらしい。それほど甘くなく、大人っぽい感じがするのが好きだった。まるで大人のお姉さんになった気分だ。
服装も、今日は香水に合わせてみたつもりだ。もちろん行き先がデパートに霧島さんのおうちであることも踏まえて、失礼のないように、だけど畏まり過ぎないようにセーターとロングスカートを選んだ。気分だけならすっかり大人のお姉さんだ。
「気に入ったか」
その問いには、もちろん即答した。
「はい! とっても気に入りました!」
「よかった。お前に似合うと思ったんだ」
横顔で笑う主任は、とても見立て上手だと思う。私に似合う香水がわかるなんて、それこそすごい。三十歳になるとそのくらいは出来ちゃうものなんだろうか。私もそういう三十歳になりたい。
「家族にも誉められたんです。香水一つで大人っぽく見えるねって」
まだ二十三の私が照れながら報告したら、すかさず突っ込まれた。
「大人っぽくったって、小坂はとうに大人だろ」
「そうなんですけど……うちの両親からすると、やっぱりまだまだって感じみたいです。だから香水つけてたらびっくりされてしまいました」
事実は少し違う。実を言うとうちの家族からは、これでもかってほど冷やかされた。でもそのことを当の主任に言うのも恥ずかしいので、黙っておく。今日の両親の見送りようで、あるいは察しがついているかもしれないけど――。
ともかく、二十歳を過ぎようと社会人になろうと、なかなか大人扱いして貰えないのが悩みだった。おばあちゃんなんて、大学生の妹だけじゃなく私にまでお年玉をくれようとするし、困った。
「俺は、大人の扱いしかしないからな」
ふと、主任が呟きのトーンで言った時、信号で車が一旦停まった。
何気なく運転席に目をやると、石田主任は、意外なくらいの真剣さで私を見ていた。
新年早々つり目がちの眼差しに射抜かれて、つられるみたいに心拍数が上がるのがわかった。
大人の扱い。
主任にならされたいような、まだ、されたくないような。
迷うのも妙な話だ。大人扱いされたいって、つい直前まで思っていたのに。他でもない石田主任に大人の扱いを受けて、どんな悪いことがあるっていうんだろう。
なのにどうしてか、迷ってしまった。とっさに答えられなかった。
どぎまぎしている間に、つ、と目を逸らされた。
溜息まじりの声がエンジン音越しに聞こえる。
「六日ぶり、なんだよな」
何が、と言われなくてもおぼろげにわかった。
去年、先月の二十八日以来。――確かにそうだ。六日ぶり。
「もっとお前を困らせてやろうかと思ったが、後にする」
主任は意味深長なことを口にした後、フロントガラスの向こうへ笑んだ。
「今は会えただけでうれしくて駄目だ。にやけて話にならん」
そう言った通り、ものすごくうれしそうな顔をしている。笑いをどうにかして噛み殺そうとして、結局どうにもなっていない横顔だった。
「私もお会い出来てうれしいです。今年もよろしくお願いいたします、主任」
「今年こそ、だ。去年そう言っといただろ」
主任は緩んだ横顔で宣言する。
「覚えてろよ、小坂。この気分が収まったら散々困らせてやるからな」
そんなことを言われて、はいお願いします、なんて答えられるはずがない。
でも、私だって自分の顔が緩みきっていることくらいは自覚していた。
六日ぶり、か。それ以上に久し振りにお会いしたような気がする。
やっぱり好きな人に会えるのはうれしい。それが仕事以外の機会だと一層うれしい。
だから主任も、勤務中じゃない私の夢を見たかったのかな。そんなことを思ってみたら尚のことにやにやしたくなってきた。困ったものだ。




