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食欲と睡眠欲(3)

 仕事納めとは、文字通り仕事が納まっていなければならない日だ。

 二十八日は午後三時で業務終了。その後は社内の大掃除をして、それから各課ごとに納会を行うらしい。今年の分の仕事はそれまでに終わらせてしまわなければならない。皆が仕事納めを迎えているのに私だけ納まっていなかったらまずいから、クリスマス以降はとにかく頑張った。

 お蔭でどうにか済むべき仕事が済み、納まるべきものはちゃんと納まった。

 お昼ご飯が飲み物だけになったり、ラップトップを家に持ち帰ったり、それによって平均睡眠時間が三時間になってしまったりもしたけど、終わりよければ全てよしだ。

 空腹や目の下の隈と無縁の、華麗な社会人生活は、来年改めて目指そうと思う。


 そして迎えた二十八日、午後三時。

 一年の汚れを落とす大掃除が始まった。

「小坂、小坂、見てみろよ! このバケツの水!」

 石田主任が、妙にうきうきとポリバケツを指差す。

 言われた通りに目をやると、中に張られた水は真っ黒に近い色をしていた。掃除に使った雑巾を絞ったバケツだ。

「わあ、本当です。水が汚れるのもあっという間ですね」

 私も率直に感想を述べた。

 埃っぽいオフィスは汚れが溜まりやすいようで、雑巾掛けをするのに何度も水を換えなければいけない。日頃は目の届かないスチール棚の上や机の陰、コピー機の足元なんかは特に汚れていて、念入りな清掃が必要だった。

 そうして汚れていく水を見て、主任はものすごく楽しそうにしている。率先してあちらこちらの拭き掃除をしては、バケツの前に戻ってくる。嬉々として雑巾を洗う。

「おお、また一層黒くなった! そのうち墨汁が出来るぞ!」

 水を絞る度に楽しそうにする主任がすごく面白い。

 どうしてそんなに元気なんだろう。私なんて連日の睡眠不足で、時々あくびを噛み殺す羽目になっているのに。

 主任の傍ではあくび以外に、笑いも噛み殺さなくちゃいけなくなる。こんなふうにはしゃいでる男子、学生時代にはいっぱいいたなあ。石田主任がはしゃぐのも、普段の勤務中にはないことだ。

「お掃除がお好きなんですか、主任」

 一緒になって雑巾掛けをする合間に、こっそり尋ねてみる。

 そうしたら、

「違う。掃除じゃなくて、仕事納めが楽しみなんだ」

 取り澄まして言い返された。なるほど。

 実際、上機嫌なのは石田主任に限った話ではなく、営業課員に限った話でもなかった。社内で見かけるほとんどの人が、年末進行の頃とはまるで違う顔つきをしていた。ドア越しにどこかから笑い声が聞こえたりもする。勤務中なのに、会社の中なのに、いつもと違う雰囲気だった。

「納会では寿司も出るしな」

 主任の言葉で、私の意識は営業課へと戻ってくる。

「えっ、お寿司ですか?」

 それはすごい。俄然楽しみになってきた。

「楽しみだろ。小坂は食べるのが大好きだもんな」

 すかさず食いしん坊を見るような眼差しを向けられた。だけど反論するのも今更かと思って、そこは諦めておく。

「お寿司が出るなんてすごく豪勢ですね」

 今日だってお昼ご飯を満足に食べていない。午後三時の終業時刻に間に合わせるので精一杯だった。お寿司って聞いただけで急速にお腹が空いてくる。

「いや、豪勢って言えるほど高級な奴じゃないぞ。期待はし過ぎるな」

 訳知り顔の主任は、それでも笑って付け足してきた。

「だが曲がりなりにも寿司は寿司。掃除してきれいになった職場で食べるってのも、なかなかいいもんだ」

 そうなんだろうなあ、と私も思う。


 納会がものすごく楽しみな反面、非日常的な感じにどきどきしてしまう。社内でアルコールなんて本当にいいんだろうか。誰かにいいんだと言われても、皆が普通に飲んでいたとしても、私は間違いなくどきどきしてしまうだろう。

 気分としては、子どもの頃に過ごした大晦日に似ているかもしれない。いつもは早く寝なさいって言われているのに、その日だけは夜更かしを許されていた。舟を漕ぎながら年越しそばを食べて、日付が変わるのを待っていたけど、お腹が一杯になるとてきめんに眠くなって、結局いつもより少し遅いくらいで寝入ってしまう。それでも普段は怒られるようなことが、その日だけは許されるというのが楽しくてしょうがなかった。

 納会でもそんな気分になるんだろうな。今日だけは許されることを、どきどきしながらもちゃんと楽しめるといい。

 お酒とか、お寿司とか!


「そうか、小坂さんは初めての納会なんですね」

 コピー機にモップを掛ける霧島さんが、腑に落ちた様子を見せた。

「会社でお酒やおつまみが出るって、不思議な感じがしませんか?」

「します! すごく不思議な感じです」

「ですよね。俺も今年で六年目ですけど、まだ慣れた気がしません」

 霧島さんはそう言って笑い、主任もそこで深く頷いた。

「俺なんて八年目でも未だにそわそわするぞ。年末の空気は独特だよな」

 十分慣れている様子のお二人でさえそうだと言うんだから、私のどきどきだって仕方のないものなのかもしれない。

「ところで、小坂はどの寿司ネタが好きなんだ」

 雑巾掛けの間にも、主任はよく話しかけてくれる。並んで雑巾掛けをしてても、口と手を一緒に動かせる、大変器用な人だった。

 その点、私はあまり器用ではなかった。口と手を一緒に動かそうとすると、どっちも中途半端な仕上がりになってしまう。だから床を拭いている間に答えを考え、ややあってから声に出す。

「ええと、卵焼きが好きです」

「へえ、玉子か」

 驚かれたみたいだ。魚好きの主任からしたら意外と言うか、的外れな回答に思えたのかもしれない。

 でもお寿司屋さんの卵焼きって甘くて、しっかりしてて、おうちの卵焼きとはまた違った味わいなのがいい。美味しい。

「主任は、何がお好きなんですか?」

 雑巾を引っ繰り返すタイミングで聞き返すと、先方の答えは実に素早かった。

「俺は魚なら何でも好きだ」

 その後で、ほんのちょっと声を落として、

「だが最近は、鮭が一番好きだ」

 と付け加えたから、私は主任の顔をちらと見る。

 主任もちょうどこっちを見ていて、目が合ったら少し笑われた。つられてこっそり笑い返せば、更に小さな声で言ってきた。

「あれ、美味いな」

「お口に合いましたか」

 トーンを一層落として聞き返してみる。すぐに、頷いてもらえた。

「お蔭様で食欲も戻って、近頃はお替わりをするように」

「わあ、よかったです」

「俺も大概現金だよな。すっかり釣られた」

 そんなぼやきも聞こえたけど、別に現金じゃないと思う。美味しいおかずは食欲増進に繋がるものだ。

 それにしても、プレゼントに鮭フレークを選んで本当によかった。喜んでもらえたし、お役にも立てたみたいだし。すごくうれしい!

「――人のいる前で内緒話ですか?」

 ふと、他方からぼやく声。

 声の主は霧島さんで、並んで雑巾掛けをする私たちの傍まで来ると、私たち以上にトーンを落として、続けた。

「前にも言いましたけど、先輩は小坂さんを独り占めし過ぎです」

 ぎょっとする言葉だった。

「だから、何だよ」

 主任が不満げに口を開くと、霧島さんは苦笑気味に返した。

「皆も言ってますよ、『主任のガードが堅過ぎて、小坂さんに話しかける隙がない』って。小坂さんももう一人前なんですから、そう付きっきりでいることもないと思うんですけど」


 言われた時に初めて、課内の四方八方から投げかけられる視線と、複数の意味ありげな笑顔に気付いた。

 皆が掃除をしながらも、どうしてかこっちを見ている。むしろ掃除よりも興味深そうに。我に返った私が、室内を恐る恐る見回すと、冷やかすような笑い声と口笛が飛んできた。

 ええと、これってつまり。

「そんなこと言われたって、独り占めなんてしてないよな?」

 さすがに気まずげに、それでも笑いながら尋ねてくる主任。

「小坂さんもがつんと言ってやってください。先輩は調子に乗る人ですから」

 霧島さんはむしろ同情的な視線を向けてくる。

 だけどどちらの言葉にも、どう答えていいのかわからなかった。独り占めなんてそんなまさか。皆にそういうふうに見られてたなんて思わなかった。否定したいけど、何だかもう頭が真っ白でまともな言葉も出てきそうにない。

 とりあえずぎくしゃく手を動かして、足元のバケツを持ち上げた。

「あ、あの、私、水を換えてきますっ」

 事実上の逃亡宣言。

 背後からは一層の笑い声と甲高い口笛とが追い駆けてきて、お蔭で足が縺れかけた。逃げっぷりまでてんで華麗さと無縁だった。


 ――ばれてる、なんて思うのは今更なのかな。

 バケツに水を汲んできた帰り、営業課へ向かう足取りが重かった。バケツもより重く感じられた。揺れる水面に気を配りながら慎重に歩く。

 皆に冷やかされた後だから、どんな顔をして戻ればいいのか。すごく気まずい。恥ずかしい。


 独り占めなんてされてないと思う。

 石田主任は私だけに話しかけているわけじゃないし、私だってそう。営業課に配属されてからしばらくは主任に仕事を教わり、お世話になってもいたけど、だからと言って他の人と接する機会がなかったわけでもない。

 ただこの場合、重要なのは他の人からどう見えるかという点なのかもしれない。皆の目には私が、主任とばかり話しているように見えるんだろうか。自分では全く意識していなかったけど、気を付けた方がいいのかな。それとも、もうばればれもいいとこなんだから隠すよりは堂々としている方がいいんだろうか。でも仕事も出来ないうちから恋愛にかまけてるって思われるのも、ちょっとね。

 そういえば、霧島さんは私のことを一人前だと言ってくれた。

 さっきのやり取りを思い出すと、恥ずかしいのと後ろめたいのに交じって、何だかにやにやしたくなる。

 一人前だって。初めて言われた。

 実際は例によってそうでもないんだろうけど、でもそんなふうに見えているならうれしい。

 だってもう十二月だ、春や夏頃と同じ私じゃいたくない。


 さしあたっての課題は。

 営業課に、どんな顔をして戻ろうか。

「……難しいなあ」

 いきなりの超難題だった。主任や霧島さんや他の皆と、どう顔を合わせていいものか。いくら考えてもあたふたしてしまいそうな気がして余計に悩ましい。バケツを手に、思案に暮れながら廊下を辿る。

 よその部署では掃除の終わったところもあるらしく、あちこちから話し声がしていた。もう既にパーティっぽい雰囲気になっている部署もあって、いかにも非日常的な賑々しさに満ちていた。

 とそこへ、背後からごろごろ大きな音が近づいてきた。

 何だろうと振り向いたら、まず目に留まったのは台車だった。台車の上には積み上げられた缶ビールの箱が載せられている。

 そして台車を押しているのは、見覚えのあるお方だった。

「あっ、安井課長」

 私がすかさず会釈をすると、課長も台車を止めて微笑んだ。

「小坂さん。もしかして、営業課はまだ掃除中?」

「はい。でも後は拭き掃除くらいですから、もうじき終わると思います」

「お疲れ様。そっちは部屋も広いし、大変だろうな」

 安井課長はそこでくたびれた顔になる。

「こっちは掃除こそ早く済んだけど、そしたら今度は雑用に駆り出される羽目になった。迅速な行動もいいことばかりじゃないな」

 運ばれてきた缶ビールは全部で八箱。台車を使っても重いはずだった。

「もしかして、これを買い出しに行かれたんですか?」

「そう。納会で使う分なんだけど、数は多いし重たいし、外は雪は降ってるしで散々だった」

 大変と言うならそっちの方がずっと大変そうだ。

 横目で廊下の窓を見たら、降り続いているのが確かに見えた。大粒の雪はざっかざっかと窓枠を横切ってゆく。こんなに降る予報だったっけとびっくりした。

「お疲れ様です」

 労いの気持ちを込めて告げると、穏やかな笑顔が返ってきた。

「ありがとう。可愛い女の子に言われると、疲れも吹っ飛ぶよ」

 さらりと言われると聞き流しそうになる。

 しかし、拾ったところで反応に困る言葉でもある。石田主任といい安井課長といい、こういうことを顔色一つ変えずに口に出来るのは、どうしてなんだろう。

「え、あの、ちっともそれほどではっ」

 私は慌てふためいたけど、課長は至って平然としている。

「きっと誰かさんは毎日言って貰ってるんだろうな。つくづく、あいつが羨ましいよ」

 誰かさんと言われて、誰のことかすぐにわかってしまう。

 だけど羨ましがられるほどのことでもないと思う。私と来たら主任にはご迷惑を掛けっ放しで、ちっとも羨まれるような存在になれていない。さっきだって私を独占しているなどという誤解をされたばかりだ。傍にいさせてもらっているのだから、メリットのある存在になりたいとも思う今日この頃。出来たことが鮭フレークのプレゼントだけでは、さすがに。

「ところで、営業課ももうすぐ終わるんだよな、大掃除」

 課長が話題を戻した。

 同時に私もいくらかの平静さを取り戻す。

「は、はい。後はもう拭き掃除だけで……」

「だったらビールを置くスペースくらいあるかな。重たいから数を減らしていきたいんだけど」

「それなら大丈夫です。机の上はもう片付いてましたから」

 さっきまでいた営業課の室内を思い起こしながら答える。ほうきは既に出番を終え、埃取りのモップもちらほら稼働するのみだった。床はまだ拭き掃除が残っていたけど、机の上は大体きれいになっていたと思う。

 そうだ、私もそろそろ戻らないと。バケツがなければ最後の仕上げ拭きが出来ないし、掃除だって終わらない。出てきた経緯を思うと否応なしに緊張するけど、これもきっと仕事のうちだ。

「小坂さんも戻るんだろ? 一緒に行こうか」

「はいっ」

 意を決して、廊下を再び歩き出す。

 後ろから台車のごろごろいう音がついてくる。ざわめく社内を一層賑やかにしている。

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