自覚とプライド(6)
主任はなぜか、笑いを噛み殺すような顔つきでいた。
「至らない点って何だよ」
ものすごく我慢をして、どうにか吹き出さないようにと必死になっていたようだった。だけど堪え切れなかったのか、やがて喉を鳴らして笑ってみせた。
「あの、それはその、不慣れなものですから、どう言っていいのかわからなくて」
あたふたと弁解する。真面目に伝えようとしたら、単にしかつめらしいだけの口調になってしまったみたいだ。もっと違う言い方が出来たらよかったんだけど、全然駄目だった。
「でも精一杯、頑張ります」
そう言い添えたら更に笑われた。
「小坂の全力はすごいな。色気ってもんが全くない」
「う……すみません」
自分に色気なんてものがあるとは毛頭思っていなかった。それでも全くと言われるとさすがに少しへこみたくなる。主任は、色気のある女の子の方がいい、って思うんだろうか。
「いや、いい。色気はないが、お前はむちゃくちゃ可愛いよ」
小さくかぶりを振った主任に。そうも、言われた。
うろたえたくなる言葉の後、私を抱く腕の力が強くなる。押し出されるように息をつくと、耳元では笑い声が聞こえてきた。
「ああもう可愛い奴め、俺の為ならキスでも何でもするってか。それならこっちだって手は抜かないからな、もう一生の思い出に残るようなファーストキスにしてやる」
一息に言葉を投げかけられた後、唇には指を置かれた。
言葉とは裏腹の優しい感触だった。
「言ったからには逃げるなよ。ちゃんと受け止めろ」
ぞくっとしたのは言葉のせいだろうか、指先のせいだろうか。
笑いがようやく落ち着いたのか、主任がどこか挑発的な表情を浮かべる。私を見つめて深く笑んでいる。唇の形がきれいだ。
今更のように、私は自分の唇が気がかりになった。ここへお邪魔してから時間も経っているし、お茶だっていただいた。口紅の色は落ちているだろう。せめて、かさついていないといいんだけど。
「小坂、俺はな」
丸い指先が私の、下唇をそっとなぞった。
「場数を踏んだお前を見てみたい」
指の動きがくすぐったい。だけど何も言えなかった。両目を覗き込まれるようにしていたから、視線を外すことさえできなかった。
そのまま、目の前にいる人に見入っていた。
「今の、初々しい小坂も悪くない。だがせっかくだから、もっと別の顔も見たい」
言葉はぼんやりと受け止めた。
意味がわかるような気も、わからないような気もしていた。私のことは私自身にさえ掴めていない。だから自分ではまだ知らない、主任の見たがっている『私』がどこかにいるのかもしれない。
きっと、そういう私のことも、主任なら見ていてくれると思う。見つけてくれるとも思う。
「これからじっくり場数を踏ませてやるよ。今のお前もこれからのお前も、全部俺のものだ」
唇から指が離れた。
その指先は私の顎に辿り着いて、ぐいと持ち上げられる。
「目を閉じろ、小坂」
告げられた言葉が低く、耳の中に響いた。
私はぎゅっと目を瞑る。
怖かった。どきどきした。逃げ出したかった。だけど心の片隅で、全く別のことを感じていた。
ファーストキスが好きな人とだなんて、本当に、本当に幸せなことだ。
唇を塞いでいた熱が引いた。
それでも私は、目を開けられなかった。
「……小坂」
囁く声が熱を伴って、唇に触れてきた。
キスよりも熱い。思わずびくりとしてしまう。
「終わったぞ。力抜いてもいい」
次いでそう促されたけど、例によってどこの力をどんな風に抜いていいのかわからなかった。瞼は硬く閉ざしていたし、肩もやけに強張っている。唇は結んだままで、真っ暗な世界の中、呼吸も上手く出来ずにいた。
「目を開けろ」
今度は笑いの滲む声で言われた。
それでも私はかぶりを振る。震えながら応じた。
「むっ、無理です」
「どうして無理なんだよ」
「あ、あの、恥ずかしくて、私、主任の顔を見られそうになくて……」
どんな顔を合わせていいかわからない。
キスをしたばかりなのに。
私にとって生まれて初めてのことを、してしまったばかりなのに。
気まずい。気恥ずかしい。怖くてどきどきしていて逃げ出したくて堪らない。それらの感情をいっぺんに抱え込んでいるから、どこからどう対処していいのかわからない。オーバーワークにも程がある。
「そんなこと言ったって見ない訳にはいかないだろ?」
苦笑気味の声が聞こえて、ぎゅっと抱え直される。キスが終わってからもそのまま抱き締めてもらっていたから、余計に目を開けられそうになかった。すぐ傍に主任がいるのも、いい匂いがして、温かくて、わかるから。
「もうしばらくだけ、このままでいるのは、だ、駄目でしょうか」
目を瞑ったままで尋ねる。言葉の端まで小刻みに震えていた。何もかも自由が利かなくて泣きたい気分になったけど、泣いてしまうのも嫌だった。
「別に俺は構わない。ただな」
主任はいかにもおかしそうに語を継いで、
「俺の膝の上に乗ったままなのは恥ずかしくないのか?」
――そうだった。私、まだ主任の膝の上だ!
「わ、あ、ごめんなさいっ」
それで私は目を開ける。たちまち飛び込んでくる眩しさのせいで、這うようにして膝から降りた。
へなへなと隣に座り込むと、すかさず主任が顔を覗き込んでくる。目が合うから逃げたくなる。蛍光灯の白さと気恥ずかしさとで、つい俯いてしまう。
「ちゃんとこっち向けよ」
にやっとしながら言われると困る。
私だって本当はそうすべきだと理解しているのに、浮つく心がそうさせてくれない。心も身体も、熱に浮かされたようにぼうっとしている。そのくせ開けたばかりの目はしっかりと、眼前にある陰った面差しを捉えてしまう。
慣れない目でもわかる。好きな人の笑んでいる顔。
「あ……」
思わず声を上げると、その笑顔が困ったように見えてきた。
「そんな顔するな。俺が悪いことでもしたみたいだ」
「す、すみません。あの……」
「それとも、実際悪いことされたって思ってるのか?」
もちろんそうじゃない。好きな人とするキスが悪いこととは思わない。好きな人に、したいと望まれてしたのだし――だけどそれを考え出すと、直前の余計な記憶まで次から次へと浮かんできてしまう。
ちょうど目の前には、形のいい主任の唇がある。
「う……」
さっきから呻いてばかりだ。本当はあちこち転げまわりたいくらいの衝動を覚えていたけど、それは帰宅してからにしようと思う。
今はただ、じっとしている。
ぐるぐると頭で暴れまわる記憶と衝動を、どうにかして抑え込みたかった。
男の人の、と言うより主任の唇が見た目以上に柔らかいことは、手にされた時から知っていた。今日も、本当に柔らかかった。だから隙間なく塞がれた。
息も出来なくなって、身体のあちこちが強張ってしまって、こうして唇が離れてからも全ての感覚をまだ記憶している。しばらく忘れられそうにない。
「嫌だったか?」
不意に、主任が尋ねた。
冗談めかした口調だったけど、内容は重大だった。大急ぎで否定する。
「そ、そんなことないです!」
嫌じゃなかった。怖かったのは本当、でもキスの直前には確かに幸せを感じていた。その後は幸せどころか、どんな気持ちも感じている余裕は全くなかったけど――でも嫌じゃない。大丈夫。
「だったらもう少し笑っててくれ」
主任が私の頬を撫でる。大きな厚い手のひらが、優しく撫でてくれていた。
そういえばキスも優しかった。初めてのくせに、ろくに知らないくせに、そこに込められた気持ちはわかってしまった。十分に伝わってきた。
「俺は今、すごく幸せな気分でいる。お前もそうなら、わかるように笑え」
笑顔で告げられたから、私も意を決した。
「……はい」
強張る頬と唇を動かして、どうにか笑いの形まで持っていく。心底笑うことは出来なかったけど、笑おうとすることは出来た。
「よしよし、可愛い奴め」
ふっと、一層笑んだ主任は、その後で私を抱き上げた。
「わっ」
悲鳴を上げた瞬間にすとんと身体が落ちて、気が付けばソファーの上にいた。
再び顔を覗き込まれる。今度は穏やかな笑い方をされた。
「待ってろ、飲み物持ってきてやる。そこにあるのはもう温くなってるからな」
主任の視線が卓上の、ウーロン茶のボトルへと留まった。長らく放ったらかしにされていたせいか汗をびっしり掻いている。今は何時くらいなんだろう、そう思って時計を見たら、もう午後七時を過ぎていて驚いた。時間の感覚すらでたらめになっている。
ぼんやりしている間に、主任の姿はなくなっていた。奥の方から気配がする。冷蔵庫の開く音もする。
少し前にも聞いた音を、同じ気持ちで受け止めていた。私もこの部屋にあるものと同じ、主任の好きなものの一つ、なのだと思う。今日、そうさせてもらえたような気がした。
こっそりと唇を撫でてみる。
初めてのキスは、自分で触れる指先よりもずっと優しかった。
「ほら飲め、よく冷えてるぞ」
戻ってきた主任が私に、ペットボトルのお茶を手渡してくれた。
「ありがとうございます」
慌てて受け取ったものの、蓋が上手く開けられなかった。さっきまでの緊張が抜けてしまったせいか、手に力が入らない。結局開けてもらう羽目になってしまった。
「世話が焼けるな、こいつ」
「す、すみません、お手数掛けます」
再度ボトルを手渡され、恥じ入りながらお茶を飲む。
熱に浮かされからからになった全身に、冷たい緑茶は染み込むようだった。手がまだ震えている為、零さないように細心の注意を払う。無事に飲めた時はほっとした。ようやく、息もつけた。
あれからずっと、まともな呼吸も出来ずにいたから。
「少しは落ち着いたか」
問いと同時にソファーが沈む。見慣れてきた無機質なリビングの、クリーム色のソファーに並んで座っている。スプリングの軋む音に訳もなくどきっとしつつ、私はぎくしゃく頷いた。
「はい、何とか」
今は背凭れに寄りかかり、どうにか呼吸を取り戻している。さっきまでの緊張がようやく解けたら、今度は全身の力が抜けてしまった。妙にぐったりしている。
「ご迷惑をお掛けしました」
謝ると、すかさず笑われた。
「迷惑ってほどじゃない。元々の原因はこっちにあるしな」
「原因なんて……」
「でも、俺はすごくうれしかった。お前が俺を好きでいてくれる気持ちも、お蔭でよくわかった」
言葉通り、主任はうれしそうな顔をしている。好きな人のそういう顔は私にとってもうれしかった。まだ頭の中がごちゃごちゃしているけど、とりあえずよかった、と思う。
それから別のことも密かに思う。言葉では伝えきれない気持ちも、キスなら上手く伝えられるんだろうか。
私は主任の優しさを知って、主任は私の気持ちを理解してくれた。言葉の不器用さを補ってくれるのがキスなのだとしたら、私のような未熟で、半人前の人間には、必要な手だてなのかもしれない。
そうだとしても、今はまだ、いっぱいいっぱいだけど。
「あとは、もう少し慣れてくれりゃいいんだがな」
溜息と一緒に呟いて、主任がちらと私を見やる。
目が合って、うろたえたくなる私をよそに、こう続けてきた。
「小坂。門限は何時だ」
「え?」
「『主任の家に行って仕事する』って出てきたんだろ。帰したくなくても、帰さないわけにはいかない」
どぎまぎするような言葉を向けられた、なのに私は、
動揺よりも早く物寂しさを覚える。
もう少しだけここにいたい。好きな人の傍にいたい。帰らないわけにはいかないけど、あとちょっと、ほんのちょっとでいいから主任と一緒にいたかった。
「まだ……少しだけなら、平気です。いてもいいですか」
恐る恐る尋ねたら、幸せそうな声が返ってきた。
「当たり前だ。時間の許す限り、ここにいてくれ」
それから、隣り合っていた手を握られた。私の右手を包む大きな左手の持ち主は、照れ隠しみたいな笑みを浮かべてみせる。
「次に来る時は、彼氏の部屋に泊まってくるって言ってきたらどうだ。そしたらほら、ずっと一緒にいられるだろ?」
私はその笑顔を、やっぱりどぎまぎする思いで見つめ返した。主任が割と抵抗なく口にするそういう内容は、私にとってはまだハードルの高い、難しい事柄だった。口にするのだって恥ずかしい。
でも、既に付き合っているみたいだと言われたこともある。手を繋いで、こうして部屋に招かれて、唇も重ねていて、なのに付き合っていないというのは不誠実だ。だから。
「次は、そうします」
上擦る声で、私はそれでもはっきり答えた。
主任がもう一度こちらを見る。
「いいのか?」
「はい、あの、両親にはちゃんと言います。でも」
次の言葉はおずおずと続けた。
「泊まるのは、あの、さすがに無理です」
「何だよ、遠慮するなよ小坂」
「え、遠慮とかじゃないんです。そういうのはまだ無理なんです!」
「いいから場数踏んでみろって。キスと同じで、案外大したことないかもしれないぞ」
私にとっては、キスだってものすごく、大したことあったのにな。
だけど、意味がわかっただけでもよかった。
いつか私も、キスしたいって自分から思うようになるのかな。そういう自分はまだ想像もつかないけど、今の私だって、少し前までは想像も出来なかった。
二人きりの部屋は、静かだった。
「……何だか、すごく幸せだ」
ぽつりと隣で呟かれた言葉もはっきり聞こえて、空気の中へと溶け込んでいく。
だから私も、今日の記憶はもうしばらく、繋いだ手の中に閉じ込めておくことにする。初めてのキスにはしゃいだり、うろたえたりするのは、家に帰ってからにしよう。
好きな人と一緒にいるうちは、記憶よりも今を、大切にしていたい。




