自覚とプライド(2)
石田主任の車に乗せてもらうのも久し振りだった。
これで三回目だと思う。一回目は海に行ったあの日で、二回目は――初めての休日デートの日。どちらも私にしては印象深い、劇的な出来事のあった日、忘れられるはずもない。
車高の高いSUV車の、ドアを閉めたら本当の二人きりになる。
仕事でくたびれた頭はまともな判断力を残してくれず、鼓動だけを逸らせる。意識し過ぎだと自覚しつつ、おっかなびっくり助手席のドアを閉じた。すぐに、シートベルトを締める。
主任も運転席に乗り込み、音を立ててドアを閉めた。真っ先にエンジンを掛ける。それからシートベルトに手を伸ばす。
「お前を乗せるのも久々だな」
エンジン音に紛れて呟きが聞こえてきた。
視線を上げれば、うれしそうな笑みを浮かべた横顔が見えた。
「一緒の職場にいてもなかなかチャンスがないんだもんな。もっと二人っきりでいられる時間が増えたらいいんだが」
勤務中でも二人でいる時間はたまにあった。二人だけで残業をしたことも、出勤時に一番乗りと二番乗りでいたことだってある。でも、主任が求めているのはそういう時間じゃないんだろう。
私だってそうなのかもしれない。聞こえた言葉にじわじわと、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。胸が苦しくなるような、それでいて幸せなような、どぎまぎし過ぎて眩暈がしそうな、複雑な気持ちだった。
「仕事がなければ、明日でも誘ったのにな」
主任の目がちらと動いて、私の膝の上にあるビジネスバッグを示す。どことなく恨めしげな視線を向けられても、バッグの中のパソコンはずっしり重く存在を主張している。軽くなったりはしてくれない。
「すみません。お休みの間にきっちり片付けますから」
私は仕事の遅さを詫びたけど、内心では確かに落胆していた。こうして勤務時間外に二人きりになってみると、どきどきしつつ、勤務中では味わえないうれしさが込み上げてくる。
前のデートからもう三週間以上も経っている。そういうことが言える立場ではないこともわかっていたけど、そろそろオフの主任にも会いたかった。仕事以外の話をする時間が欲しかった。電話やメールでだって出来ない話でもないけど、でも、明日のお休みにも会えないんだとわかると想いが一層募った。
すごく好きなんだなと、改めて強く自覚した。主任のことが好き。まだ慣れていないけど、何をしていいのかもわからないくらいだけど、一緒にいたいと思うくらいに好き。
その想いは、意外にあっさりと言葉になった。
「……本当は、あの、私も、お会いしたかったです」
車が発進した瞬間、そっと告げてみた。未練がましい言い方のようにも思ったので、声は落とした。だけど言わずにはいられなかった。
「不甲斐なくてすみません。もっと、頑張ります、私」
次の言葉は強めに、意思表示として口にする。
地下駐車場から車が滑り出すと、視界が一息に開ける。夜のビル街へと繋がる。ぽつぽつと点在する街の灯と、信号機の強い色合い。
「じゃあ、会うか」
それもまた、あっさり告げられた。
あまりにもストレートだったので聞き違いかと思った。私は運転席の方を向き、主任は真っ直ぐ正面を向いている。口元は笑っている。
「え、ええと……」
「誤解するなよ、小坂」
戸惑う私の声を遮って、車を走らせる主任が言う。
「お前の仕事を邪魔しようとは思ってない。ただ――そうだな、仕事をするのにいい場所があるから、そこへ連れてってやろうって話だ」
仕事をするのにいい場所、魅力的だけどぱっと察しのつかない言葉だ。
「それって、どんなところなんですか」
「都合のいい場所だ。お前が月曜日、そのばかに重いラップトップを会社まで持ってこなくてもよくて、割と静かで、ただで何時間でもいられて、おまけにいざって時は手取り足取り仕事の指導まで受けられるって場所がある」
「へえ……すごいですね!」
素晴らしい好条件の揃いようだけど、そんなところが本当にあるんだろうか。あるのだとしたらいかにも集中出来そうでいいなあ、一層捗るかもしれない。
でも、それってどんな場所なんだろう。
そして仕事の指導って、一体誰がしてくれるんだろう。私が疑問に思った時、
「そういう訳だから、俺の部屋に来ないか」
主任がさらりと語を継いだ。
「一人暮らしの部屋だ、静かなもんだし仕事をするにはちょうどいいぞ」
思わず口が開いたけど、声はとっさに出なかった。
膝の上からバッグがずり落ちそうになって、慌てて掴んで引き止める。でも先の言葉を聞き返す為の声が出ない。
あ、ええと、つまりそういうことなんだろうか。手取り足取り仕事を教えてくださるのは他でもない石田主任で、割と静かで何時間でもいられる場所っていうのは主任のお部屋で、私はそこにお招きいただくということで――。
「悪くない条件だろ?」
全開の笑顔で尋ねてくる主任。
「一人で仕事するようになって、いろいろ行き詰まってることとか、疑問のまま放ったらかしにしてる部分もあるだろうしな。以前のように、マンツーマンでじっくり指導されたいと思わないか。邪魔の入らないところでな」
私はまだ言葉が口に出来ない。それは確かに好条件だ、仕事のわからないところをじっくり教えてもらういい機会だ、その上、主任と二人きりでいられる機会でもあると思う。
だけど、場所が場所だ。
「しゅ、主任のお部屋にですか……?」
頭がオーバーヒートしたので。それだけ聞き返すのがやっとだった。
そしたら主任は、フロントガラスを見据えながら力強く言い切った。
「公私混同は見えないところでしないとな。そしてそれが能率アップに結び付くなら、言うことなしだ」
能率アップ、するかなあ。
もちろん石田主任の発言を疑うつもりは微塵もない。主任なら、そういう時は手を抜かずきっちりと指導してくれると思う。
でも、私はどうだろう。
一人暮らしの男の人の部屋にお邪魔するのは、初めてだった。
そして土曜日のお昼過ぎ、私は再び主任の車の中にいた。
助手席にお邪魔して、シートベルトを締める。膝の上には荷物が二つ、車が動き出す前から引っ繰り返しそうになって、慌てて掴んだ。私用の鞄と小さな紙袋だ。
例のラップトップは昨日の帰り、主任がそのまま持って帰ってくれた。だから膝の上が重くなくていい。
昨日、主任に部屋へ誘われた時はさすがにうろたえてしまった。初めてのことだからというのもあるし、自分のみならず主任の休日まで私の宿題で潰してしまうのは気が引けたからだ。
でも熱心に、是非にと言ってもらったので、思案の末にお願いすることにした。
私としても残業を減らす為、自分自身の仕事ぶりを見直すいい機会だと思った。
「あの、この度はご迷惑をお掛けします。お休みの日なのに、わざわざ迎えにまで来ていただいて」
車が動き出したところで、私は改まって述べる。
「でもお気持ちがうれしかったです、ありがとうございます」
「俺がしたくてしたことだからな」
ハンドルを握る主任が、軽く笑って応じてくれる。
「休みの日に仕事をさせるのには変わりないから、付き合わせて悪いとも思うんだがな。俺も出来る限りの協力はする」
「助かります。うれしいです、主任」
「二人きりでいる口実としても悪くないよな。休みの日に手取り足取り部下の指導をします、ってのも」
それも私の仕事が片付いていたら、普通のデートに出来たかもしれないことなのに。
だけどそれでも一緒にいようとしてくれた、主任の心遣いがうれしかった。だから私もお言葉に甘えようと思った。
今日の主任は、勤務日のきりっとした顔つきとは違っていた。オフの日らしく、運転中の横顔は実に柔らかく、楽しそうにも見えた。切り替えの出来る人だなあとつくづく実感する。
「しかし仕事をする日とは言え、スーツで来るとは思わなかった」
ふと笑われたので、私は主任の服装にも目をやる。今日は細い縦ストライプのシャツにジーンズ、やっぱりラフな格好だった。そしてやっぱり、素敵な人は何を着ても素敵だ、観察していたらどきどきしてきた。
一方の私は勤務日同様のスーツ上下。まさに主任の言う通り、仕事をするのだからとこの服装を選んでいた。必要以上におめかしをして、浮かれた奴だと思われたくなかったからだ。
「今日は頑張ります。どうぞご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いいたします!」
「……止めろ小坂、面白いから」
私は至極真面目に告げたつもりだったのに、石田主任には思いっきり吹き出されてしまった。運転席と助手席の間にはオフとオンの壁があるなと痛感した。
「おかしかったでしょうか」
「ああ。お前の物言いがな」
笑いながら答えられて、そうかなあと私は思う。今日こそは先の台詞を使うのに相応しい状況と思っていたのに。
ひとしきり笑ってから、主任は大きく息をつく。
「小坂らしいと言えばらしいがな、その物言いも、スーツ着てくるところも」
そして信号停止のタイミングで、ちらっとだけ私を見た。どうしてか満足げな表情が浮かんでいる。
「それにお前のスーツ姿も悪くない」
「え……」
言われた言葉が耳の中でこだまする。
もしかして、今のは誉められたと取っていいんだろうか。私はうっかりにやけそうになりながら、おずおずと聞き返してみた。
「に、似合いますか? このスーツ」
答えは笑いを含んだ声であった。
「似合うと言うか、いつまで経っても初々しいよな。着られてるって感じしかしない」
「……あ、そういう意味なんですね」
ちょっとへこんだ。就活の頃から一応着てたんだけどな。着られてるかなあ。
でも初々しいって言うのは悪いことじゃないと思う。ルーキーなんだし当然だ。それを主任も『悪くない』と言ってくれたのだから、前向きに捉えておこうと思う。前向きに。
「到着まではあと二十分ってところだ」
主任も明るく宣言している。
「昨日も言ったが、男の一人暮らしだからな。多少偏った部屋でも見逃してくれ」
「はい」
私は頷いたけど、そもそも偏った部屋というのがどんなものかがわかっていない。
一人暮らしをしている男の人の部屋って、どんな感じなんだろう。
何が偏っているんだろう。何かの収集癖とかあるのかな。家具にこだわっていたりするのかな。石田主任の新たな一面を知ることが出来そうで、わくわくしているところもあったりする。
もちろん、浮かれているだけではないつもりだけど。
正直に言うと、やっぱりどうしてもどきどきする。男の人の部屋に行くのは初めてだし、それが大好きな、主任の部屋だというのがうれしい。少しずつだけど主任に近づけているようで、とてもうれしい。だから今日はご期待を裏切らないよう、精一杯仕事を頑張ろうと思っている。
いろんな気持ちがせめぎあって、落ち着かない気分でいた私に、
「ところで、さっきから気になってたんだが」
ふと、主任が水を向けてきた。
「お前の持ってきた、その紙袋は何だ?」
膝の上にある二つの荷物のうち、紙袋の方を指し示してきた。
ラップトップパソコンはもう主任の部屋にあるのだし、その他の必要な道具は私用の鞄に入っている。何を持ってきたのか訝しく思われたみたいだ。私はすぐに答えた。
「あ、これ、着いてからお渡ししようと思っていたんです」
「俺にか?」
「はい。つまらないものですけど、手ぶらでお邪魔するのもどうかと……」
初めてのお部屋訪問、しかも相手は常日頃から大変お世話になっている上司ということで、私は手土産を持参していた。
「待て小坂、馬鹿、そういう気は遣わなくていいんだよ」
少し慌てた様子で主任が言ったけど、持ってきてしまった。こういうのってまずかったんだろうか。
「余計なことでしたか?」
「当たり前だ。何でお前、俺の部屋に来るのにいちいち手土産なんて」
「それはその、うちの両親も是非持っていくようにと申しておりまして。私も迷ったんですけど、あまり失礼なふるまいをしてもいけないなと思って」
私も最初は、必要かどうか迷った。しつこいようだけど主任は一人暮らしだし、あまりかさばる品を持っていったらかえってご迷惑になるような気がしたから。そしたらうちの両親が、あまり大きくない、そして相手のお好みに合うお菓子の詰め合わせならいいんじゃないかとアドバイスをくれた。だから私も今日の午前中、ひとっ走り買い物を済ませていた。
「親御さんがか。それなら納得した」
非常に腑に落ちた表情になる主任。もう一度溜息をついてからは、苦笑いを浮かべていた。
「お前が育まれた土壌もよくわかった。次からはそういうのはいいからな」
「わかりました。次からは気を付けます」
「そこまで畏まらなくてもいい」
今度は吹き出された。笑われているのだとわかっていても、そういう反応にはほっとしてしまう。主任にならいくら笑われてもよかった。
でも、次からは本当に気を付けよう。ビジネスマナーを尊重し過ぎると、かえって気を遣わせてしまう。
「それで、中身は何だ?」
笑顔に戻った主任が尋ねてきた。
「実は上げ底になってて、こっそり山吹色のまんじゅうが入ってたりしないか」
「それって時代劇みたいですね!」
私もつい、つられて笑う。それだと主任が悪代官に、私が越後屋になっちゃう気がするけど、主任は悪役が似合うような人じゃない。
「でもおまんじゅうなのは当たりです。大島まんじゅうです」
手土産の中身を先に明かすのはマナー違反だろうか。だけどそう答えたら、主任にはへえ、と唸られた。
「渋い趣味だな」
「主任は小豆がお好きだったな、と思ったんです。ここのお店の大島まんじゅうはつぶあんなんですよ」
前に、うれしそうに小豆を食べている姿を見かけていて、覚えていた。だから小豆のお菓子にしようと決めた。
「よく知ってるな。そんなこと、お前に話してたか?」
怪訝そうにする主任。私は素早く答える。
「いえ、パフェをご馳走になった時のことを覚えていたんです」
「……あの時か。小坂も案外、よく見てるんだな」
驚いた様子で主任は笑い、からかうように付け加えてくる。
「あの時なんて、苺のパフェに小坂まっしぐらって感じだったのにな。俺のことまで観察してる余裕もあったのか」
それは――だって、好きな人のことだから。たくさん知っておきたいと思うし、知ることの出来る機会は外したくない。あの時もそういう気持ちでこっそり観察していた。
口にするにはまだ照れるので、結局笑って誤魔化した。多分ばればれなんだろうな。当たり前か。
車はやがて、新興住宅地の一角へと乗り入れた。
大小さまざまなマンションの建ち並ぶ界隈、その中の六階建てマンションに主任のお部屋はあるらしい。屋外にある駐車場に車が停まると、今更のように緊張してきた。
「そう固くなるなよ、小坂」
エンジンを切った主任は私の方をちらと見て、それから少し笑った。
「仕事が片付くまでは手なんて出さないからな。安心していい」
何だか、かえって緊張を促進させるようなことを言われたような気がする。




