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プライドと自覚(2)

 宣言通り、主任は会議直前に戻ってきた。

 先に会議室に入り、資料に目を通していた私は、案の定颯爽と現れた主任の姿にほっとするやらどぎまぎするやらで、忙しないことこの上なかった。

 主任は席に着く前に私の方を見て、こっそり笑いかけてくれた。その時だけ砕けた表情になった他は、ずっと勤務中らしい、落ち着き払った顔つきでいた。それに対して私は会釈を返すのがやっとだったけど、そうして気に掛けてもらえたのはうれしかった。


 今、資料を通読している石田主任が、お酒の席で品性に欠ける話題を口にしている姿なんて想像出来ない。本性のある人にも見えない。『本性』がすなわちオンかオフかどちらかの姿だというなら、話はまた別なんだろうけど――それなら今の私でもある程度は知っている。

 安井課長は、私の知らない主任をご存知だ。

 そして私のいないところで、私の話をする主任をご存知だ。

 惚気と評されるような話をされている事実に、私はまだ信じられないような、本当だったら困るような、そんな気持ちでいる。

 真偽の程はわからないし、今はここまでにしよう。会議中に考えることでもない。


 脱線気味の思考の軌道修正にも成功し、会議の方もつつがなく終了した。 

 ルーキーの分際で、仕事に慣れてきたと言ったら驕りのようだけど、事実いくらかは慣れてきたのだと思う。会議の内容を丸暗記なんて不器用な真似はしなくなり、要点だけを抜き出してメモに取るようになった。それでも私の筆記速度は他の皆より遅めで、いつも会議室には一番最後まで残された。

 やっぱり、慣れてきたと言うのは驕りだ。ほんのちょっと、慣れたかな、という程度にしておく。

 ホワイトボードを消すのと照明を消すのはビリの人の仕事、つまり私の仕事だった。学生時代の日直の気分でホワイトボードをきれいにしておく。黒板よりも消しやすいし、チョークの粉が飛ばないのがいい。高校の頃は紺のセーラーで、白いチョークの粉がつくとなかなか落ちないのが嫌だった。

「小坂、終わったか?」

 一人きりだった会議室のドアが開き、石田主任が顔を覗かせた。

 OHPを片付けてくると言っていたから、私がホワイトボードをきれいにしているものの三分ほどの間に、倉庫へ行って帰ってきたらしい。

「はい。ちょうど終わりました」

 私は答え、フェルトの字消しをボードの前に置く。そして照明のスイッチまで歩み寄り、一息に室内の明かりをオフにする。

 会議室を出て、ドアを閉める。主任はそのドアノブに鍵を差し込み、がちゃりと音を立てて施錠した。チェーンつきの鍵をポケットにしまった主任が、私を見て、軽く笑う。

「じゃ、戻るか」

「はいっ」

 大きく頷いてみる。勤務中なので真面目な顔で応えた。

 その時、主任がまた、何か言いたげにしてみせた。でも何も言われることはなかった。どうかしたのかなと、私も少しだけ訝しく思う。もしかしたら私の勘違いかもしれないけど。

 それから二人で、営業課まで歩き出す。

 距離は短い。階段を一階分下りて、ほんのちょっと歩くだけだ。廊下には他に人もいるから、並んで歩くこともしない。二人でいるといろんなことを思い出しそうになるけど、キスの記憶も今日の安井課長のお話も、ひとまずは頭から追いやった。しかつめらしい態度でいることにした。


 社内で、主任と二人でいられる機会はそう多くない。

 主任に直接、業務を教わっていた時期はたくさんあった。だけどここ最近は私も一人で仕事をするのが当たり前になっていて、主任はもちろん、他の営業課の方とさえなかなか顔を合わせなくなった。

 こういう、主任と一緒にいても差し障りのない時間が、ささやかながらうれしくもあったし、でも勤務中だと落ち着かないなと思ったりもする。

 やっぱり主任とは、勤務時間外に一緒にいる方がいいなあ、なんて。

 ついこの間まではこういう時間こそが一番の幸せだったくせに。人間、贅沢を知るとキリがなくなるものだ。そういえば石田主任も先日、そんなことを言っていたっけ。


「腹減った」

 早足で三歩前を行く主任が、不意に呻いた。

 見ると、お腹の辺りに手を当てている。

「もしかして、お昼まだなんですか?」

「ああ、食べてない」

 休憩中に取引先へ呼び出されていったと言うんだから、食べる暇もなくなってしまっただろう。もしくはまさにお食事の真っ最中だったのかもしれない。どちらにしても大変だ。

 私にとってもそのうち他人事ではなくなるんだろう。今より更に仕事が増えたら、ご飯の時間にお得意先から電話があったりなんて、珍しいことじゃなくなるのかも。

「でも今から食べるのも微妙だな。どうすっかな」

 苦笑気味の主任が腕時計を見る。確か、会議が終わったのは午後四時少し前のこと。今はお昼より晩ご飯の方が近い時間帯だった。

「こういう時の判断が難しいよな。晩飯まで我慢しとくか、それとも繋ぎで軽く食べとくか。食べないでいる方がいいんだろうな、本当は」

 同意を求められたので、私は心底共感しながら答える。

「難しいですよね。食べて、後で悔やむこともありますし」

 晩ご飯を美味しく食べたいなら、こういう微妙な時間にぐっと我慢するのが一番いいはずだった。でもその我慢がまた大変。お腹が鳴っちゃうのも恥ずかしいし、悩ましい問題だと思う。

「だよな」

 主任も悩ましげに首を傾げた。

「買いに行くのだって面倒だし、我慢するかな」

 さすがは石田主任、立派なご決断だ。私は精一杯の気持ちを込めて応援することにした。

「頑張ってください、主任」

「ん? 頑張るって、我慢をか?」

「はい。きっとすごくお辛いことと思いますけど、応援しています!」

 そうしたら、なぜか当の主任には笑われた。

「別にそこまで辛くはないって。お前じゃあるまいし」

「……えっ?」

 今の、私じゃあるまいしという言葉には一体どんな意味が。考えそうになる私を、主任はおかしそうな口調で引き戻す。

「むしろ、お前の顔見てると無性に腹減ってくるんだよな」

「それは……私が食いしん坊だからという意味でしょうか」

 恐らくはそういう意味なんだろうな、と思いながら聞き返す。そして主任は否定をしない。いい笑顔で私を顧みる。

「それもある」

「あるんですね……」

「でも、それだけじゃない」

 階段に差し掛かったところで、主任は私の真横に並んだ。私に内側を下らせ、自分では外側を歩きながら打ち明けてくる。

「小坂の頬っぺた見てると、何かこう、肉まんとかあんまんとか食べたくなるんだよな。うん、いい顔だ」

 私は絶句した。

 自分の頬っぺたから食べ物を連想されるとは思いもよらず。そんなにぷっくりした頬をしてるだろうか。そりゃあ、就職してからはほんのちょっと、ちょっとだけ体重が増加していたりもするけど、でも――。

 階段を下りながら、主任はしげしげと私を、私の頬を見ていた。恥ずかしくなるくらいつぶさに見られた。そして、下り切ってから呟かれた。

「美味そうだ」

 万感込めた言葉に。どう反応していいものやら。

 言われた時の視線が思いのほか強かったので、私はそっと、抗議の意思を答えてみる。

「食べちゃわないでくださいね、主任」

「どうするかな」

 おどけたような顔で、主任が笑う。

「空腹だけなら、多少の我慢も出来るんだがな」

 空腹だけ、なら?

 どういう意味だろう。

 私が目を瞠った時、ちょうど営業課まで辿り着いた。石田主任は訝しがる私にそっと目配せをしてから、勤務中らしい顔つきに戻ってドアを開けた。切り替えの実に素早い人だった。


 会議の後は営業課オフィスにて、見積書の記載と確認、それから発注とその状況確認に追われた。

 思えば、夏頃の私は出来る仕事が少なくて、次は何をしたらいいのかとまごまごすることもよくあった。今は出来る仕事も増えたけど、しなければならない仕事も格段に増えた。次に何をするか迷う暇もない。一つずつ片付けていかなければならない。でも相変わらず、まごまごはする。忙しさと気の抜けなさに戸惑うこともしょっちゅうだ。

 そうこうしている間に終業時刻を過ぎていた。それも当たり前になってしまって久しい。大体、私なんかはまだましな方だった。


「霧島、戻ってこないな」

 主任が壁の時計を見て、眉根を寄せた。

 先週からずっと、霧島さんは多忙を極めているようだった。大口の契約を取り、納品までは無事に漕ぎ着けたものの、その後のアフターフォローに追われているのだと聞いていた。何でもかなり注文の多い取引先らしく、休業日でもお構いなしに問い合わせをいただくのだとか。

 今日も朝から外回りに出ずっぱりで、会議の後でまた社用車でとんぼ返りしたそうだ。この分だと帰社は何時になるのかわからない。その後で書類やら何やらに手をつけるとなると。

「せめて戻ってくるまで待っててやれたらいいんだがな」

 難しい表情で主任は言うけど、その主任だって今日はお昼ご飯も食べていない。仕事が片付いたなら一刻も早く帰りたいはずだ。

「小坂は今日、何時くらいで上がれる?」

 水を向けられたので、私は正直に答える。

「八時までには、終われたらいいなと思っています」

 すると、主任には難しい顔をされてしまった。

「そんなに掛かるのか?」

「すみません、見積書作りに手間取っていて……。なるべく早く退勤出来るようにはします」

 私も本当は早く上がりたい。今日はお腹が空いてしょうがないとか、くたびれてしまってどうしようもないということはないけど、残業が続くとうちの両親が心配するから困っている。覚えたての業務だから、やることの多い部署だからと説明しても、やっぱり心配はしてしまうらしい。だからなるべく早く帰れるようにしたいんだけど。

 配属された直後は、営業の仕事って契約を取ってくるだけなのかと思っていた。

 でも実際はその契約をするまでに何度も打ち合わせをして、見積もりも出して、契約を取ってからは迅速な発注と納品をして、アフターフォローもしっかりやって……と営業と一口に言っても、業務内容は濃密だ。まして生身のお客様を相手にする仕事、応対の仕方にも気を配らなくてはならない。

 ぽつぽつと新規の契約を取ってくるようになった私は、その新規の分の対応にひたすら追われていた。一年目だからまだいいものの、これで得意先がもっと増えるようになったら、ちゃんと対応し切れるかどうか。不安も少しある。

「営業回りを始めた今が最初の山だからな。しょうがないと言えばしょうがないか」

 言いながら、主任がラップトップに向かう私の傍までやってくる。表計算ソフトの画面を覗き込み、それから横目で私を見る。小声で、はっきりと告げられた。

「でもすぐに次の山があるぞ。年末の忙しさに潰れるなよ」

「はい。頑張ります」

 私は真顔で答える。俗に言う年末進行の慌しさは、話にしか聞いたことがない。覚悟だけはしているけど、実際そうなったらちゃんと対応し切れるか。不安もある、少しだけ。

 真横に立つ主任が私の顔を見て、やっぱり何か言いたそうにした。

 言葉を探すような面持ちと間。

 だけど――そのタイミングで、営業課のドアがノックされたから、結果的に何も言われなかった。

「はい」

 ドアの向こうへ、主任が真っ先に声を上げた。

 すぐにドアは開いて、誰かが顔を覗かせる。

「長谷さん」

 主任が名を呼んだ通り、現れたのは受付の、長谷さんだった。

 既に退勤後なのか私服姿で、課内を見回してから、主任に向かって声を掛けてくる。

「あの、石田さん……石田主任。ちょっとよろしいですか」

 途端、営業課の空気が変わったような気がする。

 居合わせた人たちが皆、長谷さんの方を見ている。こっそりうかがっている人も、笑顔で見つめている人もいる。前に聞いた『営業課のアイドル』という話が、皆の視線によって明確に裏づけされている。

 呼ばれた主任は廊下へ出て行こうとして、ふと私に目を留める。

「小坂」

 私を呼んで、こっちへ来るようにと手招きをする。

 説明は特になく、主任の姿はドアの外へと消えてしまう。私に一体何のご用だろう。怪訝に思いつつ、私は慌てて後に続き、廊下へと出た。


 廊下で顔を合わせた長谷さんは、私がついてきたことに一瞬、おやっという顔をした。だけどすぐに笑顔になって、お辞儀をしてくれた。

「こんにちは、小坂さん」

「は、はいっ。こんにちは、長谷さん!」

 私も笑って頭を下げる。そうしたら長谷さんは、微かに声を立て、笑ってくれた。

 こうして間近で見ても、とっても素敵な人だ。大人のお姉さんみたいないい匂いもする。何だかすごくどきどきする。

 しかも、笑顔で言われた。

「小坂さんのお話は、いつもうかがってます。とても真面目な新人さんだって」

「い、いえいえそんな……!」

 めちゃくちゃ照れて、私は両手をぶんぶん振った。

「小坂、謙遜するなよ」

 主任には肘で突かれて、ますます照れた。慌てて反論する。

「謙遜じゃないです。あの、私の話を長谷さんがご存知だとは思わなくって」

 そこで、ふふっと長谷さんが笑う。

「しっかり存じてます。石田さんの自慢の部下なんですよね」

 何という過分なお言葉。とてもじゃないけどもったいなさすぎる。

「まままさか、とてもそこまででは!」

「そうなんですか? でも石田さんって、お酒が入ると小坂さんの話ばかりするんですよ。とても真面目で、しかも可愛いんだって」

 長谷さんのその言葉は揶揄するそぶりではなかった。

 でも私は、昼休みに安井課長から聞いた話もあって、つい無言のうちに主任の顔を見上げてしまった。もしかして主任は、どこでも私の話をしているんだろうか。まさか長谷さんの前で、素面では言えない話をしているとは思わないけど――。

 今度は主任が照れている様子で、どこかしら気まずげに言った。

「長谷さんも意地悪だな。酒の席での話を、勤務中の人間相手に持ち出さなくたって」

「すみません、つい」

 楽しそうな顔で首を竦めた長谷さんは、続けて主任へと尋ねる。

「ところで、霧島さんはまだ戻ってきていませんよね? 遅くなるようですか?」

「ああ。何時になるかはわからない」

 主任が答えると、長谷さんの顔には気遣わしげな表情が浮かぶ。心配なんだろうなとわかる。

「そうですか……じゃあこれ、お弁当なんですけど、お願いしてもいいでしょうか」

 長谷さんは、提げていた小さな紙袋を主任に差し出した。ずしりと重そうに見えた。

「目立つところに置いておけば彼も気づいてくれると思いますから、お願い出来ますか?」

 説明を添える長谷さん。口調から察するに、霧島さんの為にお弁当を用意することはそう珍しくもないみたいだ。確かに、以前も長谷さんのお弁当を持った霧島さんをお見かけしていたような。

「了解」

 短く答えた主任が、とん、と私の背中を叩く。驚く間もなく言われた。

「長谷さん、その弁当は小坂が預かるから、安心していい」

「え?」

 いきなり話を振られたことと、背中に触れられたことに私は動じた。主任はこちらに目配せしてから、また長谷さんへと向き直って続ける。

「今日は小坂もあいにくと残業なんだ。でも、そのついでに弁当もしっかり見張っててくれるはずだ。安心していいからな、長谷さん」

 そこまで言われてようやく、私は廊下まで連れてこられた理由を察した。

 ――なるほど、長谷さんが持ってきたのは霧島さんの為のお弁当。それを確実に残業のある私が、霧島さんが帰社するまで預かっていればいいということだろう。

「そうなんですか。小坂さんも残業なんて、大変ですね」

 長谷さんが私を見て、少し心配そうにしてくれた。うれしかった。すかさず答える。

「いいえ、大丈夫です。お弁当もばっちりお預かりします!」

「ありがとうございます。じゃあ、お願い出来ますか?」

「はいっ。お任せください!」

 私は元気よく答え、笑顔の長谷さんから紙袋を受け取った。

 ずしりと重い袋の中、包まれたお弁当箱が収められているのが見えた。どこからどうみても手作りだ。いいなあ。

「小坂さん、お願いしますね。今度お礼をしますから」

 うれしげな言葉に、私はかぶりを振る。

「そんな、お気持ちだけで十分です! このくらいいつでもお申し付けください!」

「わあ、ありがとうございます、助かります。やっぱり素敵な新人さんですね」

 とびきりの笑顔を見せる長谷さんが、その後で声を抑えて言った。

「よかったら今度、ゆっくりお話ししたいです。石田さんと小坂さんのお話も是非うかがいたいですから」


 いい匂いとどきどきする空気を残し、長谷さんは営業課前の廊下から立ち去った。

 そして私は恐る恐る、隣に立つ主任の顔を見上げる。

 主任は照れ笑いを浮かべて私を見下ろす。

「悪いな、小坂。外堀はもう埋まってんだ」


 それにしても見事な埋め方だと思う。家康もかくやというほどの。

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