プライドと自覚(1)
あれから二週間が過ぎた。
なのに私は、キスの記憶を追い払えていない。
頭の片隅にしがみつくように残っていて、ふとした拍子に、しかも脈絡のないタイミングで思い出す。
――夕日も消えた車の中。
柔らかい唇の感触と温度。
聞こえなかったはずの波の音。
あの瞬間の動悸の激しさまで全て、一続きの記憶として留まっている。うっかり思い出したが最後、食事中だろうと運転中だろうと、書類と睨めっこしている最中であろうと、かっと頭のてっぺんまで熱くなってしまう。
主任に見つからないようにしなくてはならない。勤務中に思い出し赤面なんて不真面目過ぎる。絶対駄目。
そう思っていても、いざとなるとあからさまに動揺してしまう。
「――お、小坂。お帰り」
好きな人の声は、どこで聞いてもすぐにわかってしまう。
主任に声を掛けられたのは、会社の地下地下駐車場だった。営業先回りを終えて社用車を降りたばかりの私は、声のした方を見やり、すぐ隣に停まっている別の社用車を認め、そこの鍵を開けようとしている主任の姿に気づく。
あの日以来、二人きりになったのは久し振りだった。
もっともここは社内だし、今は勤務中だけど。
「あっ、あの、ただ今戻りました!」
よみがえりそうになった記憶をどうにか追いやり、大慌てで答える。
「お疲れ。俺はこれからだ」
「これから、お出かけになるんですか?」
「ああ。休憩中に呼び出された。ひとっ走り資料を届けてくる」
書類ケースを掲げて示す、石田主任は物憂げだった。
「会議前だってのに仕事が増えて散々だ。何とか会議までには戻りたいんだがな」
その言葉通り、今日は午後三時から営業会議が行われる予定だった。私もその予定を見越して、この時間までに帰社出来るようにスケジュールを組んでいた。ちなみに、車を降りる直前に確認した現時刻は一時半過ぎ、だったはず。
なのに主任は、今から出て行かなければならないらしい。
「今からなんて大変ですね」
「遅刻したらその時はその時だ。バケツ持って廊下に立っててやるよ」
主任は落ち着き払った様子で車のドアを開ける。
そして乗り込もうとする直前、言われた。
「ところでお前、昼飯は? しっかり食べとかないとまた腹が鳴るぞ」
石田主任は私が忘れていて欲しい事柄について記憶力抜群だった。営業デビュー会当初、お昼ご飯を食べるタイミングさえ計れなくて、お腹をぐうぐう言わせてしまったことがあったのを言っているんだろう。私は忘れかけていたのに!
「あの、これから食べます」
恥じ入りながら答えれば、
「そうだな。小坂らしくしっかり食えよ」
何だかにやつきながら言われた。
笑顔は素敵だから二重の意味で反応に困った。この間のキスの記憶と、少し前の人生の汚点みたいな記憶がごっちゃになって、頭の中がこんがらがる。前者は忘れたくないけど思い出したくないし、後者はむしろ営業課の全員に忘れてもらいたい。
私の内心を知らない主任が、ひらひらと大きな手を振る。左手だった。
「じゃあ行ってくる」
「は、はい。お気をつけて!」
直立不動で答えた私をどう見たか。その時、主任は何か言いたげな顔をした。だけど何も言わずに、ほんのちょっとだけ笑って、それから車に乗り込みドアを閉める。
主任はお昼、食べたのかな。
ふと疑問が過ぎったのは、社用車の赤いテールライトが見えなくなってからだった。
社員食堂には午後二時少し前に駆け込んだ。
メニューのほとんどは品切れだったけど、カレーライスは残っていた。私はそれを購入し、端っこの方の席で食べ始める。時間が時間だけに食堂内は空いていて、厨房も私が食べ始めた直後に店じまいとなった。
社食のカレーは給食のカレーに似ているかもしれない。もったりしていて少し甘め。ジャガイモとニンジンがごろごろしていて、お肉はあまり入っていない。でも美味しい。しかも三百五十円。肉が小さかろうとこれなら文句なし。そのカレーを普段の二倍速ペースで食べる。スーツに飛ばないようにだけ細心の注意を払いつつ。この分だと三時の会議には間に合う。
そんなことを考えているうち、思考が石田主任のことへと行き着く。主任は会議に間に合うのかなとか、時間がなくても安全運転を心がけて欲しいなとか、本当は主任こそまだご飯を食べていなくて、今頃お腹が空いてないといいんだけどなとか、あれこれ考えてしまう。
聞いてみればよかったかな。主任はご飯、食べたんですかって。
もっと何か言えたらよかったな。励ましにしても、心配にしても。
あの日以来、二人きりになる機会がなかった。顔を合わせるのはいつも職場で、仕事の後や休日には、主任からメールや電話を貰うこともあった。メールや電話ではまだ普通に接することが出来ていたけど、顔を合わせるとまずい。いろいろと思い出してはうろたえてしまう。それこそ私にとっては普通の態度だったけど――最近は、うろたえた後で妙にへこんだ。
もう少し気の利いたことが言えたらいいのに、と思うようになっていた。
だって約束した。
三月までの間、主任のことをしっかり考えるって。
主任とどういうふうにお付き合いしようかとか、どうしたら主任に喜んでもらったり、幸せになってもらえるかを考えながら過ごすって約束していた。
なのに私のしていることは、今までとあまり変わらない。日増しに忙しくなっていく仕事に追われて、あの日の記憶のキスだけを思い出しそうになって、慌てて追いやって、結局気の利かないことばかり口にしている。
ぼんやりしていたら、急に電話が震えた。私用の携帯電話の方。
石田主任からメールが届いていた。
『どうにか間に合いそうだから心配するな』
出先から送られてきたメールはたった一文、そう記されていた。だけどそれだけで滅入っていた気分があっさり晴れた。めちゃくちゃ安心した。そして気遣いがうれしかった。
主任はすごい。これだけのメールで私を喜ばせて、幸せな気持ちにしてしまった。心配とか気がかりなことを吹き飛ばしてしまった。本当に、すごいなあと思う。
いや、感心している場合じゃない。私も見習わなくては。
スプーンを一旦置き、私はメールの返事を打つ。伝えたいことはたくさんあった。メールを貰ってうれしかったことも、実は密かに心配していたことも、お腹が空いてないか気になっていることも皆伝えたくなってしまった。だけど主任は運転中かもしれないし、それでなくても休憩時間を押して仕事をしているのだし、長々としたメールは送れない。私も一文で済ませようと、あれこれ頭を捻った。
『よかったです、是非安全運転でお帰りください!』
捻った末の返事を送信してから、いかにも私らしい、気の利かない文面だなと思う。
もうちょっと勉強しよう、気の利いた一言の告げ方、書き方。主任くらいに気配りが出来るようになりたい。私のメールで、主任を喜ばせたり幸せにしたり、不安を晴らしたり出来るように。
私用の携帯電話の、受信メールを遡ってみる。
ここ二週間はほぼ毎日のように、主任からメールを貰っていた。主に退勤後、帰宅してからのメールが多かった。
内容は以前と同じで多岐にわたり、晩ご飯のメニューや見ていたテレビ番組の話題、それに職場での話が多かった。たまに霧島さんや安井課長の名前も出てきた。
先週の土曜日のメールには、『安井と飲みに行くから思いっきりお前の話をしてくる』とあって、それには私も大慌ての返信を打った。止めてください恥ずかしいです主任。その日にどんなことが話されたのかはまだ聞いていない。と言うか多分聞けない。
あの日、霧島さんたちのご結婚祝いを買いに行った日には――夜遅く、一通のメールを貰っていた。
『次はもう少し、長い時間一緒にいたい』
たった一文で、私は大いに赤面し、自分の部屋で一人うろたえる羽目になった。
うれしかったけど照れる、恥ずかしい。主任の気持ちもしっかりとわかって、だけど返信にはものすごく悩んだ。そうですね、と返したら、それだけかよとすかさず突っ込まれた。私の本音としては間違いなく『そうですね』だったんだけど、答え方一つにも気が利かないから困る。
石田主任からのメールは、しっかりと保存フォルダに残してある。
いつかそのうち、保存しきれなくなるだろうと思う。それでも今は、何もかも大切にしておきたかった。好きな人とこうして繋がっていられるのが幸せだった。
私のメールも、取っておきたくなるような、大切にしてもらえるような内容に出来たらいい。
携帯電話をしまい、スプーンを持ち直し、食事を再開する。
カレーはみるみるうちに減っていく。いいペース。この調子なら食後にお茶を飲む余裕くらいはあるかな。
そう思った時、
「――小坂さん。隣、いい?」
声がした。
安井課長の声だった。
顔を上げると、コンビニの袋を手にした安井課長が、私のいるテーブルのすぐ横に立っていた。随分と久し振りにお会いしたような気がする。
目が合うと優しく笑いかけられた。その笑い方が意味深長に映って、どきっとする。
直感した。課長は、私にお話があるんだと思う。
拒む理由はない。お世話になっている人だし、目上の方だし、いい人だと思っている――ただ今は、嫌な予感と言うか、どんな話題を出されるかうすうす察していたから、緊張した。
「あの、どうぞ」
おずおずと答えれば、課長は穏やかに笑んだ。
「ありがとう。お邪魔するよ」
まずコンビニの袋をテーブルの上に置くと、私の左隣の椅子を引く。
素早く腰を下ろして、袋の中からお弁当を取り出す。こういう時でも姿勢よく、きびきびとした動作の人だった。
お弁当を開けた課長が、ふと私の方を見る。
「小坂さんと会うのも久し振りのような気がするな」
私も同じように思っていた。すぐに答えた。
「そうですね、一ヶ月ぶりくらいでしょうか」
「そんなになるか。霧島が結婚するだの何だのと言い出した頃だったな」
安井課長はしみじみしている。
表情は複雑そうだったけど、そのどこまでが本当の複雑さなのかは窺い知れない。何せ主任と課長と霧島さんは、そろって仲良く喧嘩する人たちだ。
「営業課は、今日は会議があるんだよな?」
安井課長のその言葉に、私ははっとしつつ頷いた。
「はい」
そうだった。まずはカレーを食べてしまわないと。お茶を飲む時間がなくなってしまう。
「じゃあ、食べながら話そうか」
促す課長は、ご自分でも割り箸の袋を開け、ぱちんと箸を割る。
話す、という単語にそこはかとない不安を抱きつつも、私もカレーの続きを食べる。
何を話すんだろう。十中八九、石田主任のことなんだろうけど。この間、私の話をしてくるとメールに書いてあったし――どんなことを言われてもうろたえないように。こっそりと決意を固める。
「小坂さんと話すのは久し振りだが、話には聞いていたよ」
お弁当をつつきながら、課長がそう切り出してきた。
「どうやら、石田を手玉に取ってるらしいな」
「て、手玉!?」
声が出た。思いっきりうろたえた。
だって手玉って。そんなまさか。
「そんなこと断じてないです!」
「あれ、違ったのか?」
課長がおかしそうに尋ねてくるから、私は恐る恐る聞き返してみた。
「それは、石田主任がそうおっしゃった、ということでしょうか?」
「いいや」
即座にかぶりが振られた。尚も愉快そうに続く。
「石田から話を聞いて、俺が独断で決め付けただけ」
「そ、そうなんですか」
独断って、事実がありのままに打ち明けられたのだとしたら、どの辺りでそう思ったんだろう。
手玉に取るだなんて、二十三の小娘には全くもって不似合いな形容なのに。主任は、私みたいな小娘に手玉に取られるような人じゃない。いろんな意味で大人だ。
「それは違うと思います」
「ふうん。本当に?」
今度は探るような目を向けられた。訳もなくぎくりとする。
「その、もちろん本当です」
「そうかな。あいつを来年度まで待たせるなんて、なかなかの手腕だ」
安井課長はからかうような調子でもあったし、どこか真剣なそぶりでもあった。私の知らない事実さえ知っているようにも見えた。実際はどうなんだろう。
思わず私が押し黙ると、課長は軽く首を竦めた。
「悪かったよ」
静かに謝られて、違う意味で驚かされる。
「いじめるつもりじゃなかった。そう困った顔はしなくていい」
「い、いえ。こちらこそ生意気に、反論をしてすみません」
「小坂さんが石田にお預け食らわせたって話を聞いたものだからな」
石田主任はかなり包み隠さずに話してしまったらしい。筒抜けだ。
「そういう事の運びになるとは思っていなくて、心底面白がっていたところだ」
安井課長は本気で面白がっているようだった。話し声に笑いが滲んでいる。
「前に話しただろ? 飲みに行く度にあいつが、小坂さんの話をするんだって」
以前聞いていた。営業デビュー初日、大失敗をしでかした後のことだから良く覚えている。ええと、確か。
「私の勤務態度についても話をされている、ということでしたよね」
「いや、そこじゃなくて。残りの九割、むしろ五割の方」
課長は短く嘆息する。
五割の方と言うと、あの『著しく品性を欠く発言』だろうか。そんなことを口にする主任はちっとも想像出来ない。品性を欠く主任というのがそもそも浮かんでこなかった。
「この間なんて、小坂さんについて、とても素面じゃ言えないようなことを言うんだ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような話をな。俺だって独り身だというのに、長々と捕まって二言目には君の名前を聞かされた」
それは、私もすごく恥ずかしい。
主任は一体何を言ったんだろう。めまいを覚える私の隣、課長はもう一つ溜息をつく。
「つくづく幸せな男だよ。付き合う前から惚気話で盛り上がれるんだから」
その瞬間、課長も楽しそうに、そっと笑った。
主任が私の話を、聞いている課長が恥ずかしくなるような話をしている!
さらっと言われたけどそれって結構大変な事態では。話の中身が非常に気になるような、でも午後の仕事に集中する為にも絶対聞くべきではないような、ぐらぐら揺れる心境だった。
「もっとも俺も、あいつの幸せに水を差すつもりはない。浮かれっぷりを見ているだけでも面白いからな」
課長の目が私に留まり、私はカレーを一口、取り繕うように食べる。どう食べても美味しいものは美味しい。だけど、十月だと言うのに少し暑い。
「小坂さんも来年度まで待たせてやると言うなら、いっそあいつをどんどん振り回してやって欲しい。仕事でも、プライベートでも」
「え……」
言われたことに私は戸惑う。
振り回す、という言葉に肯定的な意味を見出せない。それだとまるで、公私どちらでも迷惑を掛けているように聞こえる。
でも、安井課長は読心術みたいなタイミングで言った。
「仕事にしろ恋愛にしろ、自分の意思を貫き通すなら他人を振り回す必要がある。当たり前のことだろ?」
「そうなんでしょうか。私にはまだ、よくわからなくて」
「直にわかる。特に新人さんは、上司を振り回して突っ込んでいく勢いと度胸が必要だ」
諭す口調で続いた。
「その点でなら、石田はいい上司になるはずだ。君が度胸よくぶつかっていけば、あいつは成功でも失敗でもちゃんと受け止めてくれる。そこは心配しなくていい」
私は頷き、またカレーを食べる。やっぱり暑い。
「恋人としては……まあ、振り回されてるのも楽しめるような男だから、そこも気にしなくていい」
課長はそこで苦笑して、声のトーンを落とした。
「ただ、用心に越したことはないな。小坂さんはまだあいつの本性を知らないだろ?」
「え、ええと……本性って、主任はそういう方ではないですよ」
個人的には、本性どころかまるで裏表のない人に見える。私はそう思うけど、課長はそうは思わないらしい。
「どうだろうな。気をつけた方がいい」
意味ありげに釘を刺された。
「付き合う前から、とても素面じゃ言えないことをされてしまわないように」
悟った。
つまり、『素面では言えないようなこと』と言うのは――つまるところ、そういうこと、なのかな。いやまさか。まさかとは思うけど何かそれっぽい気がしてきた。まさかですよね主任。
考えを追い払おうとするとかえって駄目で、この間のキスまで一緒に思い出してしまって、そういえば前回は結構際どい話題もしていたなとも思って、頭がくらくらしてきた。
そうしたら安井課長には思いっきり吹き出された。
「いい反応だな、小坂さん」
そして肩を叩かれて、
「何なら今度、三人で飲みに行こうか。石田の素顔を見せてあげるよ」
なんて言われたから、満足に返事も出来なくなった。
カレーを食べ切るのが精一杯だった。




