左手と右手(3)
インテリアと生活雑貨のフロアは、不思議な匂いがしていた。
まっさらな紙のような、木のような、新しいものの匂い。きっと家具の匂いなんだと思う。そわそわしたくなる空気。
「ここって、備品倉庫と匂いが似ていませんか」
「確かに似てる」
「そうですよね。何だかコピー用紙の補充がしたくなります」
「それはない。と言うかせっかくの休日に仕事を思い出させるな」
鼻を鳴らした主任が、私の手をぎゅっと握る。お蔭でもう何も言えなくなる。
石田主任はインテリアや寝具のコーナーを素通りして、キッチン雑貨のコーナーへ足を向けた。
白っぽい明かりに照らされた、ごく静かな店内。品のいいBGMと絨毯敷きの床がいかにも百貨店という感じだった。
そしてさすが百貨店だけあって、台所用品一つとっても品揃えは充実している。私が名前も聞いたことないようなブランドの鍋が、棚にずらりと並んでいる。と言うより、鍋にもブランドがあるんだなあと今更なことを思う。
「どういうのがいいんだろうな。俺にはさっぱりだ」
顎に手を当てて主任が唸る。
私もそこで、霧島さんのことを考えてみて――ふと思い当たった。
「そういえば、麺類が好きなんですよね、霧島さんって」
「ん? よく知ってるな、小坂」
「はい。社食でもコンビニご飯でも、麺類にしていらっしゃるのをよく見かけました」
社員食堂でご一緒する時、霧島さんは必ずラーメンかうどんを食べている。コンビニのお弁当を買ってくる時はそれに加えて冷やし中華とか、春雨とかも選んでいるようだ。そんなにしげしげ見ていたつもりはないけど、でも目にする度に麺類だから、徹底しているんだなあと感心したくらいだ。
「あいつ、放っておけば酒飲む時でも麺類って言い出すからな」
「そうなんですか。締めのラーメン、くらいならわかりますけど……」
「いや、肴として。よっぽど好きらしいな、麺が」
「本当に徹底してるんですね」
思わず吹き出してしまった。本当に好きなんだろうなあ。
だったらご結婚祝いの品も、好きなものに関連した鍋がいいんじゃないだろうか。そう思って考えてみた。
「でしたら、麺を茹でるのに適したお鍋にするのはどうでしょうか」
「それいいな。きっとあるよな、そういう鍋も」
主任の目が鍋コーナーをぐるりと見回す。深めの鍋もたくさんあるみたいだ。目移りするくらい揃っているから、一つくらいは適した鍋もあるんじゃないだろうか。
私も肯定的な返答を貰ったことにほっとする。更に言ってみた。
「あるいは麺を食べる用の食器でもよさそうですよね。ラーメンの丼とか、麺鉢とか」
「お、それもいいな」
視線がすっと横に動いて、鍋コーナーより更に奥、食器コーナーへと向けられる。向こうは向こうで充実した品揃えのようだ。一糸乱れぬ陳列が離れた位置からもうかがえる。
「夫婦茶碗ならぬ夫婦丼、もしくは夫婦麺鉢か」
主任が呟く。
私も、そういうのはいいなと思う。対になった品物はいかにもご結婚祝いに相応しい。
「ロマンチックでいいですね」
「ロマンかどうかは知らんが、確実に縁起はいいだろうな」
「はいっ」
「よし。まずはざっと見てみるか」
そう言って、主任は私の手を軽く引く。促すような引き方だった。
言葉で示されるよりもはっきりとわかる手の感覚。それはそれで、とってもどきどきする。
鍋コーナーを流し見してから、食器のコーナーまでやってきた。
主任が注意を向けたのは漆器だ。つるりとした表面には照明が丸く映り込んでいて、顔を近づけたら鏡みたいに映りそうな、きれいな塗りだった。漆塗りの麺鉢をためつすがめつしては、感心したように溜息をついている。
「やっぱいいよな、漆塗り」
その言葉には私も、心底共感した。
「はい。お料理が特別美味しく見えそうです」
「それは小坂らしい発言だ」
私の相槌を笑ってから、主任は温かい口調で続ける。
「結婚祝いにするなら縁起もいい。陶器よりも割れにくいし、手入れさえきちんとすれば何年も使えるって言うしな」
そういえば、割れるって結婚式では使っちゃいけない言葉だったような記憶がある。いつもお世話になっているビジネスマナーの本に、忌み言葉の一つとして書いてあった。
私も気をつけよう。もうじき、本当の結婚式があるんだから。
「あとは需要だな。どのくらいの大きさのやつがいいのか、あとで当人たちに聞いてみるか」
独り言のように呟いてから、主任がちらっと私を見る。
「もう少し見てもいいか?」
「も、もちろんです! いくらでもどうぞ」
元はと言えば主任のお買い物なんだから、是非気の済むまで左見右見していただきたい。その間はずっと傍にいられるし、主任をそっと眺めてもいられるからうれしい。
「悪いな、小坂。ありがとう」
柔らかい表情で告げられた感謝も、どきっとしたけど、うれしい。
「え……そんな、こちらこそです……」
俯きつつ、私はこっそり呼吸を止める。主任はその間に手を繋ぎ直した。指を絡めて繋がれた。
「あ」
吐息みたいな声が落ちる。
手のひらで重なる体温に、心臓が溶けそうになる。奇妙な感覚だった。くすぐったいような、逃げ出したくなるような、なのに心地良くて眠たくなるような。ぼうっとしていれば、ほんの僅かな力で引き寄せられる。主任が静かに歩き出すのがわかって、私はまたついてゆく。
顔を上げると目が合った。こちらを向いた主任が何か言いたげな顔をして、でも何も言わずにいた。私も黙りこくっていたけど、手を繋いでいる以上は全て筒抜けのはずだから、言う必要もないのかもしれない。
熱っぽい手を引かれて、食器売り場をゆっくり歩く。
主任は真面目な顔つきで漆器に見入っている。時々足を止めるから、私は主任にぶつからないよう、その一挙一動に見入っている。
会話がなくても幸せだった。どきどきするけど、うれしかった。
あとは、当初の目的であるお買い物のお手伝いを、もう少し出来たらいいんだけど――今のところ大したことは言えてない気がする。もうちょっと頑張ろう、かな。主任に喜んでもらえるのはいい。もっともっと喜んでもらえるように、私に出来ることがあればな、と思う。今日のお買い物でもそうだし、それ以外でもそう。
「しかし、月日の経つのは早いな」
漆器のお膳の前に立ち、主任がふと呟いた。
「小坂が入社してから、もう半年経つんだもんな。この分だと霧島の結婚式なんてあっという間にやってくるだろうな」
私も、その通りだなと思う。入社してからの半年はあっという間で、それなのにすごくすごくたくさんの出来事が起こった。目まぐるしい毎日はそれぞれが印象深い。上手くいったことばかりではなかったし、失敗なんてしょっちゅうしていたけど、何もかも忘れたくない思い出だった。
半年でこうなのだから、一年が経った頃の私はどんな風になっているんだろう。思い出が増え過ぎて、頭がパンクしていたりしないだろうか。そして思い出もだけど、仕事のことも今よりは覚えていられるといいんだけどな。
「結婚式、楽しみだな」
主任が言う。とても素直な口ぶりで。
当然、私は頷いた。
「はい、とっても!」
それで主任も深く笑んで、さっきと同じトーンで続ける。
「その頃までには俺たちも上手くいってるといいんだがな」
「……な、何がですか?」
うっかりもう一回頷くところだった。不意打ちでそういうこと言うのは本当にずるいです主任。
「何がと聞くか。いい度胸だな小坂」
右隣から鋭く睨まれて、思わずびくりとする私。喜んでもらおうと思った矢先に怒らせてしまったみたいだ。でも、とっさに返事が出来る問いでもなかった。どぎまぎしてしまう。
「忘れるなよ。今、お前の右手は俺が預かってるんだからな」
釘を刺すような物言いは意味深長だった。再びびくりとしたくなる。
「え? それって、どういうこと……ですか」
「つまりお前の利き手は、俺の人質ならぬ手質になっているということだ!」
言うが早いか、主任は私の手を一旦解くと、そのまま右手首を掴んだ。そして軽く持ち上げるようにして、手のひらの上を指先でこちょこちょと、くすぐり始めた。
「わあ、何するんですか主任、こんなの……く、くすぐったいです……!」
「どうだ、参ったか。止めて欲しければごめんなさいと言え!」
私の右手をくすぐりながらやけに楽しそうな主任。何でそんなにいきいきと、悪そうな台詞を言うんだろう!
「ご、ごめんなさい!」
とにかく激しくくすぐったかったので、私は身をよじりつつ素直に謝った。そうしたら満面の笑みで返された。
「ついでに俺のことをどう思ってるか言ってみろ!」
「ええっ!? いえ、そのっ……言えないですよ!」
しかも何と言う水の向け方。無茶振りにも程がある。
私の答えに主任は、ちっと舌を鳴らした。
「実力行使でも駄目か。しょうがない、だが手質はしばらく返さないぞ」
手質って新しい言葉だ。そんな場違いなことを思っているうちに、私の手は再び繋がれた。
くすぐったかった……。
でも、めちゃくちゃ楽しそうにしている主任も、可愛くていいなと思ってしまった。もうくすぐられたくないけどそれはそれとして。
どうにかしてそういう気持ちを、伝えられるようになりたいな。何か方法、ないのかな。
並べられた漆器をじっくり見て回った後、私たちは売り場を後にした。
「大体の目星はついた。あとは霧島に確認取って、大きさとか用途を聞いてみる」
品物を購入していないのに、石田主任は大変満足そうにしていた。
「せっかくくれてやったのに使い道がないんじゃ、食器だって浮かばれない。使い勝手のいい奴を選んでやろう」
「そうですね」
私も一緒になって笑ってしまう。主任がうれしそうにしているのが、すごくうれしい。
結婚祝いの品物って、人間関係において重要かつデリケートなものだなと実感している。でも石田主任と霧島さんの間柄なら、どういう食器が欲しいかを直接聞いても失礼にはならないだろうし、むしろお互いに納得のいくプレゼントに出来るからいいことだと思う。そんな関係も素敵だ、ちょっと羨ましい。
羨望の眼差しを向ける私に気づいてか、主任もこちらを見て、口元を緩めた。
「この次に来る時は、ちゃんと買い物をするからな。また付き合ってくれるか」
「はい、私でよろしければ!」
私は力一杯頷く。だけどその後でふと気になって、苦笑しながら言い添えておく。
「でも、今回はあまりお役に立てずすみません。もうちょっとお手伝い出来ることがあるかなって思っていたんですけど、大したことが出来なくて……」
「いや。十分役に立ってる」
かぶりを振ってくれる主任。優しい方だ。更に続けて、
「お前のお蔭で買うべきものが決まった。感謝してるよ、ありがとう」
そんな言葉まで掛けてくれたから、何と言うか照れる以前に恐縮してしまう。畏れ多い。
「いえ、そんなことは」
思わず否定しかけた私に、主任は笑顔を向けてくる。
「ちゃんと霧島たちにも言っておく。俺と小坂と、二人で選んだんだって」
二人で選んだなんて、それはさすがに言い過ぎだ。でもお気持ちはすごくうれしかった。
実際、役に立ててはいなかったと思う。アドバイスらしいことは大して言っていないし、むしろ品物を選ぶ主任の邪魔をしないよう、黙っている時間の方が長かった。でも、その事実を主張するのはかえって失礼なようにも思えた。
せっかく主任が言ってくださったんだから、素直に受け取るべきだ。
その方が絶対に喜んで貰える。
「こ、光栄です。お役に立ててよかったです」
だから、お気持ちを酌んだつもりで応じた。
そうしたら主任はもっと笑ってくれた。
「次も頼むぞ、小坂」
「はいっ」
頼むぞ、だって。うれしい。
気を遣ってくれたんだってわかっているけど、それでもうれしい。私、主任に頼まれたいし、頼りにされたい。
「よしよし」
満足げに頷いた主任が、そこで話題を変えた。
「……ところで、これからどうするかだが」
エスカレーター乗り場まで歩いてきてから、ちらと腕時計を見る仕種をする。主任は左の手首に時計をしている為、私の手まで操り人形みたいに一緒に持ち上がった。
まだ手を繋いでいた。
まだ、慣れない。どきどきしている。
「さすがの小坂でも、まだ夕飯には早いよな」
私の胸中を知ってか知らずでか、主任はからかうような言葉を掛けてくるけど。
「……さすがの、ってどういう意味ですか」
問いには答えず、主任は私にも時計を見せてくれた。
時刻は午後四時少し前、確かに夕飯には早過ぎる。
それにしても『さすがの』って一言は若干引っ掛かった。別に食いしん坊だからと言って早めにご飯を食べたがる訳じゃない。主任に食いしん坊と思われていること自体は、もう否定しないと言うより、諦めました。到底払拭出来そうにないから。
「散々歩かせたし、腹減ってないかと思ってな」
そう言いつつ、主任はにやにやしている。どうしてかわからないけど、ものすごくうれしそうだ。
私も言いたいことはいくつかあった。あったけど、あえて拗ねたくなる気持ちを追いやることにした。そういうのは子どもっぽい。
その上で答える。
「お腹は空いてないです。主任のご用件はこれでお済みなんですか?」
「一応な、建前上は」
肩を竦める主任。建前って何のことだろう。
「それより、お前はここで見たいものとかないのか?」
「私ですか?」
「ああ。もし買い物があるなら付き合うぞ。俺も付き合ってもらったんだし」
水を向けられて、ひとまず考えてみる。でも私の場合、百貨店で買い物をすることがあまりない。新入社員のお給料では、こういうところは敷居が高かったりする。
それに、私の愚にもつかない買い物に主任を付き合わせるというのも悪い気がする。いつも『藍子の買い物は、何も買わない時でも随分長いな』なんてお父さんにも言われているし――私としては、ウインドウショッピングを楽しむのにせかせかするのもどうかと思うんだけど。
「私は特にないです。主任こそ、他に何かご用はないんですか」
「いや、俺も特には」
かぶりを振ってから、主任は私の顔を見た。間を置かずに告げてくる。
「それじゃ、適当に散歩でもするか。疲れてないよな?」
「はい、大丈夫です」
私としては、主任と一緒にいられたらそれでよかった。
きっとのんびり歩くだけでも幸せに違いない。
それに手を繋いでいるから、歩いているだけでも十分どきどきするに違いない。これ以上の活動的なことはきっと、出来ない。散歩という穏やかな選択がとてもありがたかった。
他にも出来ることがあったらいいのに、とも思うけど。手を繋いでもらっているだけじゃなくて、もっと他にもお役に立てるような、喜んでもらえるようなことが出来たらいいのに。
とりあえずは聞き返してみた。
「主任は、お疲れではありませんか?」
「ちっとも。満喫させてもらってるよ」
実際、疲労のかけらも見せない表情で主任が笑う。
「お前といると面白くて疲れてる暇もない。心配してくれてありがとな」
それはとても大人っぽい感謝だと感じた。
向けられた笑顔の素敵さにもどぎまぎしつつ、私もこんなふうになれたらなと思う。
もっと大人になりたいな。
そしたら、主任の為に出来ることも、主任の為に告げられる言葉も、もっとたくさん増えるんじゃないだろうか。
現実にはしたくても出来ない、言いたくても言えないことばかりだから、余計に思う。




