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現実家と夢想家(5)

 社員食堂の一角には、食券の販売機や、ジュースの自動販売機が並んでいる。

 石田主任が選んだのは、紙コップのドリンクが買えるタイプの自販機だった。


「あ、わ、私が払いますから!」

「もう遅い。金を出すのも早い者勝ちだ」

 主任が自販機に硬貨を投入した瞬間、私は出遅れを悟った。慌ててお財布を取り出した時には、一人前の紙コップ入りコーヒーがテーブルの上にあった。

「小坂は何飲む?」

 さも当然のように問う主任。私は財布を握り締める。

「自分で買います、申し訳ないです」

「駄目だ。とっとと言え、言わないとデタラメな注文をするぞ」

 自販機に対して出来るデタラメな注文ってどんなのだろう。そこも実はかなり気になってしまったけど、飲み物で冒険する気にはなれない。

 結局、恐縮しながらアイスココアをお願いした。


 アイスココアの紙コップをいただいてからも、往生際悪く言ってみる。

「あの、代金を……」

「いいって。百円も出さない上司とは思われたくない」

 きっぱり押し留められた後、更に言われた。

「お前も学習しない奴だな」

 素直に奢っていただく方が礼儀に適う場合もある――そのことを忘れてしまった訳ではない。でもお金のこととなるとやっぱり、どうしても遠慮したくなる。百円のコーヒーくらい、たまには、私に持たせてくれてもいいのに。

 誘ったのは私の方だから余計に思う。今回くらいはと。

 ちらと視線を上げれば、主任はさっさと近くの席に着いていた。しかもすぐ隣の椅子を引いてくれた。またしても出遅れだ。

「ありがとうございます」

 私はひとまずお礼を言い、それから椅子に腰を下ろす。

 言い訳を後に続けた。

「主任のご厚意を無駄にしたい訳ではないんです。でも、一度くらいは私も日頃の感謝を示したいと思っていますし、たまには――」

「しつこい。いいからお前は金以外のものを出せ」

 すぐ横から見下ろされる視線にどぎまぎする。頭一つ分は高い肩の位置、その上にある苦笑いの表情が見える。向かい合わせに座るより、隣同士の方が、距離的には近いらしい。

「お金以外って言いますと」

「そのくらいは小坂でもわかるだろ?」

「ええと……」

 何だろう。私は少し考えてから、恐る恐る尋ねる。

「例えば、メールとか、ですか?」

 自信は半々と言った程度だったけど、石田主任ならそんなふうに言うんじゃないかなとも思った。

「そうだったな。メールもだ」

 むしろ思い出したみたいな言い方で主任が応じる。

 コーヒーを一口飲んでから、言葉が続いた。

「百円ぽっちでしつこく食い下がるくらいなら、俺の喜ぶことをすればいい。簡単な話だろうが」

 私はアイスココアの水面を見下ろす。微かに細波立っている。

 そう言ったからには、主任は私とのメール交換を、多少なりとも楽しいと思ってくれているんだろう。それで百円も奢っていただくのは悪い気もしたけど、私も学習能力が皆無だとは思われたくない。感謝の気持ちを胸に、答えた。

「では、私の方からもメールします。なるべく近いうちに」

「わかればよろしい」

 満足げに主任が笑う。

 とびきりの笑顔もその心遣いも、ものすごくうれしいし、好きだなと思う。

 私も、石田主任みたいな人になりたい。そう思って、もう一度お礼を言う。

「ありがとうございます、主任」

 ココアをご馳走してくれたことと、それから優しい気持ちにも感謝していた。こうして社員食堂まで、一緒に来てくれたことにも。

 口をつけたココアは、仕事の後にはぴったりな甘さだった。


 だだっ広い夜の社員食堂を、主任と二人占めしている。

 点いている明かりは四分の一だけだ。食堂の奥の方や、カウンターの向こうにある厨房は真っ暗で、見慣れた光景が不思議に映る。厨房の大きなお鍋が鈍く光っている様子とか、食器やトレーがきれいに積み重ねられている様子とか、月明かりが差し込んでいる窓とか――子どもの頃に好きだった、夜の美術館の歌に似ている。そのうちひとりでに動き出しそうだ。

 不思議と言うなら、終業後なのに社内に留まっている私もそうだ。勢いで主任を誘ってしまったものの、よくもあんな大それたことが言えたなと首を傾げたくなった。デートの誘いに比べたら、社員食堂なんてハードルも低いものだろうけど、はっきりと言葉にして誘ってみたのは今回が初めてだった。

 いつか、ちゃんとしたデートに誘えないかな。

 主任に喜んでもらえるような、それでいて主任の迷惑にはならないような、お休みの日のデート。

 理想としては主任の好きな場所を聞いて、そこを楽しんでもらいつつ、私は二人きりの時間を楽しむという、お互いに利のあるデートがいい。無理して付き合ってもらう訳ではなくて、主任の行きたい場所へ私も、お邪魔にならない程度に同伴に与る感じで。ちょうど今みたいな。

 コーヒーを味わっている横顔を、私はこっそり盗み見ている。主任は飲みたかったコーヒーが飲めて、私は主任と一緒にいられて、お互いに利のある時間のはずだ。


「しかし、羨ましい連中だよ」

 紙コップを傾けつつ、主任は静かに呟く。

「霧島たちほど平和的に社内恋愛やってる人間も見たことないな。いい歳した大人が、何のいざこざもなくほのぼのお付き合いしてるんだから穏やかなもんだ」

 エレベーターホールでの一幕を見ていた私は、その言葉に心底同意出来た。

「喧嘩なんて絶対しなさそうですよね」

「実際、したことないんじゃないか。少なくとも俺は聞いてない」

「そうなんですか。すごいなあ……」

 霧島さんと長谷さんの関係はまさに平和的という単語がしっくりくる。

 喧嘩しているお二人なんてやっぱり想像つかない。お付き合いを続けていく上でいざこざを全く起こさずに済んでいるなら、それは素晴らしいことだと思う。お互いに想い合っているからこそ成り立つ関係だ。

「憧れちゃいますよね」

 つい先程のどきどきがよみがえってきて、私は思わず息をつく。

 だけど直後、主任が鼻を鳴らした。

「憧れるか? いい歳した男が、何年も付き合ってる彼女を未だに名字にさん付けで呼ぶとか、俺はどうかと思うがな」

「素敵ですよ。こう、大切にしている感じがして」

 私はすかさず異を唱える。

 霧島さんが長谷さんのことを『長谷さん』と呼ぶのは、いかにも霧島さんらしくていいなと思う。確かに、お付き合いをしている同士なら珍しいような気もするけど、おかしいと言うほどではない。

「大切にしてるって言うなら尚更、とっとと名前で呼んでやればいいのに」

 主任の物言いは、何が何でも文句をつけなきゃ気が済まないみたいに聞こえた。霧島さんはこの場にいないのに、霧島さんをからかう時と同じ口調をしている。

「そしてとっとと結婚すりゃいいんだ。時間掛け過ぎなんだって、あいつは」

 でもあのお二人なら、いずれは結婚するんだろうなと思えてくる。相手のいる日々が、生き方が、本当に自然だという感じに見えたから。それにいざ結婚したらしたで、主任は霧島さんのことを大いにからかって、あれこれ文句をつけるそぶりでちょっかいを掛けるに決まっている。そう考えたら少し笑えてきた。

 だからつい、突っ込んでみた。

「でも、さっきは羨ましいっておっしゃいましたよね、主任」

 間髪入れず、主任がじろっとこちらを睨んだ。

 呻くような言葉が後に聞こえた。

「小坂も言うようになったな」

 ぎくりとした。

「す、すみません、今のは調子に乗った発言でした」

 私は大慌てで謝る。出過ぎたふるまいだったかもしれない。

 でも、それを制するように主任は表情を解いて、

「別に怒った訳じゃない。事実そう言ったし、羨ましいのも本当だ」

 その言葉通り、気分を害した様子もないようだった。

 ほっとした途端、感謝が口をついて出た。

「あ……ありがとうございます!」

「何でそこで礼を言う?」

「いえ、お気持ちがうれしくって……」

「はあ?」

 怪訝な面持ちでいる主任。私は身を竦めつつ、うれしさを密かに噛み締めている。


 石田主任にツッコミを入れてしまった。

 しかもそのことを許してもらえた。

 うれしい。何だか、ほんのちょっとだけでも近づけたような気がしてくる。気のせいかな。でも気のせいだとしても、こういう会話もいいなあ。こういうやり取りをもう少し、気負わず、自然に出来るようになりたいな。

 ――こんなことで喜んでいるうちはデートなんて夢のまた夢かもしれないけど、さておき。


 主任がまだ不思議そうにしていたので、話を戻すことにした。

「あの、やっぱり主任も、霧島さんたちのことが羨ましいって思うんですね」

「そりゃそうだ」

 どこか呆れたように笑ってから、主任が続ける。

「始終目の前で見せつけられて、どうでもいいなんてスルー出来る訳ないだろ。そりゃ思うよ、長谷さんみたいな彼女が欲しい、とかな」

「ですよね。長谷さん、素敵ですもん」

 私が同意を示せば、今度は深い溜息が聞こえた。

「もったいないよなあ。何で霧島なんだろうな」

 さすがにそれには同意出来ない。

 お二人はお似合いだと思う。もちろん石田主任のことだから、どこまで本気で言っているのかはわからないけど、内心では案外認めているような気がする。違うかな。

 それとも、主任も長谷さんみたいに、きれいで笑顔の素敵な人が好きなのかな。そういう意味での羨ましい、なのかもしれない。

 隣に座る横顔を、私はこっそり眺めていた。

 以前、好みのタイプを聞いた時にはものすごく悩まれてしまったけど、主任も長谷さんみたいな人が好きだったりするのかな、と思う。むしろ、長谷さんみたいな人を好きじゃない男の人なんているんだろうか。と言ったら霧島さんを不安がらせるだけだから、もちろん黙っているけど。

 こっそりしていても視線に気づかれたのか、鋭い眼差しがこちらを向いた。

 目を逸らすより早く、主任の唇が動いてこう言った。

「俺は、もうちょい年下の方がいいけどな」

「え!?」

 思わず声が出た。途端、主任はにやっと笑う。

「――今、ちょっと動揺しただろ?」


 いえ、ちょっとなんてレベルではありません。

 それはもう大変な騒ぎでした。

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