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現実家と夢想家(4)

 ふらつく足で、なるべく静かに階段を目指した。

 階段の場所はわかっていた。営業課のすぐ目の前にあるから、狼狽している今の状態でも辿り着けるだろうと思った。

 こめかみ辺りがどくどく言っていて、呼吸も荒い。それ以上にほっぺたがのぼせたように熱かった。いけないことをしてしまった罪悪感よりも強く、羨望の気持ちが湧き起こっていた。


 霧島さんと長谷さんは素敵だ。

 大人の恋愛をしているんだと思った。お互いのことを思い合い、労わり合って、照れもためらいもなく温かい言葉を掛けていた。そういう関係が羨ましかったし、ストレートに愛の言葉を口にするよりもずっと大人っぽいと思えた。相手の仕事とか、生活とか、あるいは人生そのものに、既に深くかかわり、影響しているんだとうかがえるようなやりとりだった。

 お二人の間の空気に、私はすっかりあてられてしまっていた。頭のてっぺんから足の爪先までふらふらしていた。それでも足音を忍ばせることは出来たと思う。

 廊下の壁が途切れ、階段が見えてきた時、無性にほっとした。


 そうして階段を駆け下りようと、手すりに手を掛けた瞬間だった。

 ちょうど傍にある営業課オフィスのドアが開いたのがわかった。びっくりした。

「小坂? お前、まだ帰ってなかったのか」

「しゅ……主任っ」

 声を掛けてきたのが石田主任で、更にびっくりした。

 振り返った途端にいつもの素敵な笑顔が見えた。いつ見ても格好いい顔には違いないのだろうけど、今は霧島さんたちの様子を見てきた直後だけに、いつも以上にどぎまぎしてしまった。

「どどど、どうかなさったんですか」

 口を開けば舌がもつれた。しかも何を聞こうとしたのか自分でもわからなくなっていた。

 主任もわからなかったんだろう。営業課のドアを後ろ手で閉めてから、片眉を上げて問い返してくる。

「どうかなさったって、何がだよ。お前こそどうした、そんなに慌てて」

「い、いえ別にっ! ちっとも慌ててなんかないです!」

「慌ててるようにしか見えない」

 主任がふっと苦笑する。

 私は手すりの上に手を置いたまま、ひとまず慎重に息を吐き出した。それから尋ねた。

「あの、主任は……どちらに行かれるんですか?」

 声が震えた。

「ちょっと社食まで。コーヒーが飲みたくなってな」

 答えを聞いてことさらに動揺する。社員食堂は社屋の五階にある。賄いの皆さんの勤務が終わった後も自販機は稼動しているから、利用すること自体は可能だった。

 ただ、ここは三階だ。五階へ向かうには当然の如く、エレベーターか階段を利用する必要がある。

「小坂は帰るところなんだろ? 途中まで一緒に行くか」

 ごく軽い口調で誘われた。だから私は思い切り頷いて、

「はい! あの、せっかくですから階段で行きましょう!」

「階段?」

 たちまち主任がしかめっつらになる。

「階段だと一緒には行けないだろ、何言ってんだ。俺は社食に行くんだし、お前は通用口に行くんじゃないのか?」

「そ、そうでした……ええと」

 馬鹿なことを言ってしまった。階段の使用を促すにしても、もう少し言葉を選んでおくべきだった。これでは主任の誘いを遠回しに拒んだように聞こえてしまう。

 事実、主任はそういうふうに受け取ったらしい。明らかに気分を害した態度で言われた。

「別に、無理に誘うつもりはないからな。気が乗らないならそう言えよ、どうせ大した距離を歩く訳でもないし」

「違うんです、あのっ」

 言葉から察しても、主任はエレベーターを使うつもりでいたんだろう。

 と言うことは、私が階段を使おうが使わなかろうが、主任はエレベーターホールへと向かってしまう。霧島さんと長谷さんがまだいるはずのエレベーター前へ。

 正直に告げるべきだと思った。

「じ、実はその」

 私は声を潜めた。

「どうした? さっきから様子が変だぞ、小坂」

 訝しそうな顔の主任が、それでもこちらへ歩み寄ってきてくれた。階段の傍まで来てから、身を屈めるようにして私の話を聞こうとしてくれた。

 それで、恐る恐る告げた。

「エレベーターは、つ、使わない方がいいと思うんです」

「……何で?」

「だって、その、霧島さんが」

「あいつがどうしたって?」

「長谷さんと一緒に、二人で、エレベーターホールにいるんです」

 そこまで告げると、主任は私の顔をまじまじと見た。至近距離だったので別の意味でうろたえたくなった。でも主任の表情には狼狽や動揺の色はなく、はっきりとわかるほど好奇心一色だった。

「あいつら、あんなところで何やってんだ? いちゃついてたのか?」

「ちち、違いますよ多分っ」

 自信はないけど、そういうことではないと思う。

 そういう単純な話とは違う。ただアベックがべたべたしているのとは訳が違う。霧島さんと長谷さんは大人の恋愛をしているのだと思う。思い合い労わり合う温かい関係。羨ましい。

「じゃあ何してた? とても口では言えないようなことか」

「そういうことでもないですっ! あの、お話を……」

 顕著にたどたどしくなる言葉。目を丸くされた。

「話?」

「二人でお話をしていました。こう、すごく温かい感じで」

「……それだけ?」

 なぜか、主任が露骨にがっかりしている。

 私も大慌てで語を継いだ。

「それだけじゃないです、何と形容していいのかわからないんですけど、超見つめ合ってるって感じだったんです!」

「見つめ合ってるだけ?」

「え、だけって言うか……事実としてはそうなんですけど……」

 説明の仕方が悪かったんだろうか。主任が特に狼狽も動揺もないそぶりだったので、思わず尋ねてしまった。

「あの、主任はどきどきしませんか?」

「あいつらのことでか? いや、別に」

 平然とかぶりを振られた。

「そ、そうですか」

 今度は私のほうががっかりした。やはり、私の説明がよくなかったのかもしれない。実際に目の当たりにするのとは衝撃の強さも違うだろうし。そう思いつつ結論を述べる。

「とにかくですね、エレベーターホールには霧島さんたちがいますから、迂闊に近づいたら悪いかなと思うんです。邪魔になってしまいますし、目撃した方もこう、あてられてしまう感じですから」

「面倒だな。あいつも場所選べばいいのに」

 舌打ちをしてから、主任はちらと私の顔を見た。そしていかにも楽しいことを思いついたというような表情になる。

 次いでにやっとされた。

「見物に行くか」

 予想外の言葉だったので、頭が反応するまでにタイムラグがあった。

 反応してから声を上げるまでは速かった、ような気もする。

「えっ! い、いや駄目ですよ主任!」

 そんなのは駄目に決まっている。私だってさっきは盗み聞きをしてしまったけど、いけないことだと思ったからあの場を立ち去った。社内のエレベーターホールは公共の場だから恋人同士の語らいの場としては不適切かもしれないけど、ほとんどの社員が退勤してしまっているから大勢に迷惑が掛かる訳でもない。私と主任がそれぞれ階段を使えばいいだけだ。そうすれば霧島さんたちの邪魔をせずに済む。

「小坂にそこまでうろたえられてちゃ、こっちだって気になる。どれだけすごい見つめ合い方をしてるのかと」

 主任は興味津々らしい。意気込むように言われて、私は一層うろたえたくなる。

「だって、どきどきしますよ! 霧島さんの恋愛してる姿って見たことなかったですし」

「ああ、俺は見慣れてるから何とも」

「どきどきしないんですか? ちっとも?」

「ちっともしない。見てて面白いとは思うけどな」

 意外と淡白な反応だった。でもよくよく考えれば、主任が誰かの恋愛を目撃して、どきどきしている姿はあまり想像出来ない。

 主任は誰かの恋愛しているところを見ても、うろたえたり動揺したり、どきどきしたりはしないんだろうか。全くしないんだろうか。例えば恋愛ものの映画やドラマを見て、どきどきすることもないんだろうか。そもそも、主任が恋愛している時って、どんな感じなんだろう。そこまで全て想像がつかない。

 部外者としては絶対に見たくないけど、でも怖いもの見たさで、ちょっとだけ見てみたいような気もする。主任に好きな人がいるなんて事態に、きっと辛いだけだろうけど。

 私がそんな愚にもつかないことを考えている間、主任はエレベーターホールの方向を気にしていた。そしてもう一度、言ってきた。

「小坂、今後の為にも覗きに行こう。勉強になるかもしれない」

「な、何ですか今後の為って! 駄目ですよ!」

「お、珍しいな。お前が上司に逆らうとは」

「いえその、そういうつもりではないんですけど、でも!」

 覗きは駄目。と言うかもう一回見るのも無理だと思う。私の心臓と心拍数が危険。だからエレベーターは使わない。


 でも、ふと思った。

 霧島さんたちはまだ三階にいるだろうか。

 さっきの会話から察するに、長谷さんはお帰りになるところだったのではと思う。霧島さんはまだお仕事があるから、そのお見送りにだけ来ていたんじゃないだろうか。だとすると一緒にエレベーターで降りる可能性も考えられなくはないし、今頃は通用口付近にいるのかもしれない。今の時間、会社の外へ出る為には通用口を通るより他ない。つまり。

 このまま帰ると、鉢合わせの危険もなくはない。

 霧島さんといつも通りに顔を合わせる自信が、今の私にはない。


「――主任! 提案があります!」

 そこまで考えた時、私は主任へと申し出ていた。

「私もお供しますので、このまま階段を上がって、社食でコーヒーを飲むのというのはいかがでしょうか!」

 石田主任は私の顔を、しばらくの間検分するように見ていた。

 だけど何らかの結論が出たのか、やがて笑った。にんまりしていた。

「そういうことなら乗ってやるかな」

「……あ、ありがとうございます!」

「しかし、お前の方から誘ってくるとはそれこそ珍しいな。ようやく両立する気になったのか?」

 そう言われて初めて、私は大それた行動に出てしまった事実に気づいた。

 勢いで言ってしまったにしても後先考えない発言だったかもしれない。主任のことを誘ってしまうなんて、場所が社員食堂で経緯が経緯とは言え、あまりにも大胆だ。いつもこのくらい出来たらいいのに。


 そして階段を五階まで上がり、人気のない社員食堂の明かりを点けた瞬間、その広さと静けさに気後れしたくなった。

 ――やっぱり私、大それたことをしたみたいだ。

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