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教える人と教わる人(6)

 私の心境の変化を見抜いたか、安井課長もふっと明るい表情をした。

「聞き分けのいい子だな、小坂さんは」

「そ、そうでしょうか……」

 子どもみたいな形容をされて、少し照れる。

 課長もどこか安堵した様子で続ける。

「よかった。俺はもう営業課の人間でもないのに、差し出がましいことを言ってと鬱陶しがられるんじゃないか、不安だったんだ」

「そんなことないです!」

 大急ぎでかぶりを振る。

 鬱陶しがるどころか、大変ありがたいお言葉をいただいたと思っている。こうしてお話してもらわなければ、私はずっと気づけないままでいただろう。

 何もかも、一人で背負い込んでいる訳じゃないということを。

「むしろ大変ためになるお言葉でした。ありがとうございました!」

 立ち上がってお礼を述べると、今度は逆に照れたような顔をされた。

「そこまでしなくてもいいよ。小坂さんに頭下げさせたなんて、石田に知れたら大事だ。さっきの話も含めて、あいつには内緒ってことで頼む」

 大事、かなあ。私は内心首を傾げたけど、それももしかすると照れ隠しだったのかもしれない。直後、安井課長が肩を竦めたから。

「もともと俺は、お節介が好きなんだ。だから今回も焼いてみただけだよ」

「お節介だなんて……。ご親切、感謝しています」

「小坂さんはいい子だけど、人を買い被る癖があるな」

 困ったような笑みを見せて、ふうと小さく息をつく。

「ま、いいか。とにかくさっきの話は俺たちだけの秘密だ」

「はい」

「うん、いい子だ。……さて、と」

 もう一息ついてから、課長はまだ立ち上がったままの私に、仕種で座るようにと促してきた。私が従えば、潜めた声で告げてくる。

「実はな、小坂さん」

「はい」

 急にトーンの低くなった会話。私は怪訝に思ったけど、安井課長はそのままで言った。

「俺の用事はまだ済んでない。これからなんだ」

 並んで座る課長を見上げ、思わず瞬きをする。

 用事って何だろう。私に話をする為に、この会議室に誘ってくださった訳ではなかったんだろうか。

 ぽかんとしている間に、まだ潜めた声で言われた。

「小坂さん、霧島のことは知ってるよな? 霧島映、営業課の」

「はい、もちろんです」

 会議室はそれでなくても静かだ。そこに二人で固まって座り、ひそひそと話をしているのも奇妙な感じがした。

「あいつに頼まれた」

 安井課長はその時、にやっとした。

「石田に一泡吹かせる手段があれば、教えて欲しいって」

「……霧島さんがですか?」

 まさかと思った。霧島さんがそんなことを安井課長に頼むなんて、俄かには信じがたい。

 ――あ、だけど、そういえば。この間の飲み会で、霧島さんは主任に……。

「俺としては、どちらの肩も持ちにくいんだけどな」

 と、安井課長は意味深長に笑んでいる。

「でもまあ、霧島のことは長谷さんの件で散々からかってきたけど、石田をからかう機会っていうのはそうなかったしな。面白そうだと思って、いろいろ考えてみたんだ」

「はあ」

 私としては、あんまりそういうことはして欲しくないなと思う。安井課長は主任と仲良しなんだし、主任だって霧島さんとは仲良しなんだから、皆でちゃんと仲良くしていればいいのに。

 そんな思いも空しく、嬉々として語を継がれた。

「で、考えていた折も折、小坂さんと話をする機会に恵まれただろ? 今日、早速試してみようと思った訳だ」

「……そうなんですか」

 訳もなく不安が過ぎる。試すって、何を、どのようにだろう。

「小坂さん。さっきの話だけどな、あれは差し引きゼロにする為のお節介だったんだよ」

 安井課長は言いながら、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。片手で操作を始める。小さな電子音が会議室内にこだまする。

「差し引きって、どういうことですか?」

 恐る恐る尋ねたら、またにやっとされた。

「持ち上げてから落とすってところかな。今にわかるよ、いいもの見せてあげるから」

「いいものって……」

「頼むよ、付き合って。少しの間静かにしててくれる?」

 唇の前に人差し指を立て、もう片方の手で携帯電話を耳元に当てる課長。私は仕方なしに口を閉ざし、ひとまずその動向を見守る。


 隣り合って座っているせいか、電話の向こうの音が微かに聞こえた。

 無機質な呼び出し音が急にふつりと途切れて、繋がる気配がした。

「お疲れ。俺だけど」

 安井課長は、電話の相手に名乗らなかった。だけどごく微かに声がして、何と言ったかは聞き取れなかったのに、誰の声かわかった。

 石田主任だ。短く聞こえた。

「――どうした? 元気ないみたいだな」

 明るく笑う課長。僅かな間の後で話を続ける。

「――そうか。実のところ、俺はその理由を察してる」

 電話の向こうで主任が、呻くような、唸るような声を立てた。言葉ではなく、声だけがわかった。

「――まあな。ここに、小坂さんがいるんだ」

 いきなり名前を呼ばれて、私は驚く。

 安井課長はまた唇に指を立て、静かにと示してきた。その合間に電話越し、声が大きく膨れたような気がした。

「驚いたか?」

 主任へと、課長が尋ねる。

「俺も驚いたよ。まるでこの世の終わりみたいな顔でいたから、つい見かねて声を掛けて、さっきまで慰めていたところだ」

 私のことを話されると恥じ入りたくなる。そんなに酷い顔をしていたんだなあと改めて思う。

「――ん?」

 課長が何かを聞き返した。それで主任の声が、重低音のリズムみたいに響いてきて、課長が笑う。

「――いや、聞いてない。聞けたもんじゃない。落ち込んでて酷いんだ、俺も宥めるので精一杯だ」

 あれ。私のこと、だろうか。

 確かにさっきまでは落ち込んでいたけれど、今は気持ちも切り替えも済んでいる。そんなに酷いというほどでもない。でも、安井課長からはそうは見えないってことなんだろうか。

 何となく、違和感を覚えた。

 その間にも通話は続く。

「お前は? もう上がりか?」

 課長はそう尋ね、早口気味の答えらしきものがあった。

「――そうか。だったら、すぐにでも来てやった方がいい。俺の手には負えない。きっとお前じゃないと駄目だ。帰り支度なんていいからとりあえず早く来い」

 会話の流れが見えない。手に負えないって、まさか私のことでは……ない、はずだけど。だって今はもうそんなに酷くない。

 漏れてくる主任の声はだんだんと大きくなっているような気がする。今は怒鳴るように何か聞こえた。それに課長の言葉が応じる。

「――ああ、そうだったな。いるのは第三会議室だ」

 安井課長が口にした瞬間、言葉もなくぷつんと電話が切れたのがわかった。課長は電話を耳から離し、目を瞠って注視する。

「予想以上の反応だ。これはばれたら相当怒られるか」

 独り言のように呟いてから、ようやく私の方を見る。携帯電話を手にしたままで。

「さ、小坂さん。あいつが何分ですっ飛んでくるか、楽しみにしててくれ」

「え? あ、あの、主任がいらっしゃるんですか?」

 そういう流れだったんだろうか。課長の言葉しか聞こえなかった私には、今の状況がまるでわからない。なのに課長は意味ありげに笑んでいる。

「来るよ。きっと、小坂さんの見たことないような顔で飛んでくるよ」

 私の見たことのない主任。それってどういう意味で、だろう。

 いろんな予感がない交ぜになり、最後には不安だけが残った。


 その不安も数分と続かなかった。

 静かな室内に、ドア越しの足音が聞こえてくる。ばたばた忙しないその音は次第に大きくなり、やがて止むより先に、会議室のドアがどしんと揺れた。

 ドアが勢いよく開いた。

「小坂っ!」

 叫ぶような声に名前を呼ばれ、私は反射的に席を立つ。

「は、はいっ!」

 飛び込んでくるなり私を呼んだ主任は、そのまま戸口で動きを止めた。走ってきたせいか上気した顔がこちらを見る。反射的に直立不動の姿勢を取った私を見ている。表情が張り詰めているのがわかった。

 前髪は風に乱れ、ネクタイは曲がり、呼吸は荒く、忙しなく肩を上下させていた。課長のお言葉通り、すっ飛んできたのかもしれない。

 その主任の顔が、ゆっくり瞬きをした。

 それから荒い呼吸と共に、表情が塗り替えられていく。呆然と声を立ててくる。

「あ……あれ? 小坂、お前、落ち込んでたんじゃ……」

 予想外だという顔。

 私は反応に困り、返事にも迷った。主任がどうしてすっ飛んできてくださったのか、この時、漠然と感づいていた。

 なぜなら、隣の安井課長が、おかしそうに笑い出したから。

「お、三分以内に来たか。飛ばし過ぎじゃないのか、石田」

 課長は携帯電話の画面を見て、そう言った。主任へと向き直り、至って穏やかな口調で続ける。

「しかし部下思いだな、お前。この速さで駆けつけるなんて、まさに上司の鑑だよ」

 安井課長の言葉に、主任の顔がみるみる険しくなる。整い始めた息が深く吐き出されて、後には低い呻きが連なった。

「――安井。お前、引っ掛けやがったな」

「人聞きの悪い」

 芝居がかった調子で課長は応じる。

「半分は嘘じゃなかったんだ。俺は確かに小坂さんを慰めてたよ。な、小坂さん?」

 いきなり水を向けられて、私はびくりとしてしまう。

「え、えっと、それはそうですけど」

 気まずい。

 私も漠然と察していた。つまり、安井課長は石田主任に一泡吹かせるつもりでいたということ。その為に多分、私を利用したのだということ。でも慰めと言うか、励ましていただいたのは事実だということ。つまるところ『差し引きゼロ』の意味合いとは――。

 もしかして私、仕返しの片棒を担いでしまったんだろうか。

「たちの悪い真似して、何のつもりだよ」

 主任は私には構わず、課長へと歩み寄った。その目の前に仁王立ちして、きっと音のするくらいに強く睨む。課長はそれでも落ち着き払ったそぶりで応じた。

「上司と部下の気まずい仲を取り持ってやろうとしたまでだ。気が利くだろ?」

 ポケットから鍵を――この会議室の鍵を取り出し、課長は主任の鼻先で揺らした。

「何だこれ」

 そう尋ねた主任に、穏やかな答えが返る。

「ここの鍵。戻しといてくれればいいから、後は二人でごゆっくりどうぞ」

 主任は無言で、奪うようにそれを受け取った。更に課長を睨んでいる。それでも課長は笑っている。

「もっとも、小坂さんにもいろいろ吹き込んであるからな。あんまりやり過ぎるなよ」

「吹き込むってお前、また何か余計なこと言ったのか!」

「余計どころか、大事なことしか言ってない。例えば、セクハラの被害は人事に相談を、とかな」

 まだ覚えのあるその言葉に、私はぎょっとして、主任は思い切り眉を吊り上げた。

 安井課長はにやにやしながら軽く手を上げ、会議室の戸口へと向かう。

 廊下へ出、ドアを閉める直前に言われた。

「小坂さん、さっきの話、内緒だよ。俺と君だけの秘密だ」

「え、あの、わ、わかりました!」

 私が答えるとドアは静かに閉ざされ、足音がこつこつ遠ざかる。

 それが聞こえるか聞こえなくなるかのうちに、主任に言われた。

「秘密って何だ、小坂」

「ええと……言えないです、すみません」

 二重の意味で。安井課長との約束でもあるし、主任についての話でもあるから、言えない。

 私の答えに石田主任は、ありありと不満の色を見せた。舌打ち交じりに呟く。

「安井の奴、意味深な言い方しやがって。何が『俺と君だけの秘密』だよ」

 それでも問い詰めてくるということはなく、やがて私の隣に椅子を引き、どっかと座った。こちらを振り向き、険しい表情のまま口を開く。

「お前も座れ、とりあえず」

「はい、そ、そうします」

 促され、私も諾々と従う。隣に並び、すぐに告げた。

「あの、主任、すみません。飛んできていただく結果になってしまいまして」

「言うな」

 主任には、苦々しげに遮られた。手を乱れた前髪に差し込んで、かき上げながら呻く。

「今の俺、ものすごく格好悪いな。安井にしてやられた」

 そんなことないです、とは今の立場上言いにくく、心の中でだけ唱えておいた。

 主任はいつだって格好いいです。本当に。


 会議室に静寂が戻ってくる。

 隣にいる人の、まだ少しだけ乱れた呼吸が聞こえてくる。

 実感していた。一緒にいるのが石田主任だと、緊張の具体的内容がやはり違った。

 それだけに、言うべきことをどう切り出すか、少しだけ迷ってもいた。

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