第二十四話「兄妹と、義兄妹」
6号館の屋上は昼間であれば自由に上がれるようになっている。
此処は生徒達が時間潰しをしたり、昼食を食べたりする場所となっていた。
落下防止の為にかなり高いフェンスが並んでいる為、危険な事件が今まで一度も起きたということは一度もない。
此処なら…と思い、俺は再び黙ったままの三宅君と向かい合った。
「……すいませんで済むとは思っていません。俺は……あいつを止められなかった」
「あいつ?」
静かな怒りを見せる俺のトーンは余程怖かったのだろう。
確かに、周囲の仲間には俺みたいなタイプが怒ると怖いだろうなと口癖のように言われてきた。
案の定、三宅君は今にも泣き出しそうなくらい顔を歪めて震える唇をゆっくりと紡いでいる。
「……正直に話します。俺は一人暮らしする金が無かったので、高校卒業からバイトしてシェアハウスで親友と同居しています。御堂って奴なんですけど……そいつが雪ちゃんを」
「…………」
やっぱり――という気持ちと、彼から正直に言葉が聞けたことに少しだけ安堵する。
俺が目を伏せたことで更に恐れたのか、三宅君は何かに急き立てられるように言葉を捲し立ててきた。
「で、でも俺が悪いんです……買い物をしていた雪ちゃんを、雪ちゃんが目の前で倒れて、何でかわかんないけど、俺…自分で助けたいって思って…それで家に」
「事情は分かった。父さんは俺にそのことを一切言ってこなかった。それがどういうことか分かるか?」
「え……」
「愛娘が記憶を失って、拒絶されて、元に戻るか分からないという恐怖に怯えた父さんと、母さん。恋人が俺のことを忘れてしまったこと――お前に分かるか?この気持ちが」
「…………」
彼はもう言葉を話すことさえ出来ないでいた。唇を噛みしめたままただ項垂れている。
ただ、彼が右手に巻いている僅かに血が滲んでいる痛々しい包帯は何かを表していた。
テニスのラケットを握る彼が、利き手を犠牲にしてまで何をしたのか、弘樹でもそれくらい薄々感じていた。
「俺は、三宅君が、あれ以上雪に被害が及ばないように何かその同居人に制裁を加えてくれたと信じている――」
「先輩……」
「でもな、それとこれとは別で。――歯、食いしばれよ」
俺はふっと笑みを浮かべ、初めて他人の襟首を掴みあげた。勿論…と覚悟を決めた三宅君はぎゅっと眸を閉じて唇を噛みしめている。
頬を殴りつける鈍い音が、嫌味なくらい済んだ青空の中に溶けて消えた。
襟首を掴んでいた手がするりと外れ、彼の身体はどさりとコンクリートの上に打ち付けられた。
――初めて人を初めて殴ったことに対する罪悪感はない。
……寧ろ、これだけで制裁が済んだと思ってもらえたらそれでいい。
俺の分と、雪の分。
怒りの制裁は、端麗な三宅君の左頬を赤く腫れさせていた。
俺も人を殴ったことなんて一度もないから、全く加減が分からなかったので殴った後に反動で来たビリビリと痛む手を左手で擦る。
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テニス愛好会に顔を出した三宅は、右手の件で暫くサークルに来れないことを部長の御岳に伝えていた。
その横で練習をしていた法学部の4年生の三好は目ざとく左頬にガーゼを当てて、右手を包帯でぐるぐる巻きにしている三宅を見つけて近づいて来る。
「ちょっと、三宅君、その頬どうしたの?」
「いや、何でも無いっす。ちょっと……」
「へぇ。喧嘩?」
肉食女子の彼女はラケットを持ったままニヤリと目を細めてきた。
厄介な奴に見つかったなと三宅は顔を背けながら関係ないでしょと小さく呟く。
しかし食いついて来る三好は邪慳にしないで、と三宅の腕に絡みついて来た。
「あのさぁ先輩……ちょっと腕」
「――弘樹君と何かあったでしょ?ちょっと噂になってんのよね。薬剤部のイケメン王子が人を殴ったって」
俺は彼女達法学部の情報網の速さに目を丸くした。一体どこからそんな話が漏れるんだ?
大体、先ほどのことだ制裁を食らったのは。この数時間の間に、一体……
言葉を失って呆然と佇んでいる三宅の横で、彼女は背伸びをして耳元で囁いてきた。
「……女の奪い合いでしょう?弘樹君の好きな人って誰だったの?」
「そんなの、先輩に関係ないでしょうっ……俺は腕が落ち着くまではちょっと休みますんで……失礼します」
無理矢理三好の腕を振り払い、テニスコートを後にする。
元々勝ち目の無い戦いに勝手に介入したのに、それを第三者から改めて言われると腹が立つ。
くそっと心の裡で舌打ちをしてふっと第3校舎の方を見やると、そこに雪ちゃんと雨宮先輩が仲良く腕を組んで歩いている姿が見えた。
何を話しているのか分からないが、数日前の雪ちゃんと明らかに雰囲気が違う。
――あぁ、そうか……
空しさに涙が出そうになった。
少しでも雪ちゃんに振り向いて欲しくて行動を起こしたのに、結果としてその行動があの二人の仲をさらに深めたのだ。
御堂がやってしまったことも、それを止められなかった俺も、雪ちゃん達に訴えを起こされたら勿論即退学で、警察沙汰になるところだったのに。
あの二人は、すべて収まったから何も言わずにこうして事件を”無かったこと”にしているのだ。
雨宮家族の、そのありえない程の優しさに、三宅は眸から伝い落ちる涙を乱暴に拭うと、彼らとは正反対方向へ足を向けた。
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「いよいよ明日だね」
「4年の締めくくりみたいなものだからな。皆でずっとやってきたことが漸く報われる」
論文発表会までの約1年間は本当に長かった。
殆ど大学での単位というものは無いにせよ、教授には何度も論文を突き返され、実習に行かせてもらい症例を実際に自分達の目でみてきて根拠づける。
また、他のメンバーは海外研修に行って先進国のデータを根こそぎ集めている者もいた。
乗り継ぎのバスを待っていると、遠くから黒のジャケットに同じく黒のパンツ姿の見知った顔が近づいてきた。
「――あ、雪ちゃん」
「あっ。マイちゃん!」
俺と雪を見つけて微笑む麻衣ちゃんは久しぶりね、と言いにこりと微笑んだ。
短大に通っている彼女がこの近辺にいるのは珍しい。
買い物?と尋ねるとぶんぶんと首を左右に振っていた。
「……あー成程」
俺は麻衣ちゃんがわざわざこの辺りまで出向く理由――それに気づいて少しだけ口元を緩ませた。
確か、この裏の建物の解体作業と、新しいマンションを建てるとかでとある建設会社が介入しているはずだった。
「田畑は元気?」
「う、うん……元気、元気」
麻衣の眸が途端にしどろもどろになり、手の後ろにさっと何かを隠していた。
「マイちゃん?」
「あ、あぁ……ごめんね、ちょっと…用事」
麻衣はそのまま横歩きをしながら俺達の視線を避けるように建設現場の方に向かっていった。
そそくさと去っていく彼女の様子に、雪の頭にはクエスチョンマークが大量に浮かんでいる。
「マイちゃん、どうしたんだろ?」
「――恋人へ差し入れだって」
「……あ、そっか」
その一言で理解するようになったということは、雪も随分と大人になったらしい。
今までだったら天然炸裂で麻衣ちゃんに根ほり葉ほり色々なことを聞いていただろう。
パタパタと去っていく後ろ姿を見送りながら雪は嬉しそうに俺の腕に抱き着いてきた。
「忍ちゃんと、上手く行ってるんだね?マイちゃん」
「そうだといいな」
俺も他人事とは思えない。
田畑のところは兄妹。
俺のところは義妹。
血の繋がりにおいては田畑の方が抱える問題点は遥かに山積みだ。
今この腕に抱き着いている雪は、いつまで俺のことを大好きだと言ってくれるのだろう。
俺は雪以外の女性を好きになったことが無いから、これが恋とか、愛とか――そういうものなのかよく解らない。
ただ幼い頃からずっと一緒に育ってきて、その延長線上のお付き合いが恋愛に発展しただけなのかも知れないと錯覚してしまう。
「ひろちゃん?」
俺の不安に揺れる眸に気付いた雪も、どことなく寂しそうな顔をしていた。
無言のまま俺の手を掴み、指と指を絡ませて恋人手つなぎをする。
「明日、ユキ応援に行くね」
「――あぁ。最優秀賞取ったら、雪に言いたいことがあるから待ってろよ」
「ええー?ひろちゃん、ハードル高いよ。もし賞が取れなくても言ってね?気になるから」
「それじゃ格好つかないだろ。ま、明日のお楽しみだ」
少しだけ不貞腐れた雪の手を更に力強く握りながら、俺達はゆっくりと家への道を辿る。




