第十一話「波乱の幕開け」
「弘樹、携帯無くしたの?」
「うん……それが覚えてなくて」
俺は朝から論文発表の最終纏めに入る為、いつものように図書室の一角を陣取って作業をしていた。
遅れてやってきた森田と田嶋がマジか、とご愁傷様と言ってくる。
他の仲間達のように俺は携帯電話を殆ど使うことが無いので、困るとしたら大量の雪の写真と、連絡帳に入っている友人達のデータが抜き取られたら困るということくらいか。
今日帰ったら被害届けでも出しに行こう。そう思いながら発表原稿を纏める為にパソコンに向かい合う。
「おはよう」
司書に睨まれると怖いので、俺達の席に寺内さんと嶋さんが静かな声でやってくる。
俺は目線だけそちらに向けて頭を下げると、嶋さんがポケットから苦笑しながらスカイブルーの携帯を取り出した。
「弘樹君、これ忘れたでしょう?妹さんを呼ぶのに私に貸してくれてそのまーんま」
「あ……ごめん、嶋さんが預かっててくれたんだ。本当ごめん。俺酔っ払って忘れてたんだね」
「あんなにぼんやりした弘樹君初めてみた。ある意味レア?」
苦笑しながらパソコンに視線を戻す。たった4杯のハイボールでいつもであれば潰れるわけがない。
疲れが溜まっていたことと、雪とすれ違いがあったことが気がかりであまり眠れていなかったのもある。
やはり一つ屋根の下で暮らしているというのに、互いの気持ちがすり合わないのは苦しい……
俺が原稿の纏めに集中していると、テーブルの上に両肘をついて頬を押さえている寺内さんが不満そうな顔で俺を睨み付けていた。
しまいには、その長い脚でこつんと俺の脛を軽く蹴ってくる。
何?と思い寺内さんの顔を見つめると、彼女は目線だけを嶋さんの方に向けていた。
誘導されるように視線を嶋さんの方に動かすと、彼女は少しだけしょんぼりしているように見えた。
「弘樹さぁ、介抱してもらったんでしょ?由紀奈にお礼とか無いわけ~?」
「お前さー、昨日勝手に由紀奈をタクシーに突っ込んだだろ、それにお礼も……」
「森田は黙ってて」
部外者は口を挟むなと言いた気な寺内さんの様子に、森田も大人しく口を噤む。
まだ項垂れたまま動かない由紀奈の肩をぽんと叩き、ほら言いなよと促している。
「こ……今度は、田嶋君も都合いい時に…5人で打ち上げしようね……?」
精一杯紡がれた言葉はそれだった。
想像と違う答えに、寺内ははぁ~と大きなため息をついて天を仰いでいる。
俺は勿論、と笑みを返し、再び論文の作業に入った。
――彼女の、僅かに抱いている恋心になんて、俺は全く気付いていなかったんだ……。
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「あ~疲れた。後は論文各自で読み進めて、質問対策と、俺ら5班にだよな?質問」
「うん。俺も出来るだけ考えてくる」
「頼むわよ~弘樹が発表だからみんな真剣に聞いてるだろうし、結構エグい質問来るんだよねえ」
「裏付けは任せておいて」
俺は論文のデータにおいて確実な検証データを大量に持っている。問題は、発表の時にそのデータを覚えきれるかと言う点だ。
4年生の節目となる論文発表会。各地域からもお偉い方は集まるし、自由に出入りできる環境となっているので、同じ志を持つ仲間達があちこちから集まってくる。
毎年満員御礼で外から見ている人もいるというくらい。そして大学独自に設けている最優秀論文賞に輝くと、賞金とトロフィーが渡される。
「スタバ行きたい。森田行こう」
「みんなはどうする?」
田嶋はまたこっそりと用事が…と言い早めに帰っていった。どこの大学の彼女と付き合っているのだろう。
寺内さんは森田の腕を引っ張り、スタバの新作が飲みたいと言い、二人で出かけていく。
去り際にこちらに向けた視線が少しだけ気になったけど、俺は何だろうね?と隣に並ぶ嶋さんを見つめた。
「……俺、今日はサークル行って来る。また論文の方になったらいけないかも知れないし」
「じゃあ、途中まで一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
俺と嶋さんは並んで歩きながら論文のことについて語り合っていた。
嶋さんは意外なことに、俺と同じくアーサー博士を崇拝している。彼が書いたエッセイについて話をすると嬉しそうに微笑みながら食いついて来た。
俺が研究している分野は将来役立ちそうな内容なのだが、ちょっと癖の強いものなのであまり同じ志の人には巡り合えない。
「あ~嶋さんごめんね、昨日俺酷い醜態見せたみたいで……」
朝返してもらった携帯電話のことを思い出し、俺は頭をぽりぽり掻きながら唐突にそう切り返した。
嶋さんは少し驚いたように目を丸くしていたが、瞬間その表情は柔らかい笑顔に変わる。
「いいのに。だって真面目で一生懸命な弘樹君も、ちゃんと人間なんだなって思った」
「何だよそれ……俺は別に堅物じゃないよ」
「ふふっ。役得だったな~。妹さんが、本当…羨ましい――……」
最後の方の語尾に込められた、軽い羨望と嫉妬。
嶋さんは大人しいけど、優しくて美人なタイプの女性で、雪に嫉妬する程見栄えが悪いとは到底思えない。
しかも、俺の介抱をして役得?女の子の気持ちがよく解らない……
「雪も俺を抱えて2階まで行ったから重い重いって嘆いていたよ。次田嶋交えて飲み会する時は醜態曝しません」
「えぇ、いいのに……」
ははっと笑いながら俺はテニス愛好会のコートに向かうと、雪と三宅君が楽しそうに打ち合いをしている様子が見えた。
雪は俺以外にも可愛い笑顔を向けるようになった。――それは、塞ぎ込んでいた感情が豊かになったという意味では、家族として、兄としてはとても喜ばしいことだ。
けれども――……
俺はぎゅっと拳を握る手に力を込めた。最低な独占欲だ……雪は、あと大学最低3年はあるんだ。
彼氏になったからと言って醜い嫉妬心をむき出しにして、折角雪が楽しくやっているテニスを潰す理由なんてどこにもない。
俺が入口の前で立ち止まっている様子を見た嶋さんがちらりと横から二人の打ち合いしている様子を覗き込む。続いて俺の表情を見つめる。
するりと温かい手が俺の腕を引っ張った。
「嶋さ――」
少し背伸びをした彼女が俺の唇を塞ぐ。
驚愕に俺は言葉を失った。え、どうして嶋さんが――?
一瞬触れるだけだったそれは、すぐに離れた。頬を赤らめている嶋さんはそれ以上何も言わずに脱兎の如く走り去ってしまう。
残された俺は唖然としながらその様子を見つめていたが、背後からかかった揶揄めいた声ですぐさま現実に戻される。
「おぉ~!弘樹やるなぁ。あれ、4年の嶋だろ?今論文一緒のチームだっけ?」
「いいなぁ!嶋さんミステリアス系美女じゃん。お前らお似合いだわ」
ニヤニヤしながら肩をばしばし仲間達に叩かれるが俺の心境は複雑そのものだった。
たかがキスと思うが、女性からしてみたらそうではないらしい……
俺は魔がさしたんだと思うよ、と適当にはぐらかしていると、遠くのコートで練習をしていた雪が今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。
三宅君が俺の方を指さして雪に何か吹き込んでいる。
……何を言っているのか全く聞こえないが、それは雪を傷つける言葉のようで、雪はラケットを持ったまま両腕をだらりと下げていた。
「ゆ――」
雪。
練習なんてできる気分じゃない。雪が踵を返してコートを去ろうとしていたので、俺は呼び止めようと右手を伸ばした。
しかしその肩を掴んだのは俺ではなく、隣で勝ち誇ったような笑みを浮かべている三宅君だった。
また何か二人で言っている。俺にはその言葉は遠くて聞こえない。
近づきたいのに目の前には俺と嶋さんの関係について色々聞いてくる仲間達が邪魔で身動きが取れない。
三宅君は何かを雪に囁きながら、そのまま雪の顎を掴み、俺に直接見えないようにキスをしていた。
「ッ……三宅ぇ――!!」
俺は我を忘れて強い手で目の前を塞ぐ仲間達を掻き分けて二人の間に割って入った。
雪は怒っている俺に怯え、今触れた唇の感触にどうして良いのかわからなくなっている。
ぐいっと胸倉を掴みあげ、俺は握った右手を振り上げようとした。
「――いいんですかぁ?先輩」
「……は?」
「薬剤部、論文発表会すぐですよね?俺を殴るのは構いませんよ。でも、それで同じチームの仲間が迷惑するんじゃないですか?」
――こいつ……!!
俺はわなわなと震える拳を振りかざすことも出来ず、胸倉を掴みあげていた三宅君を解放した。
ぶつけようのない怒りを抱えたまま、俺は踵を返してサークルを後にする。背後から聞こえる勝ち誇ったような笑いだけが俺の行き場のない怒りを増幅させていた。




