第十話 「気恥ずかしい朝」
タクシーに乗っていた時は揺られて猛烈な吐き気に襲われていたのに、今家の中に入って安堵したのか、俺の吐き気はどこかに消えていた。
玄関の電気をつけ、二階の階段の電気をつけた雪は俺を一生懸命抱えてくれている。
だらしなく雪に体重を預けた俺はふわふわしており足が浮いているような感覚に陥っていた。
「ひろちゃん、お部屋まで…あと、少し……」
「う~ん……」
何とか階段の手すりにつかまりながら足を進めるのだが、自分の部屋の前でずるりと力なく崩れ落ちた。
いつも雪の前ではいい兄ちゃんを演じてきたつもりだったけど、これじゃあただの酔っ払いを介抱している妹の図だ。
情けない……俺は半分眸を閉じてそのままドアの前で寝ようかと思った。
「ひろちゃん!風邪ひいちゃうからお部屋入るよ~」
雪に半ば引きずられるような形だったが、俺は何とか自分の部屋へと戻ってきた。
残るごくわずかな体力で何とか上着のジャケットを脱ぎ、床に落とす。
ズボンのベルトを外し、上着のシャツを着替えようと思ったところで、再び睡魔に襲われた。
ぼすんと布団の上に沈み込み、完全にそのまま眸を閉じる。
「もう…ひろちゃん、皺になるからズボン脱いで」
少し呆れたような雪の声が頭上からかかる。思えば雪にこんな顔をさせたのは初めてかも知れない……
靴下とズボンを脱いだところで俺はそのまま布団をかぶって眠ることにした。
「ひろちゃん、ちゃんとパジャマ……」
「雪……」
うつぶせで眠っていた俺はごろんと身体の向きを変えて俺を見下ろしている雪の眸をじっと見つめた。
俺がベッドに入ったことで、雪は自分の部屋に戻ろうとしていたのだろう。ふとその空気を悟った俺は無意識に雪を呼び止めていた。
「――雪、行くな」
「ひろちゃん……?」
「此処に、おいで」
俺が腕枕をして雪が入るスペースをつくると、雪は嬉しそうに微笑みながら布団をめくって中に入って来た。
まるで俺のことをベッドサイドに置いている巨大な熊のぬいぐるみと同じような扱いでぎゅっと腹周りに抱き着いてくる。
えへへと笑う雪は俺の胸元に顔を摺り寄せてひろちゃん、お酒臭いと苦笑している。
俺は仕方がないだろ…と心の裡で呟きながらすり寄って来た雪の背を抱きしめる。鼻腔を擽る甘いシャンプーの香りに理性が断ち切られそうになる……
「――雪……他の男の所になんて、行くなよ?」
唐突に出たその言葉に、一番驚いていたのは腕の中にいた雪だった。
今も信じられないと言いたげな顔でこちらを見つめている。
「……何がおかしい?」
「だって……ひろちゃんが、ユキに初めて焼きもち?」
「初めてなんかじゃない。俺は、いつだって不安しかないんだから……」
雪がモテるのは昔からだった。天然記念物並みの鈍感さと、誰よりも可愛い微笑み。そして相手のことを思いやる優しさ。
美しさと優しさを兼ね揃えている雪は、男女問わずよくモテていた。当の本人が、相手の恋愛感情なんかまったく気づかないくらい……
それをやきもきしながら俺はずっと見てきた。でも、よく考えたら雪も同じ気持ちを味わっていたのだと言う。
別に俺はそこまで女子の友達が多いわけではないのだが、学部的にどうしても女子が多いので、必然的に女子と一緒に行動することが多かった。
それが雪に焼きもちをやかせていたなんて知らなかった。
お互い関わる相手にちょっと嫉妬したり、何とか相手の気を引きたくなったり……
さらに雪を深く腕に収めると、その腕の中にいる雪が肩を震わせて笑っていた。
「ひろちゃん、お酒臭いよ」
「――ごめん……雪。でも、今日はこのままで居たい……」
「うん。ユキもひろちゃんの隣で寝たい」
おかしい、と笑っていた雪がちょっとだけ笑い泣きから復活し、俺の眸をじっと見つめてくる。
この時の顔だけは、義妹ではなく、きちんと一人の女として変わる。
「――雪……」
好きだよ。
そう囁き、俺は雪とまたキスをする。
――酒の勢いとは言わない。
俺は、この日初めて雪と、キスからちょっとだけ先に進んだ。
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タクシーに乗っていた由紀奈は右手に持ったスカイブルーの携帯をどうしようか悩んでいた。
電源を落としていたのだが、やはり気になってもう一度起動してしまう。
弘樹の携帯は殆ど連絡用にしか使用していないのか、トップ画面に表示されるものは購入した時のままのように固定ページとなっている。
多分、よく使用しているものは家族や仲間に連絡をしているLINEとメール。
彼女でもないのに、どうして気になるんだろう……
これを覗き見なんてしたら最低だ。でも――写真くらいだったら……?
でも写真だって人の宝物を開けるような行為だ。してはいけない……見てはいけない――
そう思うのに、この二度とないであろう絶好の機会に、好奇心が抑えきれない。もしも、弘樹君の写真があったら、それが欲しい。
私には雪音ちゃんに勝てる材料なんて何一つないのだから。
せめて、弘樹君の写真だけでも……
震える指で教えてもらったロック解除の番号を入力する。
もう一度開かれたその画面の、写真を収納しているアイコンをクリックする。
300枚近い写真は、全て幼少時から現在に至るまでの雪音の写真で埋め尽くされていた。
由紀奈は驚愕に目を丸めながらその写真を一枚、一枚見つめていく。
すべて幸せそうに微笑んでいる雪音の写真。小さい頃の運動会のものなのか、かなり古い動画が入っていた。
それを何気にクリックしてみると、たった5秒の動画なのに、雪ちゃんが振り向いて、撮影をしている弘樹にぶつかったところで終わるというものがあった。
『ひろちゃん!』
幸せそうにそう話す雪音ちゃんの声にこの二人の間には踏み込めない。そう思い携帯を閉じた。
由紀奈は眸に涙を浮かべ、この気持ちは諦めようと再び弘樹の携帯電話の電源を落とした……
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朝目覚めると珍しいことに雪が隣で静かな寝息を立てて眠っていた。
いつもであれば、この時間はもう雪も学校に行っている。
「……俺の所為か」
雪に行くな、と言って昨夜はぎっちり抱きしめていた気がする。
もしかしたら、雪は学校に行きたくても俺の腕の拘束が強すぎて出られなかったのだろうか。
布団を剥ぐとちょっとパジャマが乱れた状態の雪の姿に思わずぎょっとした。
雪が普段着用しているピンクと黒いレースがついた可愛いブラジャーが俺の部屋の床に落ちている。
(俺、昨日――……)
自分の色々な醜態を思い出し、一気に顔が熱くなった。もう……穴があったら入りたい気分だ。
酒に酔って、雪に玄関まで迎えに来てもらって、介抱してもらってその後何をした?
いくら同意があるとは言え……ちょっとこれは……
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、俺は静かに雪のパジャマのボタンをしめた。
形の良い白い胸がちらりと見えて朝から変な気分になる。落ち着け俺……
「ん、んん~……あ」
「あ……」
ボタンをしめている俺と、雪の視線が絡み合う。
数秒の沈黙の後、お互い同じタイミングで「「おはよう」」と言った。
互いに顔を赤らめながら何故かベッドの上で正座をしてしまう。
雪はさらに気恥ずかしそうな様子でもじもじしながら床に落ちたブラジャーを拾い部屋に戻っていった。
俺もシャツにトランクスというだらしない格好から、大学へ行くための準備の為に着替えを持って浴室へと向かう。
ふと昨日先に帰った田嶋に一応今日のことを確認しようと思ってベッドサイドにいつも置いてある携帯電話を探すのだが、見つからない。
「やば……俺、居酒屋にでも忘れてきたかな……」
別に他人に見られて困るものなんてない。メールだって殆ど仲間との連絡用にしか使っていないし、元々デジタル人間ではないから、電話は専ら受信用に等しい。
携帯電話をころころ変える人の気持ちなんてよく解らないくらい物持ちが良くて、最低でも5年間は十分使える。
写真の枚数が増えてきたからそろそろ何か別のツールに移動させなきゃなぁと思っていたくらいで――……
「写真……困ったな……また父さんに送ってもらわないと」
俺の携帯電話には、雪が生まれた頃から現在に至るまでの写真が収められている。
何故かすべて笑顔のその写真を見ると、ドス黒い嫉妬や怒りがすっと流される。
ただ、あれを雪のファンにでも盗まれたらかなりの問題だ……
携帯電話はパスワードロックをかけているので、もし誰かが拾ってくれてもそう簡単に解除できないはず。
そう高を括って俺は浴室へと足を向けた。




