2 『予兆』
「ブシマ=モデラシオン。どうぞお見知りおきを」
笑みを崩さぬまま自己紹介を終えると、ブシマは注文したタルタルバールを口に運んだ。少し口に含むとビンを置き、細く息を吐き出す。
「やっぱりアルコールは苦手だねぇ。一口飲んだらお腹一杯だ」
「じゃあ何で頼んだんだよ」
ぶつぶつと独り言のように夕凪が囁いた。視線は丸っ切りブシマの方を向いてはおらず、テーブルに置かれた『カンミジュース』に向けられていた。
「こっちの坊やは初めて見る顔だねぇ。こちらの少女は前に見たことがあるかなぁ」
「私はあんたみたいな怪しい男は初めて見るわ」
「そりゃあそうだよ。僕は隠れて君たちを見ていたからねぇ。会ったことは一度もない。一方的に僕が知っているだけさ」
無精ひげに囲まれた口元がまた不気味に釣り上がる。
「変態野郎」
「誤解だよぉ。人を見た目で判断するものじゃない。僕はとても紳士だよ」
ミロナに笑い掛けると、ブシマはまた一口、タルタルバールを喉へと通した。
「職務放棄ということは、私を捕まえるために来たわけじゃないんだな」
「君を捕まえようと思ったら治安維持隊総出でかからなくちゃならない。だが今はそれが出来ない事情があってねぇ」
「珍しいな。治安維持隊が人員不足だなんて」
「僕らはいつも人員不足だよ。市民のいざこざや犯罪は後を絶たないからねぇ」
「そんな奴が気軽に職務放棄してるんじゃあ世話ないね。人員不足が聞いて呆れる」
ゆっくりと首を捻り、ブシマはチャームの方を向いた。
「君のそういう物言いも好きだよ」
「お前の喋り方は好きになれない」
「気に入ってるんだけどなぁ。紳士の様だろ」
うっとりと艶めかしい口調を前にチャームが呆れ顔を見せる。
「冗談はこの辺にしておこうかぁ。僕が来た目的は久しぶりに君の顔を見たかったからだけど、それ以外に一応の情報を与えておこうと思ってねぇ」
「情報?」
「大したことじゃあないんだよ。ただ脱獄したての君たちは何かと不安がっているかと思って。紳士としては愛おしい女性の不安がる姿は見たくない」
「心配は不要だ」
「まぁそう言わずに。脱獄に関しての情報は既に治安維持隊や騎士団の方々にも届いているだろう。だけど、君が行き着けにしていたこの店を知っているのは僕を含め、君に近しかったごく一部の者だけ。そして何より君の行動をいつも見守っている者は僕以外にはいない」
「お前もすぐにいなくなってもらいたいよ」
「この脱獄事件は異例の出来事だ。本来であれば、東地区全域に非常警戒命令が下され、直ぐにでも数百人単位の人員が導入されていたはずだ。しかし君たちはとても運がいい。驚くほどの幸運だ。それによって君たちに掛けられる人員の数は寄せ集めの十人程度、君ほどの者ならば絶対に捕まることはない。だから街中を歩き回ったとしても問題はないだろう。よかったねぇ」
ブシマはテーブルに着く三人を順に眺め、最後に自分の手に持ったビンを見た。透明なオレンジ色の液体の中では、今も小さな泡粒がぷくぷくと水面の方へと浮かび上がっていた。
「伝えたいことはそれだけか」
「そうだねぇ。大体のことは言い終わったかなぁ」
「どれも取るに足りない事だ。元々大勢に追われることは覚悟していた」
「そうかぁ。じゃあ役には立たなかったわけだ。残念残念」
「いい加減にしろ。さっさと本題に入れ。これ以上の長話を聞いている暇はない」
ブシマの口元が釣り上がり、ビンを持ち上げたブシマはそのまま一口で中身を飲み干した。
「私がだらだらとした会話を嫌っているのは知ってるだろう」
「そうだった。少しでも君と話せる時間が増えるならと思ったんだけれど。どうやら君を怒らせてしまったみたいだねぇ。仕方ない、本題に入るとしよう」
「瓶おさげしまぁす」
ウエイトレスが先程と同じ笑顔でテーブルに置かれた空瓶を回収していく。その姿に視線を向ける者は一人としておらず、全員の注目がブシマに集まっていた。
「内容は今話したことの続きだ。治安維持隊の人員不足の原因とも言える。現在、治安維持隊の人員の半数以上が一人の少年の捜索に当てられている。所属部署に関係なく、治安維持隊は総出でその少年を探しているんだ」
「街の平和を守る部隊が少年一人のために動いてるわけね」
「少年の名はラドミル=トレイス」
その名前を聞き、ミロナとチャームの目元が僅かに動く。ミロナはチャームの方へと視線を流したが、チャームはブシマの顔をじっと見ていた。
「名前くらいは聞いたことがあるだろう。この国において王族の次に権力を持つ四大貴族。その内の東を統べる上位貴族、『エルミシア』家。そこに仕える三つの下位貴族の内の一つ、それが『トレイス』家だ。行方が分からないのはそこの長男だねぇ」
「騎士団や治安維持隊と同様に東西南北に大きく分けられる貴族階級。その階級は更に上位貴族と下位貴族に分けられ、上位貴族はその地域の経済を丸ごと牛耳っている。それぞれの上位貴族は自分たちの下に二つから三つの下位貴族を従えており、そいつらを操ることで地域の市場を回し、国全体での経済をもコントロールしているとか」
「騎士団にいた頃に得た情報なら、むやみに開示しないことをお勧めするよ」
「この程度の事は街の子供達でも知っている。王族の住む城の周りに自分たち貴族階級の者だけが出入りすることのできる区域を設置し、必要最低限の時以外そこから出てこないようなイカれた連中だ」
「騎士団でその言葉を吐けば、称号はその場ではく奪され、運が悪ければ投獄されるだろう。上位貴族の家に踏み入って捕まった、君のようにねぇ」
「それで、そのトレイス家のガキを街の保安を担う部隊が探しているわけか。お前たちも意外と大変なんだな。上からの命令には逆らえない、そうだろう」
「騎士団からの命令だよ。トレイス家は貴族様、我々の言葉なんて決して届かない場所にいらっしゃる。今は僕もそれに付き合わされていてねぇ。君たちにはその事について聞きたいことがあるんだ」
「脱獄したての私たちが一体何を知っているって言うの」
「脱獄したてだから尋ねに来たんだよ。どうにもタイミングが上手く重なっているからねぇ」
「貴族の息子が見ず知らずの囚人の脱獄手引きをして一体何の得がある。それに何ができるというんだ」
「トレイス家は東地区の主要機関の内部事情にも通じている。その中にはあの難攻不落だったバラディオン牢獄も含まれる。内通者がいた。そう考えれば、脱獄も難しい事じゃないだろぅ」
「いつになく頭の切れが悪いな。お前らしくない。そもそもが間違っている。私は元騎士団の人間だ。あの牢獄にいた時期もある。内通者などいなくとも内部事情は把握しているよ」
ブシマは目を閉じ、しばらく黙り込んだ。再び目を開けると、口元の笑みを消し、真顔になった。虚ろな瞳は正面に座るミロナの方を向きながらも、一切彼女を見てはいなかった。
「言われてみれば確かにそうだ。なぜそこまで考えが及ばなかったのだろう。自分でも不思議だ。君の言う通り、君には内通者を探す理由も手を借りる理由もない。ハハハハハッ」
突然笑い出し、ブシマは立ち上がった。
「失礼したねぇ。本当に申し訳ない」
チャームは黙ってブシマの方を見ていた。
「ここのお代は僕が払おう。君の顔が見れてよかったよ」
「必要ない。代金は私が払う」
真っ直ぐ正面を向いたままミロナが言った。ブシマは軽やかなステップで出口に向かって歩き出す。
「おっと、忘れるところだった」
振り返り、テーブルに置いた紺のハットを手に取って無駄のない動作で頭に乗せる。
「これについては僕としても何の関わりもないから言う必要もないのだけれど」
「さっさと話せ」
「バラディオン牢獄から消えた囚人の数なんだけど。三人なんだよ。一人は君、もう一人はつい先日地下一階に投獄された少年。そしてもう一人は地下四階に入れられていたオーガルム=エボシフォンという男だ。君と関係があるのかとも思ったが、その様子じゃあ関係はなさそうだねぇ。今日は本当にハズレばかりを引く日だなぁ。まぁいい、君に会えたのだからねぇ。またどこかで会おう」
その後ろ姿をチャームは静かに眺めていた。ブシマの背中が通りの向こうに消えた後も、姿勢を変えず出口の方を見ていた。
「何なんですか、あの男は」
沈黙を破り、ミロナがチャームに詰め寄る。ぼうっと遠くを見つめていたチャームの両目がゆっくりとミロナの方を向いた。
「気にする必要はない。あいつとは私が治安維持隊の頃からの古い付き合いなんだ。敵ではないよ」
「見た目や雰囲気は完全に敵でしたよ」
「見た目はね。昔から周りとうまく付き合えず、ずっと一人でいる奴だった。あの雰囲気だから周りの奴らも寄り付かない。だが頭の切れる奴で、戦闘能力のかなりのものだよ」
「みたいですね」
「さてと、私たちもそろそろ出るとしよう。これ以上いてはこの店にも迷惑が掛かる」
チャームは席を立ち、ミロナもそれに続いた。
「何してるの、行くのよ」
たった一人、席に座ったままの夕凪に向かってミロナが言った。夕凪は二人がテーブルを離れた後、ゆっくりとした動作で立ち上がり店を出ていった。
店の外に出ると西の方から差し込む陽の光が視界を包み、目が慣れるとオレンジ色に色付いた景気が辺りに広がっていた。
「支払いは終わってる?」
「はい。先程の帽子を被ったお客様から代金はいただいております」
「あの男……」
ウエイトレスとの話を終えてミロナが店から出てくると、夕凪は黙ったまま茜色の空を見上げ、大空へと右手を伸ばしていた。
「さっきからどうしたの。牢獄から出てきた時とは別人みたいに見えるんだけど」
「別人か……。それだったらいいかもな。俺は前までの俺とは別人で、ここにいる俺はこの世界の俺。そしたら、母さんは悲しまずに済むし、俺だってこの世界の俺として生きていられる」
「別の世界にいる母親のことを心配しているの」
「これで二人目なんだよ、母さんの前からいなくなるのは。俺はどうしたらいい。こんな訳の分からない世界で生きていかないといけないのか。目の前で平然と殺し合いが起きるような世界で生きていきたくなんかねぇよ。生きていけるわけねぇよ」
「いちいちうるさいわね、あんたは。弱音を吐く暇があったら今の状況の整理でもしていなさい」
夕凪の視線がミロナに向けられる。表情は綻び、その顔には引きつるような笑みがあった。
「状況の整理ね。一応は自分の中で整理はついてるんだ。牢獄を飛び出し、チャームについてこいと言われた時は、何だが救われた気分なった。まだ俺は生きていけるんだと希望が持てた。でも、街を歩き回ってこの世界の広さを知ってから何だか怖くなってきて、この店で甘い飲み物を飲んだ時に無性に泣きたくなったよ。自分でも自分の感情が分からねぇんだ。今自分が、何も知らない異世界にいるってことを自覚すればするほどに、不安が大きくなっていく。そして自分がいない元の世界を想像すると、途端に恐怖が湧いてくる。妹がいなくなって取り乱す母の姿は何度も見ていたから、もし俺までいなくなったとしたら母さんはどうなるんだろうって。そんな事ばっかり考えちまう」
肩を落としながら、とぼとぼとミロナの方へと歩き出す。ミロナの前に立つと、その腰に携えた短剣に目を落とす。
「不安ってどうやったら消えるんだろうな」
「そんなこと私が知るわけないでしょ。あんたの頭の中なんて私には分からないんだから」
「もしその剣で俺を切れば俺は楽になれるか。不安も消えて、まともに眠ることが出来るようになるか。もしかしたら元の世界に戻ることだって」
「悪いけど、この剣はあんたみたいな奴を切るためのものじゃないから。死にたいなら一人で死んでね。それと、チャーム様が連れていくといった以上、あなたが死のうとしても私が止めるから。チャーム様が繋ぎ止めた命を粗末になんてさせない」
「お前、ひょっとしてツンデレキャラなのか」
「ツンデレキャラとか言うのが、どういう意味かは知らないけれど。自分の命を無駄にはするな」
「意外と優しいんだな」
「優しさなんて持ち合わせていない。ただ弱腰でぶつぶつと文句ばっかり言ってる奴が私は一番嫌いなの。この世界で生きていけないだとか、元の世界の母親が心配だとか、そんな言葉を吐くくらいならその足でしっかりと歩きなさい。あんたがどういう状況にいるのかは分からないけど、少なくともあんたは今ここにいる。次、弱音吐いたらぶっ飛ばすから」
「容赦ねぇな」
ミロナの背後に見える東の空が、西の空とは対照的に夜の訪れを知らせていた。紺の空にちらつく星たちの光を見つめながら、夕凪は右腕の袖を引き上げた。ゆっくりと右拳を握り、右足を後ろに下げる。
頭の中でボクサーのパンチをイメージしながら、思い切り右腕を突き出した。
「ぐべっごばっべほっ!」
返ってきたのは、夕凪のパンチよりも遥かに威力の籠ったミロナの拳だった。夕凪は吹っ飛び、地面を軽やかに転がって行く。ミロナは無表情でその姿を眺め、夕凪は親指を突き出した右手を天高く持ち上げた。
「パンチ、ごちそうさまでした」
ミロナは呆れて視線を逸らすと、店の出口から店主とチャームが会話をしながら出てきたところだった。チャームは外にいた二人を交互に眺めて僅か首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
「ほらよ、テメェの名札だ。ここに置いとく必要もねぇからな。持って帰れ」
そう言うと、店主はチャームにウエイトレスの頃の名札を手渡した。
「世話になった」
「全くだ。己の目的を突き通すのはいいが、程々にしておけ。真実をなんて知らなくても人生楽しむことはできる」
「騎士団に入ったあの日から、人生を楽しもうなんて思いは忘れてしまったよ。だから、次会う時はとびっきりの情報を持って来てやる」
「馬鹿言え。情報収集でワシに敵う訳ねぇだろうが」
チャームは最後に笑って見せ、ミロナを連れて紺色に染まる空の下を歩き出した。周囲の家の窓には明かりが灯り、どこか遠くの方から楽し気な笑い声が聞こえてきた。
「さて、帰ろうか」
「久しぶりの帰郷ですかね」
「おい、置いていくな」
チャームとミロナの後を追って、夕凪は走り出す。