4 『始まり』
「ここに入れられた時と変わらないな」
「いつここに入ったんだよ」
「一年前だ。ちょっとしたへまをやらかしてね」
上へと続く階段を登り終え、二人は一階フロアへとやって来る。
「何回もこの場所を通ってると自分が囚人だってことを忘れちまいそうだな」
「何を言ってる。ここを出れば私たちは囚人じゃなくなるだろう。もうすぐだよ」
「代わりにお尋ね者っていう名前が付くけどな。ここにいても外に出ても形見は狭そうだ」
静かに肩を落とし、苦笑いする夕凪。チャームはそんな夕凪を横目に、出入り口の扉の隣に設置された看守室の方へと歩いていく。
「どこ行くんだ。扉はこっちだぞ」
「夕凪、お前も来い」
首を傾げつつ、夕凪はチャームの後を追う。
チャームは看守室の扉に手を掛けると、迷うことなく扉を開けて中へと入っていく。夕凪は看守室の窓口の方をちらちら見ながら恐る恐る後に続いた。
「ここに何があるんだよ」
「ほらこれ、夕凪のじゃないのか」
看守室の奥から戻ってきたチャームが夕凪に手渡したのは、薄い青色のジーパンと灰色のパーカー、それに黒のジャケットだった。
「これって……」
見覚えのある衣服は、まさしく夕凪がここへ来る前に身に着けていた物だった。夕凪はそれらを受け取り、直ぐにパーカーのポケットを探り始めた。
「良かった。あった」
取り出されたのは子供用の小さなブレスレットだった。
大小さまざまなビーズが通された、色鮮やかで可愛らしいブレスレット。夕凪はそれを大事そうに握りしめる。
「何だそれは」
チャームが不思議そうに尋ねた。
「俺にとっての宝物さ」
夕凪の返答に未だ不思議そうな表情を崩さないチャームだったが、少しして興味が無くなったのか、自分の衣服を取りに看守室の奥に戻っていく。
棚に並べられた幾つもの衣服。部屋番号ごとにそれぞれの衣服が整理されており、チャームはその内の一番下の棚から服を取った。それを近くのテーブルに置き、現在身に着けている囚人服の裾に手を掛ける。
「おい、ちょっと待て……」
夕凪の制止も聞かず、チャームはそのままシャツを脱ぎ始めた。
布の隙間から透き通るような白い肌が露わになっていく。引き締まった腰のラインから更に上へ。
「俺もいるんだぞ。待てっておい、まだ脱ぐなぁぁあああっ!」
慌てて自分の衣服を抱え、部屋の外へと逃げ出す夕凪。
扉を閉めると中から笑い声が聞こえてくる。
「一応、脱獄を手伝ってもらった礼のつもりだったんだが。意外と初だとはな」
「うるせぇ、いきなり脱がれたら誰だって驚く」
「見たいなら扉の隙間から覗いてもいいぞ」
「覗くかバカっ!」
チャームはまた笑い声を上げた。
「ったく、こっちの気も知らねぇで。ちゃんと言ってくれれば、心の準備だってそれなりにブツブツ……」
扉に背を預けながら夕凪は独り言を呟く。
扉一枚を挟んで感じる人の気配。
それはここで目覚めた時に感じた周囲の者たちの気配とはまるで違う。傍にいるだけで心が落ち着くような暖かい人の感触。触れているだけで自分の気持ちが不思議と軽くなる。
「チャーム。あのさ、これからも俺…チャームと一緒にいても」
ドンッ、という音が一階フロア全体に響き渡る。
見ると、それまで薄暗かったフロアに太い帯状の光が床を伝って壁まで伸びていた。閉ざされていた筈の牢獄棟の扉が外側から開け放たれ、一つの人影が光の帯に映し出されている。
何かが宙を飛んでくる。
それは夕凪の目の前に落下し、足元まで転がってくる。
「さっきの、女の子……」
気を失い、横たわる小柄な体格をした少女。垂れ下がる赤い髪の間に見えるその顔には確かに見覚えがあった。看守帽が外れ、乱れた赤髪が床に広がり、額からは一筋の赤い線が流れていたが、それは間違いなくゼム婆の部屋で夕凪を救ってくれた少女だった。
「俺がいない間にまさかこんなことになっているとはな」
その聞き覚えのある声。
夕凪の視線が扉の方へと向く。
「……ミスタス……」
「ん、どうしてお前が俺の名を知っている」
男は立ち止まる。圧倒的なまでの気配が溢れ出し、その男の存在感が夕凪の体を強張らせる。
「まぁそんなことはどうでもいいか。今すぐに牢屋に戻れ。さもないと」
「この子に……」
「ん?」
ミスタスの眼が鋭く光る。
「この子に何をした。こんな目に遭わせやがって、それでもお前ら看守かよ」
「何を言っている」
「幼気な女の子を相手取って、こんな酷い目に遭わせるのが騎士のすることか」
「罪人は罪人。お前たちはこの国の害だ。処罰されるべき対象でしかない」
「勝手な事を言うな。こっちの話もまともに聞かず、何が処罰だ。テメェらのやってることはただの身勝手な行いに過ぎない。罪人はテメェらの方だろう」
「面倒な奴だ。それ以上口を開けば、その舌を切る」
夕凪は両の拳を胸の前で構えた。そこに立つ男を完全に敵と見なし、最大限の戦闘態勢を整える。
「その脅しはもう聞き飽きたぜ。やってやるよ。掛かってきや」
言葉が途切れる。
夕凪の視界が激しく横にぶれ、足の裏から地面を踏む感触が失われる。目の映る上下左右がでたらめに回転し、刹那の前も開けず背中に強い衝撃が走った。
天地が逆さになり、視界の下側にミスタスの顔が見える。
(敵とか……そういう次元じゃねぇんだな、くそっ)
自分の体が壁まで吹っ飛ばされたことに気が付き、同時に全身に痛みが走った。苦痛に顔が歪み、呻き声が漏れ出す。
「この棟の外に出ていればその首間違いなく刎ねてやったのに、惜しいことをした」
力が入らない。身動きすら取れぬまま、夕凪は逆さの景色を呆然と見つめていた。
看守室の扉が開き、その中から一人の女性が現れる。
黒の長袖シャツにサブリナパンツを履き、手に一冊の本を持った牢獄棟の住人。地下五階に収監された大犯罪者。
「遅れてすまない。探し物をしていてな、って、あれ……」
扉の前で横たわる少女が初めに視界に入り、そこから視線を上げて正面に立つ騎士を見る。無様な格好で壁に倒れる夕凪を最後に見つけ、それからまた少女を見下ろした。
「ミロナ、やっぱり来てたのか」
「うっうう、チ、チャーム様」
意識を取り戻したミロナは傍らに立つチャームを見て嬉しそうに微笑んだ。
「無茶をしたな」
「チャーム様のためなら私はうっ、くっ」
痛みに耐え、少女は奥歯を噛み締める。
「ナフィビエント……」
先程の余裕の表情からは一変して、焦りや驚きを見せるミスタス。次の瞬間、彼は大きく後ろに飛んだ。着地と同時に腰の剣を掴み、体勢を落とす。
「久しぶりだな、ミスタス。昔みたいにチャームさんとは呼んでくれないのか」
「ほざくな。お前はもう騎士であった頃のチャーム=ナフィビエントではない。今はただの処罰すべき罪人だ」
ミスタスは剣を引き抜き、ゆっくりと間合いを測り始める。
「出会って早々に私と一戦交えようというのか」
「貴様を切る」
「ははははっ、大口を叩くようになったな。そういえば昔もよくこうやってお前とは手合わせをしたか」
本をポケットにしまい、顔に笑みを作りながらチャームは一歩を踏み出した。
「何が可笑しい」
「いや、ただ昔のことを思い出しただけさ。不思議と懐かしい気分になるものだな」
「そんな記憶は直ぐに忘れさせてやる、永遠にな」
「牢獄棟内にいる場合、全ての罪人は刑罰法第四項によって守られているはずだが」
「どんな法にも必ず例外は存在する。緊急時においては制圧困難だと思われる罪人に対して、その場での死刑執行が許可されている。我々騎士団はこの国の平和を守るという義務がある」
「その言葉は今の私にはきつい言葉だよ」
ミスタスは剣を構え、それに応じてチャームも拳を握った。
「騎士の称号を捨て、罪人へと落ちた貴様にもはや救いはない。この場で俺がその命終わらせよう」
「全力で戦える場を作るために看守たちを引き上げさせたのはいい判断だったが、そう上手くいくかな」
二人の姿が同時にその場から消え去る。フロアの中央で凄まじい爆音が炸裂し、音よりコンマ数秒遅れて床がひび割れ、薄い粉塵が巻き上がる。
ミスタスが放った第一の一閃にチャームが右足の蹴りで受けて立つ。その衝撃で互いは後ろに大きく弾け飛び、着地と同時に前方へと踏み出して一気に間合いを詰めていく。
右下から左上へと振り上げられる二度目の斬撃。チャームはそれを紙一重で交わし、一直線に右の拳を突き出す。拳はミスタスの頬を掠め、その跡に赤い線が描かれる。
二人は互いに振り向きながら三度目の攻撃を繰り出す。チャームは肘、ミスタスは剣の柄。
僅かの差でチャームの攻撃が敵の顔面に直撃し、ミスタスの体が大きく仰け反った。踏ん張る足が床に二本の線を引き、間髪を入れず放たれたチャームの踵落としを刀で受け、ミスタスの足が床に深くめり込む。
「さっきまでの威勢はどうした」
ミスタスが剣を振り、チャームの足を弾く。続けて踏み込み、横なぎに剣を振るう。防御したチャームの腕に傷が刻まれ、そこから真っ赤な液体が噴き出した。
「常に気を張れ。一瞬の油断が命を落とす。あんたが俺に教えてくれた言葉だ」
「そうだったな」
放たれる幾筋もの斬撃。
空気すらも引き裂いて、斬撃そのものが飛んでいるかのように壁や床にその痕が刻まれる。
「防戦一方だぞ。ナフィビエントっ!」
「言われなくても分かってるよ」
ミスタスの縦に振り下ろされた剣を交わし、チャームの蹴りが相手の脇腹を捕える。ミスタスがそれを堪えるように表情を強張らせ、彼の体は牢獄棟の扉を突き破って渡り通路まで吹き飛ばされた。
「………」
チャームの背後で戦いを見ていた夕凪は目の前で巻き起こる光景に言葉を失う。動き一つ一つを眼で追うことすら出来ない。分かるのは戦う二人の揺れ動く姿と、続けて発生する爆発と爆音。そして、刻一刻と変化していくフロア内の様子だけだった。
「これが、ほんとに現実なのか」
這うように移動し、看守室の前に倒れるミロナの元まで辿り着く。ミロナは既に意識を取り戻していたが、体の痛みと傷で身動き一つ取れなかった。
「すまない」
「助けられたのはこっちなんだ。気にすんな」
ミロナの右腕を肩に回し、壁に手を付きながらどうにか起き上がる。
ミロナの息づかいは依然として荒れていて、片足も引きずっていた。
「歩けるか」
「何とかね。だがどこへ行く。チャーム様が戦っているんだ。離れるわけにはいかない」
「離れねぇと巻き添えを食らうぞ」
「ダメだ。私はもう決してチャーム様から離れない」
「お前……」
ミロナの眼に宿る意志の強さは、夕凪ですらもはっきりと理解することが出来た。渡り通路へと歩いていくチャームの姿を心配そうな眼差しで見つめるミロナ。彼女を肩で抱えながら夕凪はその場に立ち尽くしていた。
渡り通路の先まで飛ばされたミスタスは舞い上がる粉塵の中で立ち上がり、剣の一振りで周囲の土煙を一掃した。見据える先に立つ罪人に向けて、もう一度その剣を構える。
「決着をつける前に一つだけ聞きたい」
ミスタスの言葉にチャームの歩みが止まる。剣を構えた騎士を前に決して臆することのない悠然たる立ち姿で、チャームは迎え撃つべきかつての同胞の言葉を待った。
「何故、騎士団を捨てた」
核心を衝くその問いにチャームは僅かに下を向き、何かを考えるように目を閉じた。再び目を開けると、橋から望む街の景色に視線を向け、細く長く胸に溜まった空気を吐き出していく。
「大した理由はない。ただ言うなれば騎士であるという意義を見失ったからだ。騎士であることに疑問を感じた」
「疑問だと」
「騎士のままでは辿り着けない真実があることを知った。それが理由だ」
質問の答えに新たな疑問が生じ、ミスタスは眉をひそめた。
「その辿り着きたい真実というのは騎士の誇りを捨ててまで手に入れたいものなのか」
「さぁな。真実を知り、その先で私はその答えを知るだろう」
「己自身も知らぬ答えを探すために騎士を捨てたか。罪人に落ちてまで得たいというその答えが何に対してのものかは知らないが、騎士を愚弄したことに変わりはない。お前のその行いはこの国における騎士の在り方を民衆に疑わせる結果となった。その罪は重い。よって、この場でお前の命を絶とう。この剣で、かつて師と仰いだ偉大な騎士の歴史に終わりを告げよう」
ミスタスの体から溢れ出す霊気が渦を描きながら構える剣に込められていく。剣は鮮やかな緑の光を放ち、それに呼応するようにミスタスの体も薄く光を帯びていた。
対するチャームは仁王立ちのまま眼前の敵を見据えていた。同じく全身から霊気を漲らせ、右の拳にその力を集約させる。
「お前にこの技を放つことになるとはね。決して力を抜くなよ。少しでも力を抜けばお前は死ぬ」
「ほざけ。貴様は俺のこの一撃に散る」
激しい風が二人の立つ陸橋に吹き荒れる。両者の髪が宙に靡き、互いに一撃を放つための構えを取る。
「いけませんっ! そのお身体でこれ以上そんな力を使っては」
背後から聞こえるミロナの叫び。
しかしチャームは振り返ることなく、前だけを見つめ続ける。
「霊気を波へ。その波長をさらに圧縮し、最大の一撃とする」
呟いた直後、チャームの拳がミスタスの剣同様に眩い水色の光を発する。
チャームとミスタスの視線が交差する。
風が止み、つかの間の静寂が辺りを覆う。
瞬間、両者は踏み出した。
地を抉り、ただ真っ直ぐに敵に向かって加速していく。
水色と緑の光が橋の中央でぶつかり合う。音が消え、辺りには神々しいまでの光がまき散らされた。
その光を突き抜けてミスタスの影が後方に凄まじい速度を持って飛んでいく。その体は看守棟の壁にめり込み、巨大な蜘蛛の巣状のひびが刻まれる。
ぶつかり合った衝撃波によって橋は悲鳴を上げ、瞬く間に崩れ去る。無数に砕けた瓦礫は敷地内に降り注ぎモクモクとした土煙が橋の下に立ち込めた。
光が止み、その中央に立つチャームの背中が、牢獄棟にいる夕凪とミロナの瞳に映った。二人は互いに笑みを見せて、チャームの方へと歩み寄っていく。
そんな二人を背にチャームは壁にめり込み気を失うミスタスを見ていた。チャームは顔を引きつらせ、軽く頭を掻いた。
「やっぱりやり過ぎちまったな」
独りだけ落胆の思いを告げるチャーム。その背中にミロナが飛びつく。
「お、おいミロナ」
「よかった、ご無事で……」
目には涙を浮かべて喜びに打ちひしがれる。
「心配をかけてすまなかったな」
「本当に良かった。これからは絶対にあなたの傍を離れません」
チャームはミロナの頭をそっと撫で、ギュッと体を抱きしめた。
その光景を黙って見つめる夕凪も嬉しそうに笑みを浮かべた。恐らくここに来て初めて心から喜んだ瞬間だった。
夕凪は強張った肩から力を抜き、その解放感に身を委ねた。周囲には壮大な街の景色が広がり、それを眺める夕凪の瞳は太陽の光に輝いていた。
「さて、長居はしていられない。ミスタスの敗北を知った看守たちが直ぐにでもここへやって来るだろう」
そう言うとチャームはミロナの体を肩に抱え、夕凪の腰に手を回す。夕凪もミロナと同じくチャームの肩に抱えられ、その状態でチャームは街の見える方角へと走り出した。
「あの、チャーム様……」
「待て待て、おいちょっと待ってくれ。まだ心の準備がぁぁぁあああああっ!」
二人を抱えたチャームが橋の縁から躊躇なく飛び降りる。
全身に感じる浮遊感に夕凪が絶叫する。その耳元でチャームが言った。
「どうせ行くところはないんだろ。家に来な」
確かに聞こえた誘いは夕凪の胸を優しく包み、張り詰めていた感情の糸がプツリと途切れた。夕凪の瞳からは途端に大粒の涙が溢れ出し、それを堪えるように歯を食いしばったままで、
「ありがとう」
「私の方こそ、ありがとう」
繋がりを持って人は正直になれる。その喜びと感謝の思いを伝え、繋がりは太く固いものへと成長していく。
突然放り込まれた世界で出会った仲間と共に一人の少年の物語はこうして慌ただしく幕を開けた。
第一章・了