3 『罠』
激しい風が吹き抜け、服の端がバタバタと揺れている。
看守帽が飛ばない様に左手で頭を押さえ、風を受ける面積を出来るだけ小さくするために身を屈めながら歩を進める。
(着替えて正解だったな。受付の看守の服ならピッタリだ)
渡り通路の橋の先に見える両開きの扉。
まるで門のように重たく分厚い灰色の扉は、この風の中でさえ微動だにしていない。
(重い……)
帽子を脇に挟み、両手で取っ手を持って全力で引く。
(気圧差か何かなのか、この重さ)
どうにか扉を開き、風の寒さから逃れるように扉の隙間に身体を滑り込ませる。
直後、二本の槍の先端が左右から同時に夕凪の鼻先で交差する。
「「名を」」
短く区切られた一言を扉の左右に立つ門番二人が同時に口にする。
「ドーグ=ポリン」
名を言い終えると槍は直ぐに取り払われた。渡り通路から通じる看守棟の五階に足を踏み入れ、何食わぬ顔で通路を進み、角を曲がった所で小さくガッツポーズをする。
(よかったぜ、声野郎に名前だけは聞いておいて)
声の主に教えられた道順をなぞりながら、階段を登って上階を目指す。
(この階段は六階までしか行けないんだったな。マジで迷路みたいな建物だ)
壁に背中を付けて、曲がり角の先を覗き込む。誰もいないことを確認し、さらに先へ。
声からの指示を思い出しながら最短距離で目的地を目指す。
◆
『いいか、今回お前に取って来てもらうのは、私の入れられている地下五階フロアの鍵だ』
(鍵?)
『そうだ。ここの地下五階は他の階と違い、鍵が一階の看守室に置かれていない。鍵はこの棟の唯一の出入り口である一階の扉から渡り通路を抜けた先にある看守棟、その棟内のある部屋に保管されている』
(ある部屋ってのは)
『ゼム婆の部屋だ。あの婆さんの住まいである八階の一室。そこに鍵がある』
(ゼム婆ってあの尋問室にいたおばあさんか)
『お前が誰に尋問されたのかは私にはわからないが、皺の入った杖を突いた婆さんなら間違いないだろう』
(じゃあ間違いない。傍にシスターみたいな人もいたけど)
『だとすればマリルね。ゼム婆の付き人をやっているシスターだよ。真実の眼を持つあいつは何かと重宝される』
(真実の眼……)
『人の感情を見破る瞳さ。他人の感情が色で見えるんだよ。その他にも相手が無意識に思っている感情なんかも見えるらしい。私の力とよく似ている』
(ここにいる奴らは人の心を覗き見する奴ばっかりなのか)
『犯罪者を相手にするんだ。そういった力は当然必要になって来る。それよりも問題は、ゼム婆の部屋に入る時だ。看守棟に鍵は掛かっていないが、ゼム婆の部屋は別だ。あそこは特殊なまじないで鍵代わりの結界が張られている。錠よりもよっぽど厄介な防犯対策だよ』
(そんなのどうすればいいんだ)
『結界用の鍵を作るんだよ。やり方は簡単だ。ただ少しばかり必要なものがある』
(必要なもの)
『まぁ、お前の履いてるパンツの生地と血が少々あれば事足りるよ』
◇
ポケットに手を入れ、自らの血で描いた結界通過用の手形があることを確認する。
(無茶なことを言ってくれる。血で文字を書くなんて人生初めての体験だぜ。二度とごめんだが)
建物内を行き来する看守たちの数は階を上がるごとに減っていき、八階に上がる頃には通路には人一人見当たらなかった。
目的の部屋は八階フロアの角に当たる一室。
突き当たりに見えてくる両開きの豪奢な扉は、看守棟という建物の雰囲気からは完全に逸脱していた。
(ここか、鍵はないみたいだが確かに閉まってるな)
扉を開こうと力を込めるが扉はびくともしなかった。
夕凪は自分の血で描いた手形を取り出し、扉の取っ手にそれを巻き付ける。
瞬間、何かが弾けるような音が鳴り、取っ手に手を掛けると扉はいとも容易く開かれた。
(結界ねぇ。ほんとにファンタジーの世界なんだな)
改めて自分の置かれた状況を認識し、苦笑いのまま溜め息を吐いた。
(どういう経緯でこうなったのか。全く分からないが、ともかく鍵を持って行かねぇと)
片方の扉を引き、中へと入る。
広がっていた風景は、およそ牢獄の敷地内とは思えないほどの生活感を感じさせる部屋だった。テーブルに椅子、キッチンに食器棚、くつろぐためのソファがあり、クッションと可愛らしいクマのぬいぐるみがこちらを向いて座っている。
広い部屋の奥手にそれらの家具や設備が備えられており、部屋の手前側には西洋の甲冑が一式飾られ、その他にも不気味な仮面やシカの頭、巨大な壺に宝の入っていそうな箱などが所狭しと置かれている。
(なんて趣味してんだ。いや見た目通りなのか。どっかの民族の長みたいな恰好してやがったからな。部屋の趣味はそのままって訳か)
明かりをつけて室内を見回し、その異様さに少しばかりの不安を抱きながらも、夕凪は迷わずキッチンの方へと向かった。
食器棚の前に立って一呼吸し、それからガラス戸を開いて中を物色し始める。左端の棚から始まり、順番に右へと移動していく。上のガラス戸を探し終えると、下の引き出しを開け、きれいに整列したフォークやスプーンをキッチン台の上に出していく。
(これじゃあないな。これでもない、これでもないし……もしかしてこれか)
引き出しから出てきたのはそれまでのむき出しの食器類ではなく、不思議な紋章の描かれた黒塗りに金の装飾の美しいケースだった。
上側が四角い五角形を四分割し白と黒で交互に色付け、その上に四本の剣の先端が中心を向いて描かれた紋章。剣の部分はケースの表面に浮き出しており、細い光沢が剣の先端まで伸びている。
(あれ、この紋章どこかで……)
首を傾げ、しばし考えを巡らせる。
「思い出した。あの剣士コスプレの男の胸についてた奴だ」
手の平に握り拳を打ち付けながら、自分の記憶に納得する。
ミスタスと呼ばれた青年の正装に付けられた同様の紋章。それはこの国において騎士団を表す証であった。
「確か、騎士団とか言ってたっけ」
◆
『いいか、絶対にミスタスにだけは遭遇するなよ』
(ミスタス、誰だそれ)
『あんたを尋問室まで連れて行った男だよ』
(あいつか、俺を蹴り飛ばした。でもお前の話じゃ、脱獄の日はそのミスタスって奴はいないんだろ。それだけじゃなく、ゼム婆やマリルっていうシスターも)
『そうだ。ゼム婆とマリルは評議会、ミスタスは騎士団の総会に出向いているはずだ。偶然にも重要会議が重なったな。これ以上ない絶好の脱獄日和だ』
(なら心配いらねぇじゃねぇか)
『一応の話だ。ともかくミスタスに出会ったらすぐに逃げろ。私との協力の話は無視してもいい。外へ出るか、もしくは逃げられないと悟ったらその場で観念しろ』
(えらく弱気なんだな)
『あんたの命のためだ。ミスタスに立ち向かえばあんたは確実に殺される』
(そんなにヤバいのか)
『奴は他の看守とは明らかに違う。騎士団の称号を持ち、ゼム婆と共にここの管理を任されている奴だからな。この牢獄においてミスタスは最強に位置する。加えてあいつは囚人に対して容赦がない。歯向かおうとすれば、即首を斬られる危険性がある』
(いやいやいや、殺人鬼かよ。そいつの方がよっぽど犯罪者じゃねぇか)
『話を聞くだけならそう思うかもしれないな。とりあえず一応の警告はしておく。何かあったときは自分の命を第一に考えろ』
(それじゃあお前はどうするんだよ。ここから出られないじゃねぇか)
『その時はその時だ。自力で何とかするさ』
(何とかって、それが出来れば俺に声なんてかけてないだろ)
『それともう一つだけ言っておかなければならないことがある』
(まだ危険な事があるのか。勘弁してほしいぜ……)
『これはあんたが注意すれば何ら危険なことではない。これから取りに行く鍵についてのことだ。いいか、決して鍵には触れるな』
(いや、鍵に触れないでどうやって持ってくるんだよ)
『鍵の入れられたケースのまま持ってこればいい。何度でも言うが、絶対に鍵には触れるな。あのカギにはな……』
(分かった分かった触れないよ。絶対絶対触れません)
『本当に分かっているのか』
(分かってるって、心配すんな。俺だってそこまで馬鹿じゃねぇよ)
◇
食器棚に入れられた黒塗りに金の装飾が施されたケースを前に夕凪はそっと肩の力を抜いた。軽く深呼吸をしてもう一度ケースをよく観察する。
(多分これだよな。形はあいつの言ってた通りだし、でも一応中身は確認しておいた方がいいか。触るなとは言われたが、見ちゃいけないなんて言われなかったし。そもそもこれで間違えた物持って行ったら元も子もないしな。確認はしとかないと)
恐る恐るケースの留め金具に指を掛ける。鍵はされておらず、夕凪の力でも簡単に留め金具を外すことが出来た。
両手をそっと蓋の側面に押し当て、ゆっくりと蓋を開ける。
中に入っていたのは、五本のティースプーンだった。艶のある赤い布の上に等間隔で並べられた金のスプーン。先の形状は紛れもなくスプーンであり、柄尻の部分だけが鍵の形状をしている。
(本当に鍵がティースプーンだとは。聞いてはいたが、想像以上の綺麗さだな。一本持って帰りたいくらいだ)
蓋を開いてから間を置くことなく、夕凪の右手親指と人差し指がスプーンの柄を掴み、何の躊躇いもなく目線の位置まで持ってくる。
(本当に美しい。何ていうかこの透き通ったような光沢が俺の心を優しく溶かしてくれるっていうか、あれ、え、あっ)
自らの行いを目撃し、戦慄が走る。
(あれ、どうして手に取っちゃってるんだ。あれだけ言われて、注意されて理解していた筈なのに)
動揺を隠すことも出来ず、直ぐにそれをケースの中に仕舞う。ケースの蓋を閉じ、金具を止め、それを片手に出口の扉へと体の向きを変える。
走り出そうとした夕凪の一歩が踏み込んだ瞬間に停止する。
視界に映る光景に両目を見開いた。
(甲冑が、それに仮面も)
ガタガタと音を立てて震え出すオブジェたち。まるでそれ自身が生命を宿したかのように独りでに動き出し、ふら付きながら夕凪の方へと近づいてくる。甲冑は腰に備えた剣を引き抜き、仮面や動物の頭は宙を浮かび、ソファに座っていたクマのぬいぐるみは二本足で立ち上がって拳を構える。
「トラップ、だよな……」
ティースプーンに施された二つのまじない。それは侵入者撃退用のトラップを作動させるスイッチと、ティースプーンに触れさせるための魅惑のまじないだった。
「逃げよ」
思い立った直後、眼前に迫っていた甲冑が剣を振り上げた。
慌ててキッチン台を飛び越え、夕凪は居間に転がり込む。僅かに遅れてキッチン台が断ち切られる音が聞こえてくる。
(いって、殺す気かよ)
転がった状態から素早く起き上がり、一直線に出口を目指す。その死角から、可愛らしいクマのぬいぐるみが夕凪の左わき腹目掛けて蹴りを打ち込む。柔らかい素材でできているとは思えないほどの思い一撃に、夕凪の体が軽々と部屋の隅まで飛ばされる。
「かはっ、うそだろおい」
悶絶する夕凪。しかし、攻撃の手が止むことはない。侵入者が行動不能になるまで停止することのない自動運転のセキュリティー機能は、夕凪の周囲を取り囲み、逃げ道を徐々に塞いでいく。
(やべぇ)
脇腹を左手で押さえ、どうにか起き上がる。直後、鼻先を稲妻のような光が駆け抜けたかと思うと、次の瞬間には夕凪の右前方の壁が粉々に吹き飛んだ。
「レーザービームってそれありかよ」
見ると、三日月形に開いた仮面の口が水色に輝いていた。
「飛び道具はなしだろ、バカ野郎っ!」
水色の光が激しく発光し、その口から眩い光の線が空気を突き抜けて夕凪の背中を掠める。爆発と共に飛ばされる夕凪。粉塵が辺りを覆い、扉との間を遮っていく。
「痛いっ、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い……」
背中に生ぬるい感触が広がる。同時に感じる激しい痛み。
床を這うように、夕凪は扉があるであろう方向へと進んでいく。
そして、その前に立ち塞がるぬいぐるみの両足。
「何だってんだよ、くそがっ。こんなとこで死ねるわけねぇだろ」
頭に浮かぶ妹の後ろ姿。決して振り向くことのないその背中を追いかけて夕凪はこれまでを生きてきた。
「こんなところでやられてたまぐふっ!」
顔面を蹴られ、体が跳ね上がる。浮遊する仮面と頭の影が視界に映り込み、体はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
(これ、マジで死んじまう)
吐息だけが口から漏れ出し、全身の力が次第に失われていくのが分かる。
片手を床につき、どうにか上半身を起き上がらせるが、それ以上動くことが出来ない。背後に甲冑が動く音が聞こえ、ふわふわと浮かぶ仮面と頭がいつでも夕凪の体を打ち抜けるとばかりに光線の標準を合わせた。
その時だった。
コンコン――
出入り口の扉がノックされる音が聞こえ、まもなくして扉が開かれる。
廊下の窓から射し込む光を背に何者かが立っている。逆光で見えないその影が部屋の中へと入って来る。
(看守、こんな時に)
自分の着ている服と全く同じ服を着ている何者かは部屋に一歩踏み入れるなり、室内の状況に驚いて立ち止まった。同時にクマのぬいぐるみが新たな侵入者の方を振り向く。夕凪の周りを取り囲むトラップ群の全てが、新たな敵を認識するように硬直した。
(今しかないっ!)
痛みを堪え、夕凪は立ち上がる。
「そこを退けぇぇぇええええええっ!」
扉の前に立つ看守に向けて渾身の右拳を振り放つ。
しかし、その一撃は看守の体に触れる寸前のところで呆気なくいなされ、相手に重心を取られた夕凪の体はいとも容易く宙を舞い、そのまま一回転して廊下の床に叩きつけられた。
言葉すら出ない。微かな呻き声だけが耳に響き、力を失くした体は廊下に伏した。
「何をしているの、早く立ちなさい」
「はぁはぁ……」
「早く立って牢獄棟にその鍵を届けなさいっ!」
「はぁ、はぁ、はぁ?」
肩を持ち、看守は強制的に夕凪を立ち上がらせた。
「これはどういう、あれ、お前、女の子?」
バチンッという音を立てて看守のビンタが夕凪の頬を捕える。
「いってぇっ!」
「さっさと起きろ。あなたの仕事はまだ終わってないでしょうが」
「お前、誰だよ」
「誰でもいい。それよりも早く……」
耳を引き裂くような警報音が突然鳴り響いた。敷地内全域に届くほどの大音量のサイレンは、牢獄に努める者全員に異常事態を知らせるものであり、同時に侵入者である二人の胸にも焦りと不安を呼び起こした。
「気付かれた。早く行って、トラップは私が引き受ける」
背中を押され、夕凪は自然と走り出していた。
(何だよあいつ、いきなり現れて。でも、助けられたんだよな……)
焦りと不安以上の困惑が胸に広がり、後ろを振り返るが、あの少女の姿は通路の角に遮られて見えなかった。伝わって来るのは激しい衝撃音と僅かな振動のみ。
夕凪は引き返そうかと体の向きを変えるが、すぐにまた振り返り走り出した。
(止まってる暇はない。何だかわからないが、とにかく先を急がないと)
来た道を戻る。たったそれだけのはずなのに、帰りの道は行きの道以上に長く感じられた。
五階まで戻って来ると、同じフロアや下のフロアから複数の足音がこちらに近づいてくるのが分かった。
その足音の聞こえない通路を進みながら牢獄棟へと繋がる渡り通路の扉までやって来る。
門番の二人が夕凪の前で槍を構える。
「「緊急事態です。ここは通せません」」
(警報音による影響か)
夕凪は扉の前に立ちながら、決して二人から視線を外さなかった。
「緊急事態だと、それはこっちも同じだ。ゼム婆様からの通達だ。至急このケースを牢獄棟に持って行けとのことだ」
「しかし緊急事態はここを通すことは出来ません」
「分からねぇ野郎だな。これはゼム婆様からの指示なんだよ。今は緊急事態。指示を仰ぐべきは誰だ」
門番はしばし考え、
「ゼ、ゼム婆様です」
「分かったら通せ」
「「はっ」」
美しく揃った動きで槍を立て、門番は道を開ける。夕凪はそんな二人の間を通って、渡り通路へと出た。
「あと少し……」
眼前に聳え立つ棟は地上七階建て、最上階には巨大な鐘が取り付けられ、この地区に朝昼夕を告げる役目を追っている。
渡り通路に繋がるフロアを一階とし、そこから地下へと牢獄が設置され、刑が重くなるにつれて階が下がり、その中でも特に悪い行いをした者が地下五階にある牢獄へと収監されることとなる。
全面が鋼鉄で覆われた窓一つない建物は、捕まったら最後、罪を償うまでは決して出ることのできない牢獄として、フェンブリナ王国創立時よりこの地に建ち続けている。
風の勢いが先程よりも強く感じられる。
背後からは以前警報音が響いており、棟内の慌ただしさが伝わってくるようだった。
『やっと戻ってきたか』
牢獄棟の入り口扉を開いた直後、聞き慣れたあの声が頭の中に響いてくる。
『随分と時間が掛かったな』
「これでも最速でやったんだ」
『息が上がっているな。まさかお前、トラップに引っかかったのか』
「引っ掛かったよ」
『はははっ、はははははっ、あれだけ言っておいたのに、まさか本当にスプーンに触れちまうとはな』
「うるせぇな、黙ってろ。お陰でこっちは死にかけたんだぞ」
『それもそうだな。どうやってあの罠を突破してきたんだ』
「それが……」
恐らく今も看守棟で戦っているであろう少女の姿が頭に浮かぶ。
「誰かは分からないが、女の子に助けられた。看守服を着て、俺と同じように鍵を取りに来たようだった。俺が鍵を持っていることに気が付くと、その子は罠を引き受けると言って、俺を逃がした」
『女の子ねぇ。そうか、まぁいい。ともかく今は鍵を持ってくることが第一だ。その女の子のためにもな』
夕凪は迷うことなく階段へと向かい、駆け足で階を下っていく。
「他の看守たちは何処にいるんだ。できれば鉢合わせる前に居場所くらいは聞いておきたい』
『今この棟にいる看守は二人だけだ。受付で倒れている奴と、お前の牢獄前で倒れている奴。ここはいつも二人体制で囚人たちを監視している。牢屋から囚人を出すことがほとんどないからな』
「それ、ほんとなのか。幾ら犯罪者と言えどもそれは……」
『この牢獄に入れられる奴らは普通の犯罪者じゃないんだよ。ある基準を超えた者たちが入れられる、いわば特別牢獄なのさ。街で軽犯罪を犯した者たちはまた別の場所に入れられる。そこの環境はこことはまるで違う』
話を聞きながら、夕凪の頭に疑問符が浮かび上がる。
「ちょっと待てよ。それじゃあ俺の犯した罪はそんなに重かったって事なのか。どうして捕まったのかもわからないのに。知らない間に俺は一体何を仕出かしたんだよ。ていうか、まさかこのまま一生犯罪者暮らしってことも」
『一生犯罪者暮らしというのは保証してもいいぞ。よほどのことがない限り罪が消えることはないからな』
「そんなバカなっ!」
『太陽が見れるだけで良しとしよう。それにお前の無実の罪も外へ出て調べれば、明らかにすることだってできるかもしれない』
落胆の思いを隠し切れず、夕凪の足取りが徐々に重たくなっていく。
「いやいや、ちょっと待てよ。だとしたらお前はやっぱり大犯罪者じゃねぇか。それも超がつくほどの」
『心配するな。別にお前を取って食おうなんて思っちゃいないよ』
「ほんとかよ。てかやっぱりお前、自力で脱獄できたんじゃ」
『それは無理だよ。私の入れられてる部屋はこの棟の中でも特別製。決して中から開くことのできない造りになっているからね。強力なまじないが部屋を囲うように掛けられている』
「けど、こうやって外との交信は出来てるじゃねぇか」
『それはわざとそうやっているんだよ。囚人と看守が話す際はこれと同じ方法を使っているからな。声を出しても外には聞こえない。代わりにテレパスでの話は出来る』
「何だよそれ、意味なくないか」
『単純な話さ。この部屋の扉は決して開かない。いついかなる時でも絶対にな。たった一度だけ開くことがあるとすれば、それは私が死刑台に送られる時だけだ』
「死刑台って、それじゃあそこにいる奴らは全員……」
『そういうことだ。言ったろう、ここは普通では入れない特別な牢獄なんだ。刑の重さは折り紙付きだ。さて、これ以上の無駄話はしてられない。早く地下五階まで来い』
地下四階、あと一階分の階段を下れば、ようやく目的のフロアへと辿り着く。
「な、なんだ……」
夕凪の足が突然止まる。まるで水の中に踏み入れたような抵抗感が足首の辺りに纏わりついてくる。一歩進むごとにその感触は体を登っていき、次第に呼吸すらも苦しくなる。
(進めない。体が進むなって言ってるみたいだ)
瞬間、夕凪の腹が弾け飛び、大量の血液が辺り一面に飛び散った。なおも流れ出す血、夕凪は階段から足を滑らせ、そのまま下へと転がり落ちた。
身体の動きが止まった頃には、夕凪は地下五階の扉の前に横たわっていた。
意識が朦朧とし、呼吸もままならない。
『しっかりしろ。目を覚ませっ!』
「このまま死んじまう……」
『死ぬかバカ。幻覚だ、いいから目を覚ませ』
はっ、と我に返ったとき、夕凪の腹からは先程まであった巨大な傷口は跡形もなく消えていた。
「幻覚……」
『強い霊気に当てられたな。気をしっかり持て、その扉の先はもっと濃い霊気が充満している』
壁に手を付き、体を持ち上げる。自分の体とは思えないほどに重たく鈍い脚を動かし、どうにか扉の取っ手を掴んだ。
扉を開き、中へと入る。
そこは他の階とは明らかに違っていた。
夕凪が収監されていた一階のように、通路の脇に独房が並び、看守が囚人を監視できる造りではなく、フロアの中央に比較的広い空間があり、それを取り囲むように五枚の扉が並んでいる。
左右の壁にそれぞれ二つと前方の壁に一つ。扉の上には左から順に1から5までの数字が振られていた。鉄格子ではなく、穴一つない一枚板の扉。扉の表面には複雑な幾何学模様が刻まれ、所々に宝石がはめ込まれている。
そして何よりも違うのは、この場にいるだけで感じる全身を締め付けるような異常なまでの圧迫感だった。
丸一日ここにいれば、頭がおかしくなると確信できるほどの異様な雰囲気。
地下五階へと繋がる階段に足を掛けただけでも、死のイメージを植え付けられた夕凪にとっては、その空間自体が死に近い苦しみを与えてくる。
(ヴぐッ、か、かっ、息、が……。苦しい。死にそうだ。このままじゃ、早く、早く鍵を開けないと。どれだ、どの扉を開ければいい)
『2だ』
(2…2……)
眼球のみを動かし、右手にある『2』と書かれた扉を確認する。片手で胸を押さえて、今にも泣きそうな表情で必死に扉の方へと歩んでいく。
(待ってろ、今、開けてやるから)
《待て、その扉は開けるな。私は5の部屋にいる》
(はぁ? どういう、こと、なんだよ。あれ、頭の中にまた声が。同じ声だけど同じじゃない。これは……)
声色は同じ、しかし、話す内容は明らかにその者が別人であることを物語っていた。
(ここに来て何なんだよ)
【落ち着け。私はまだお前の傍にいる。私は1の部屋だ。間違えるな】
(また別の……くっそ。扉を間違えれば、開けた瞬間に俺は間違いなく殺される。絶対にミスは許されない)
鍵の入ったケースを開け、全ての鍵を握り締める。ティースプーンの形をした鍵の柄にも同じように1から5までの数字が振られている。
(どうすればいい、どの扉を開けばいい………)
フロアの中央に立ち、扉を順に見回していく。どの扉にも形的な差異はなく、質感にも変わりはない。
どの扉を見ても全て同じ。
(どれだ、どれなんだ……)
微かに聞こえてくる小さな物音。
その音は次第に大きくなっていき、地下五階のフロアへと続く扉まで辿り着く。
「だ、誰か来た……」
扉が外から開けられ、現れたのは、
「見つけたぜテメェ、よくもさっきはやってくれたな」
扉の向こうにいたのは、つい数十分前に夕凪が牢屋の前で気絶させた看守の男だった。息は荒れ、額に幾筋もの脈を波立たせ、男はゆっくりと夕凪の方に近づいてくる。
「ぶっ殺してやる。テメェはこの場で死刑確定だっ!」
歪んだ笑みを作る口元からは唾液が垂れ、血走った男の眼が夕凪を睨みつける。
(くっそ、どれだ、どれなんだ。くっ…こうなったら一か八かやるしかねぇっ!)
夕凪は看守に背を向けて、扉の方を見た。
一度鍵の束を見下ろし、また扉を見る。
背後から迫り来る看守の足音が聞こえ、夕凪は長く息を吐き出した。
(一発勝負!)
『2だっ!』
《5の部屋っ!》
【1にいる】
頭に響く複数の叫び声。心を落ち着け、鍵を取る。
〈3、ミスタスの尻にはほくろが三つある〉
夕凪は走り出した。四本の鍵を捨て、一本の鍵を握り締めながら、扉へと手を伸ばす。
錠が外れる。
直後、背中に巨大な重みが掛かり、夕凪の体は床に突っ伏した。後ろ手に縛られ、身動きを封じられる。
「捕まえたぜぇ」
(たす…けて……)
夕凪は小さく願った。床に顔を押し付けられながら、両腕を今にも折られそうになりながら、それでも夕凪は願った。
「ただで死ねると思うな。テメェはこれからゆっくりとこのお…れ……が………」
両腕で掴んでいた看守の手から急激に力が失われていく。腕の縛りは緩まり、ふら付いた看守の体はその流れのまま夕凪の隣に横たわった。
看守は完全に意識を失っている。
「正解だったな」
「男の尻にあるほくろの数なんて聞きたくもなかったがな」
「何を言うか。ナイスヒントだっただろう」
「もう少し早く言ってくれ。そしたら迷わずに済んだんだ」
「まぁ結果オーライさ」
倒れた夕凪の前に立つ一人の女性。
長い金色の髪を揺らしながら腰に手を当て、女性は笑みを浮かべている。
「思ってた以上の美人だった」
「誉め言葉なら受け取っておくよ」
女性はこちらを見上げる夕凪に微笑んで見せ、静かに手を差し伸べた。
「チャーム=ナフィビエント」
「夕凪颯也」
「夕凪か、いい名前だな」
そう言って、チャームは笑った。