『Help』
春の涼やかな風が吹き抜ける昼下がり。
「ふぅあ、今日の授業終わったぁ」
「退屈だったな、一時間半」
「ほんとだよな。高校の頃とは違うっていうか、集中力続かねぇ、マジ疲れる」
「一限から三限までぶっ通し。最後の授業に限ってはほとんど寝てて覚えてねぇよ」
「あの授業マジでつまんないんだよな。ずっと黒板書いてるだけだし。何喋ってるのかもわからねぇ。来週行くのが嫌になるな」
「サボるか」
「いいねぇ、おい夕凪、お前はどうだよ」
「ん、何が?」
「話ぐらい聞いとけよ」
「ごめん、ライン打ってて聞いてなかった」
手にしているスマートフォンをポケットにしまい、夕凪と呼ばれた少年は改めて隣を歩く二人の方を見た。
「ラインって、相手誰だよ。まさかお前、一人だけ抜け駆けして」
「違う、親だよ親。ゴールデンウィークに帰って来るのかってうるさくてさ。まだ大学始まって一カ月なのに、どうしてわざわざ帰らないといけないんだよ」
「そうか、俺んちはゴールデンウィークは全員実家に帰って来るぜ。俺も帰るし」
「俺もぉ」
夕凪は肩眉を上げ、怪訝な顔を前面に押し出した。
「どうして、そんなに嫌そうなんだよ」
「別に嫌って訳じゃないけどさぁ」
黙って空を見上げると、雲一つない青空が広がり、眩いばかりの太陽が白く照っていた。
「だってさぁ……」
正門へと通ずる広場を歩きながら、夕凪は行き交う学生たちを見回していく。冬の空気が少しばかり残るこの季節、皆の服装はまだ厚手のものが多かった。
「ようやく家を出られて、これから新生活っていう感じだろ。四年間の大学ライフを満喫するためには今が一番大事な時期なんだ。大学生という新たなる階級に昇格した俺たちは、この場所で最高のキャンパルライフを送らなければならない。その為には何をするかを明確にしないといけない」
「何をするか?」
「クラブ、サークル、ボランティア、その他にも色々なものが、今この瞬間を起点にして始まっていく。そこで俺たちが何を選択するのか、そこが一番大事なわけだ。そして、それを考えるための時間がゴールデンウィーーーーーークっ! ここで全てが決着する。四年間の集大成は既に始まっているんだよ」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟なもんか、いいかよく聞けよ。大学ってところはだなぁ。今の俺たちにとってみれば……」
「はいはい、分かりました」
「颯也は持論を話し出すといっつもこうなるよな」
「悪いかよ」
夕凪は顎を突き出しながらそっぽを向いた。地を這うように冷たい風が流れ、夕凪は身を震わせる。
「さむっ、やっぱり寒さは天敵だ。俺が打倒するべき最大クラスの猛獣と言えるかも……」
「何言ってんだよ。それよかお前、レポート明日までだぞ。ちゃんと出来たのか」
「レポート……」
「昨日も言っただろうが、先週出されたやつだよ」
「あっ」
口半開きで硬直する夕凪。大学生活で初めて出た課題の内容が頭に浮かぶ。
「こいつ、やってないな」
「みたいだね」
冷たい視線を送る友人二人は、呆れたように両手を肩まで上げて首を振った。
「ヤバいってそれは、ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいっ!」
「大丈夫だって。最初のレポートだし、どうせ点数には響かねぇよ」
「聞こえてないみたいだよ」
落ち着かせようと気を使った友人の横で、一人両手で頭を掴みながら今にも叫び出そうかというほどパニックになる夕凪。
「落ち着けって、大丈夫だって」
「いいやダメだ。大学生活の始まりで躓くわけにはいかない」
「でも、今日は受験時期に撮り貯めたアニメを見る日なんだろ。そっちの方が大事なんじゃないのか」
「た、確かに、くっ、どうすれば……」
「僕のレポート、コピー取る? 完コピされたら困るけど参考にはなるよ」
「あなたは神なのですか」
一切の躊躇なく、差し出されたレポートを受け取り、そのまま構内に設置されたコピー機の元へと走り出す。五分後、息を荒立てながら帰って来た夕凪はレポートの原本を友人に手渡した。
「神よ、ありがとう」
「どういたしまして」
ようやく正門に辿り着き、三人はそれぞれの帰り道の方へと進路を変えた。友人二人は夕凪とは逆方向へと歩いていき、夕凪は一人で帰路についた。
日を追うごとに太陽が出ている時間も長くなり、午後四時になっても空はまだ青かった。通りに並ぶコンビニに立ち寄り、好みのスナック菓子と新聞三冊を買い、下宿先へと帰宅する。
古びたマンションの二階の角部屋。ワンルームで、月三万円ほどの家賃で借りている現自宅は、夕凪の念願が叶ってようやく手に入れた楽園だった。
親に自宅から通え、と言われ、一時はどうなるかと思った夕凪だったが、再三反対を押し切って、こうして自分だけの住まいを手に入れた。
「ただいま」
部屋の扉を開け、靴を脱ぎながら小さく呟いた。部屋は真っ暗で誰もいない。一人暮らしに慣れていない間はこういう癖も仕方ない、と夕凪自身も納得している。
部屋に上がると、直ぐに明かりをつけた。丸い蛍光灯が白く光り、室内を照らす。
勉強用の机と椅子、ベッドが壁に沿って置かれ、部屋の真ん中には小さな木のテーブルがある。テーブルの上には今朝飲んだお茶のコップがそのまま残っていた。
そして、ベッドとは反対側の壁には、壁一面を覆うほどの地図が張られ、その地図の至る所に切り取られた新聞の記事がピンで止められていた。
その内の半分以上は、○○歳の女の子が突然失踪、少女が忽然と姿を消す、などの題で記事の文章が始まっている。部屋の隅には雑誌が積まれており、テーブルの下にも何冊か転がっていた。
「帰ったよ」
そう言って、テーブルに置かれた写真立てに笑い掛ける。
写っていたのは、夕凪颯也と、彼に似た顔つきの可愛らしい少女。
兄妹で撮った写真は手元にはこれ一枚しか残っていない。
「湊、待っててくれよ。必ずお兄ちゃんが見つけ出してやるからな」
毎日その言葉を呟くたびに果たされない願いを思って胸が痛む。
帰りに買った新聞をテーブルや机に広げて順番に読んでいく。これといった記事もなく、一時間ほどで読み終わった。
椅子に腰を下ろし、肺に溜まった息を吐き出す。
「ふぅ、レポートか。やる気しないな。アニメも見る気しないし。どうするか……」
考えた末に、夕凪は提出期限明日までのレポートに取り掛かり始めた。間に合う保証もないが、やらなければならないという義務感だけは胸に残っていた。
「レポートやってる時間があるなら、ネットで情報漁ってる方がいいかな」
力なく囁いた言葉は無音の部屋に掻き消された。それと同時に机の隅に置いていたスマートフォンが振動し、画面が明るく光った。
「母さんからか」
電話のかかってきた相手は今も実家にいるであろう夕凪の母だった。少し躊躇いを見せつつも、画面を通話モードに切り替えて耳に当てる。
「母さん、どうしたの」
『どうしたのじゃないわよ。ゴールデンウィーク、帰ってこないのあなただけよ』
「だから帰らないって言ってるだろ」
『馬鹿なこと言ってないで帰って来なさい。湊にお線香上げてないのもあなただけなのよ。一度帰って来て、仏壇の前で手ぐらい合わせなさい』
「ふざけんなよ。どうして、死んでもいない妹の仏壇に手を合わせなきゃいけないんだよ。おかしいだろっ!」
『おかしくないわ。私はあなたのために言ってるの。いなくなった湊を二年間も追いかけて、大学受験だってあったのに。あなたが前を向くために、区切りをつけるために、私は仏壇を買ったの。私だってねぇ、本当は買いたくなかった。でも仕方ないじゃない。ずっと必死になって湊を探し続ける颯也の姿を見ていたら、もうこれ以上頑張らないでって思ったのよ。苦しい思いを引きずりながら生活しているあなたを、もうお母さん見たくないの。お願い分かって』
「分からないよ」
夕凪は電話を切った。スマートフォンをベッドに投げ捨て、椅子の上で項垂れる。
「今帰ったら何のために家出たのか、分かんねぇだろ」
しばらく天井を見つめてから机に置かれていた時計を見た。
「もうこんな時間か」
時計は午後六時四十分を指し示し、時間を確認した途端、腹の虫が鳴り、全身に脱力感が巡った。
「晩飯買いにコンビニ行くか」
椅子から立ち上がり、財布をポケットに入れて上着を羽織り、玄関へと向かう。
「さむっ」
扉を開けると冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。身体を縮め、風が過ぎ去るのを待って家から出た。
『助けて』
外へ一歩を踏み出した夕凪の耳元に囁くような声が響く。
辺りを見回し、誰もいないことを確認する。
(聞き違いか、それとも隣の人かな)
考えは巡ったが、直ぐに切り替えてコンビニを目指した。徒歩五分の場所にあるコンビニはこの辺りで一番強い照明を発している。
「ふぅ暖かい」
中に入るとそこは天国のように暖かな気候だった。雑誌側から回り、一通りの雑誌を眺めてから飲み物コーナーを通って弁当が陳列された棚にやって来る。
「唐揚げか、鶏南蛮か、これは迷うぞ。どちらも鶏、しかし、料理の本質を考える上では鶏という言葉で一括りにすることは出来ない。唐揚げとおろしポン酢が醸し出す酸味の利いたハーモニー。鶏南蛮とタルタルソースのまったりとしたコク。う~ん、これは迷う。どうしよう、どうすればいい」
ぶつぶつと何かを呟いている夕凪の姿に、コンビニの店員が冷ややかな視線を送っていることを夕凪は知らない。
「鶏南蛮、お前に決めたぞっ!」
高々と弁当のパックを掲げ、さながら試合に勝利したアスリートのごとく勝ち誇ったような気分に浸る夕凪は、更にお茶五百ミリリットル一本を購入し、コンビニを出た。
辺りは夜、コンビニの光が届く範囲以外はほとんど真っ暗だった。
「さぁ帰ろう」
コンビニの角を曲がり細い道に入っていく。街頭は十五メートル先の角に一つ。静けさが通りに充満している。
「鶏南蛮が冷めちまう」
レンジでチンした熱々の弁当を持ち、駆け足で自宅へと向かう。突き当たりの角を曲がれば自宅が見える。
街灯に照らされ、夕凪の影が地面に伸びた。
『助けて』
足を止めて振り返る。
「誰だ」
振り返った先にはやはり誰もいなかった。悪寒が背筋を駆け抜ける。ゆっくりと後退りし、周囲に視線を配った。人や動物の気配は全く感じない。ただ、何かしらの圧迫感だけは確かに存在していた。
「んっ」
視界の端で動く何かを捕える。
「俺の影が……」
街頭の下で、うねうねと揺らめく夕凪の影。まるで生き物のように形を変えていくそれを見て、夕凪は、
「うわぁぁあああああああああっ!」
叫ぶと同時に走り出す。
(何だよこれ、ヤバいって、マジでヤバい)
全力疾走。
途中で背後を確認するが、影はまだ夕凪の足元にある。それもそのはず、元よりそれは夕凪の影。幾ら走ろうとも振り切れるはずがない。
角を曲がろうとしたところで足がもつれ、そのまま地面に倒れ込む。
「いってぇ」
膝に痛みが走り、思うように力が入らない。それでも無理矢理立ち上がろうとした夕凪だったが、背後にある街頭に照らされた黒い影を見た瞬間、全身が凍ったように固まった。
まるで液体のように地面から浮き出す影は、夕凪の頭上をゆっくりと覆っていく。
「ははは……、マジかよ………」
その日、夕凪颯也は自分の影に飲み込まれた。