三話 憎悪と脅威
ヴェロニカはオーディに近付くと、その口に張られたガムテープを一気に引き剥がした。
「こんな事をして、ただで済むと思っているのか」
同時に彼女を睨みつけ、オーディはドスの利いた声で凄んだ。
そんな彼を怖れる事無く、ヴェロニカは顔を近づける。
その顎を掴み、観察するように動かす。
「じゃあ聞くが、あんたは自分が死んだ後でも部下が仇を取ってくれるほど慕われていると思っているのか?」
ヴェロニカは彼を殺すつもりである事を暗に示した。
「俺には忠誠心の厚い側近がいる」
オーディもまた恐れを見せなかった。
命を握られている今の状況でも、怯えた様子は見えない。
これくらいの度胸がなければ、ギャングのボスなどやっていられないのだろう。
「はっはっは」
ヴェロニカは可愛らしい声で笑い、顎から手を放す。そのついでに軽くオーディの頬を張った。
怪訝な顔でオーディは彼女を見る。
「何がおかしい?」
「なぁ、俺達がどうしてこの家で、この家の主であるあんたを前に笑っていられると思う? こんな事があるのに、誰も来ないな。俺の手勢はチンピラの寄せ集め程度だが、あんたのボディガードはそんなチンピラに負けるような無能揃いなのか?」
その言葉で、オーディの顔に初めて動揺の色が浮かんだ。
口調は決して攻撃的では無い。
声音も朗々としている。
しかし、その一言一言には相手を追い詰める威力が乗っているようだった。
アランはそれが恐ろしく思えた。
ヴェロニカという少女を恐ろしく感じてしまった。
「気付いたみたいだな。そうだよ。ここまで手引きしてくれたのは、あんたに忠誠を誓っている側近だ。あんたを殺すと持ちかけたら、いろいろと便宜を図ってくれたよ。たいした人望があるじゃないか。あっははははははっ!」
ヴェロニカは楽しそうに大笑いする。
「今頃は奥さんも娘さんも、彼がまとめて面倒見てくれてるはずさ」
言いながら、手に持ったぬいぐるみをオーディの目の前で揺らした。
途端に、その顔から血の気が引く。
そのぬいぐるみは彼の娘が大事にしている物だったからだ。
「お前はそこの小僧のために俺を殺そうとしているんだろう?」
オーディはアランを視線で示す。
睨まれて、アランはビクリと震えた。
オーディはヴェロニカへ視線を戻した。
「だが、俺は直接の仇では無い。俺は力を貸しただけだ! 何故、俺を狙った!」
オーディからは、今までの毅然とした態度が崩れ去っていた。
表情は焦りに満ちて、痛みを伴う者特有の悲痛な顔をしている。
「確かに、あんた自身に関係はあまりないかもしれない。
彼の両親を殺させた時も、軽く一仕事終えたという意識だって無かっただろう。
可愛がっている子供に、駄賃の5セントを渡す程度の気持ちで手配したのかもしれない。
けれど、あんたがいなければ成り立たない事ではあったな。
だったら十分、彼の仇だ。俺としては、彼のために何かしてやりたかったんだ」
言って、ヴェロニカはアランを見た。
若干身を震わせながら、アランもヴェロニカを見ていた。
そんな彼に笑顔を向け、彼女はすぐにオーディへと向き直る。
「その一番最初があんただ。一番力のあるあんたがいいと思った」
「何故!」
「腕のいいスナイパーはヘッドショットを狙うだろ? それと同じだ。頭がなければ、手足は蠢く事すらできないからな。その方が簡単に事は進む」
三人の内、一番組織力を持っているのはオーディだ。
これから他の二人を狙うつもりのヴェロニカは、後顧の憂いを断つために彼を真っ先に始末しようと考えた。
二人へ手を出す前に、邪魔されないようにしようと思ったのだ。
実際、彼がいなくなれば他の二人など取るに足らない。
組織力を持たない人間など簡単に潰せる。
ヴェロニカは振り返り、アランに向く。
「さぁ、どうぞ。君の仇の一人だ。したいようにしてくれ」
手で示しつつ、オーディから一歩離れるヴェロニカ。
したいようにしてくれ。
そう言われて真っ先に思い浮かぶのは、報復だ。
きっと、ヴェロニカもそのつもりでこうしたお膳立てをしたのだろう。
そのための拳銃だ。
アランは息を呑む。
銃口をオーディへ向けた。
彼の顔が引き攣る。
そんな二人の様子をヴェロニカは笑みを湛えながら眺めていた。
戸惑いはある。
怖気づいてもいる。
手が震えるのは、銃の重みのせいだけじゃないだろう。
彼は仇の一人だ。
彼のせいで、アラン自身も、アランの家族も全員が不幸に陥った。
憎しみはある。
とても強い感情として心の中に居座っている。
その報復のために彼を殺す……。
…………殺すのか? 僕が彼を……。
僕は人を殺すのか……。
急激に、アランの中にあった怒りが萎んでいった。
人を殺したくない。
人を殺す事は、人が犯していい罪ではない。
アランの道徳心は、それを許さなかった。
たとえそれが、憎い仇であっても。
自分が人を殺してしまう事は恐ろしかった。
アランは銃を下ろす。
「僕には無理だ」
うな垂れたアランは呟く。
静かな室内には、十分その声が響いた。
オーディは命の危機がなくなって体の緊張を解く。
ヴェロニカは手に持ったぬいぐるみをオーディの膝に座らせると、アランの傍に寄った。
「そうか。じゃあ、仕方ないな」
あっけないほどに、ヴェロニカはその選択を受け入れた。
とても優しい声だった。
さっきまでの相手を追い詰める恐ろしさはそこにない。
むしろ今の彼女の表情には慈愛があり、アランを労わっているようですらある。
「なら、ここにずっといても仕方ない。行こうか」
アランの手を引いて、ヴェロニカは歩き出す。
そのまま食堂から出て行った。
その後ろを給仕してくれていた男が続く。
「このままで済むと思うなよ! 殺してやる!」
そんな彼らの背中に、オーディの怒りを込めた怒鳴り声がぶつけられた。
それを気にも留めず、ヴェロニカは屋敷の外へ向けて歩き続けた。
屋敷の外に出て、ヴェロニカは玄関の前で立ち止まった。
「シェフはどうした?」
ヴェロニカは給仕の男に訊ねる。
「デザートを作ってすぐに帰った。俺ももういいか? ハートレス」
彼の声にはヴェロニカに対する親しみがなかった。
むしろ、敵意すら感じられる声音だ。
ハートレス。
あだ名だろうか?
聞き覚えのある名前だったが、アランはどこでその名前を聞いたのか思い出せなかった。
「ああ、手間をかけたな。手間賃は後で振り込んでおいてやる。それから、イーストエンドの三番地にあるトランクルームだ。パスは「おかしなヴェロニカちゃん」だ」
けっ、と吐き捨て、男はその場を去って行った。
そんな様子の彼をアランは唖然と見送った。
「仲間じゃないの?」
「俺は手下を持たない主義だ。というか、信用できる人間はまずいないからな。自由になる手下は一人もいない」
「じゃあ、あの人はどうして協力してくれたの?」
ずいぶんと嫌っているようだったけど? という言葉をアランは飲み込んだ。
「妻子を人質にとって、協力させていれば当然だ」
その飲み込んだ言葉を察して、ヴェロニカは解を出した。
「純粋に信じるより、こうして従えた方が余程信用できるだろ?」
彼女だから言える事なんだろうな、とアランは思った。
この街で、信頼できる人間はとても少ないのだ。
相手の目を見て考えを察する事のできる彼女だから、こういう方法を取るのだろう。
アランは彼女に背を向けて、屋敷の二階を見た。
屋敷の入り口から、右側にそれた場所。多分、食堂があるだろう場所だ。
そこには真っ暗なつるりとした壁があった。
食堂にあった大きな窓はマジックミラーになっているらしく、外からは鏡張りに見えるようだ。
そのミラーが夜空を反射し、夜の色と星の瞬きを映していた。
「でも、大丈夫なんだろうか」
オーディの言葉がアランの心には突き刺さっていた。
彼はアランと違ってきっちりと報復するだろう。
その方法として殺害すら躊躇わずに行うはずだ。
自分が殺されるかもしれない。
それは勿論恐ろしいが、アランはヴェロニカの事が心配になった。
きっとオーディは、自分よりも彼女の方に強い怒りを懐いている。
「問題ないさ。彼には何もできないからな」
言って、ヴェロニカは胸のリボンをまさぐった。
手がリボンから離れると、彼女の手には何かのグリップみたいな機械が握られていた。
機械には赤いスイッチがあり、透明なプラスチックカバーで覆われていた。
ヴェロニカは親指でカバーを弾き開け、スイッチを押す。
瞬間、食堂から爆発が起こり、空間ごと震わす爆発音が夜の空に響いた。
マジックミラーの窓ガラスが吹き飛ばされ、炎が上がる。
夜空が赤く染まった。
アランはその光景を愕然とした表情で見上げていた。
「爆弾を仕掛けておいたんだ。椅子の下に」
ヴェロニカはあっけらかんと告げる。
吹き上がる炎と爆風から追われるように、何かがヴェロニカの元に落ちてきた。
ヴェロニカはそれをキャッチする。
それは、オーディの膝に置いてきた兎のぬいぐるみだった。
彼女は燃えるぬいぐるみの炎を手で払って消す。
しかしぬいぐるみは半分以上がこげ、モノクロになっていた。
プラスチックの目が溶けて、涙のように流れて固まり、耳は焼け落ちて短くなっている。
正直に言って、グロテスクなデザインになってしまっていた。
「中々にパンクなデザインだ。こういう美醜入り混じったニヒルなデザインは好きだよ」
ヴェロニカは、年頃の娘がそうするようにぎゅっとぬいぐるみを抱き締める。
「どうして、こんな事を……」
アランは思わず呟いた。
「これで報復の心配はなくなったろう?」
悪びれもせず、ヴェロニカは答えた。
そんな彼女にアランは唖然とし、何も言えなかった。
「それはいいとして確認したい事がある」
言いながらヴェロニカはじっとアランの目を見詰めた。
アランも彼女の目を見詰め返す。
瞳孔の闇の中に見える心の中を吟味するように、ヴェロニカはアランの目を深く覗き込んだ。
「復讐したくない?」
アランは答えられなかった。
正直言って、混乱している。
自分がどう思っているかも、すぐに思い浮かばなかった。
すると、ヴェロニカは別の質問をする。
「恨みは無いのかい?」
それは……。
これはすぐに思い浮かんだ。
けれど、答えられない。
だが、彼女に答えは必要なかった。
嬉しそうに彼女は笑った。
「恨みはあるんだね。なのに復讐はしたくないんだ。アンビバレンツだっ!」
ヴェロニカは、アランの中にある本音を見抜いたのだろう。
楽しそうに笑い続ける。
唐突に彼女は踵を返し、アランから離れた。
芝居がかった動作でくるりと回り、再び向き合う。
ぬいぐるみで口元を隠すようにして、ヴェロニカは伏し目がちに言葉を続ける。
その表情はとても上品で、深窓の令嬢が何事かを憂いているようだった。
「恨みはある。けれど、殺したくない。それは君のモラルが高いからか、純粋に手を汚したくないという潔癖さからなのか……。けれどどちらにしろ、俺にできる事はありそうだ。俺なりのやり方で、君の恩に報いる事はできそうだ。嬉しいね」
口元を隠すぬいぐるみをどけると、そこには三日月のように口角を上げた淡いピンクの唇が見えた。
ヴェロニカはぬいぐるみをぐるりと一回転振り回すと、そのまま炎上する屋敷の中へ放り投げた。
その様子をただ呆然と眺めるアラン。
彼はその時に気付いた。
自分は大きな間違いを犯してしまったのかもしれない。
自分は助けてはならない人間を助けてしまったのかもしれない。……と。
人を殺したにも関わらず平然と、それどころか楽しげですらある彼女を見て思う。
「後悔するぞ」
彼女が語った言葉は真実かもしれない。本気でそう思ってしまった。
しかしそれは遅かった。
彼はすでにヴェロニカという人間、それがもたらす災禍の中に巻き込まれてしまっていた。
きっと彼女からは逃げられない。
そんな確信めいた予感が彼の不安を掻き立てた。




