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ハートレス  作者: 8D
19/21

十八話 そして、それら全てを失う

 トンデモスペックなヴァイスさん。

 隠し通路の先には、一枚の扉があった。

 扉を開けると、今までの通路とは違った石造りのトンネルが続いている。

 そのトンネルを、ドアの前を始発として奥へ向かって線路が走っていた。

 ギギギ、と何かの滑走する音が響き、次第に小さくなっていくのが聞こえた。


 コーディネイターは、この線路を走るための何かを脱出装置として準備していたのかもしれない。

 しかし、それだけではヴァイスから逃れられない。

 大腿筋の70パーセントを人工筋肉へ置換されたヴァイスの走力は、時速100キロという数字をゆうに弾き出す。


 抜き身のサムライソードを鞘に収める。

 鞘に鯉口はなく、鞘はサイドが開き、そこへ刀身を収める仕組みになっていた。

 この鞘は内部に特殊な機構を持っており、サムライソードを入れた際に刃先の消耗を検知する。

 そして、自動研磨を行って短分子の刃先を維持するのだ。


 ヴァイスは一本道の線路を全速力で駆け出した。

 常人ならコンマの秒数で置き去りにする視界だが、改造を施されたヴァイスの脳はそれを任意で何倍にも引き伸ばせる。

 目的の相手、仕掛けられているかもしれない罠、それらを探しつつ恐るべき速さで目まぐるしく検めていく。

 事、視界内で起こる事象に対してなら、ヴァイスはどんな状況でも対応できた。


 そうして辿り着いた場所には、線路の終わりと一台のトロッコがあった。

 コーディネイターがすでに乗っていない事を確認すると、ヴァイスは顔を上げる。

 そこで初めて、その場所がとても広い空間である事を知る。


 その空間は多くの線路が張り巡らされ、そして収束する地点。

 それぞれの線路、各々の乗り場に古めかしい電車が停まっていた。

 その上を跨ぐ様に大勢の行き来をさせるための大きな歩道橋が設置されている。

 時代の波に追いやられ、廃棄された古い地下鉄のプラットホームだった。


 慎重にその場を探ろうとするヴァイス。

 しかし、そんな事をするまでもなく、非常事態は彼女の前へ現れた。

 電車の影や歩道橋の手すりの影などから、一斉に若い男達が身を乗り出した。

 その手には、アサルトライフルやサブマシンガンが握られていた。

 ざっと見て、二十人以上だ。


 ヴァイスは記憶していたリストから、男達の正体を探る。

 彼らはこの界隈にいるストリートギャングの一味である。

 ブルーマンズ。

 構成員は必ず青い服を着るという決まりを持ったチームだ。


 このプラットホームはコーディネイターの所有物である。

 彼ら、ブルーマンズへこの場と武器を与える代わり、有事の際に戦力として戦ってもらう契約をしていた。

 その機会が今訪れたのである。


「本当に来やがったぜ!」


 一人の男が高いテンションで叫ぶ。


「おい、お前ら! こいつを殺れば、俺達の名が街中に知れ渡る。ギャングにだって一目置かれるようになるぜ!」

「ああ! この変態野郎のマスクを剥いでさらし者にしてやるぜ!」


 男達は口々に気勢を上げる。

 ヴァイスは一つ溜息を吐き、黙考する。

 ブルーマンズは、強盗、恐喝、強姦、薬物密売などのあらゆる犯歴を持っている。


 こいつらはクズだ。

 間違いようのない悪だ。

 ならば殺すに値する。

 だから、覚悟を決めろ!


 ヴァイスは心の中で決意を固めると、次に辺りを観察する。

 そして目的の者を発見した。


 コーディネイターはプラットホームの奥、出口らしき場所の近くからヴァイスをうかがっていた。

 その顔には、優越感があった。

 この数には勝てないだろう、という顔だ。

 ヴァイスの敗北する様を鑑賞し、楽しむつもりでこの場へ留まっているのだろう。

 ヴァイスはその驕りに感謝する。

 見える位置にいるのなら、どうとでもできる。

 たとえその前に、多くの敵が立ちはだかっていようとも。


 この刃を届かせる事ができる。


 サムライソードが抜き放たれる。

 刃先は磨き終わり、鏡面の如き滑らかさが振り抜かれた刃の軌跡を描き出す。


「こいつ、マジであんなもんで戦う気かよ!」


 歩道橋の柱付近にいる男が、嘲笑しながらサブマシンガンの銃口を向けた。

 だが、その指がトリガーを引き絞る事はなかった。

 彼が瞬きをした次の瞬間、目に入っていたのは迫る白銀の刃だ。

 一瞬にして距離を詰めたヴァイスは、斜めに斬り上げて男の首を両断した。

 返すサムライソードで腰部を斜めに斬り抜く。


 一瞬の出来事に、その場の男達は何が起こったのかを把握できなかった。

 いや、きっとその後にも把握する事はできなかった。

 そこから先は、混乱だけが頭を占めていた事だろうから。


 呆気に取られた表情の男の首が落ち、胴体も腰から滑り落ちる。

 同時に、彼の背後にあった歩道橋の柱の半ばが、するりと抜け落ちた。

 ヴァイスは男の体ごと、柱すらも斬りとってしまっていたのだ。


 支えを失った歩道橋は自重に耐えられず、崩壊する。

 連鎖的に崩れた足場に巻き込まれ、数人の男が下へ落ちた。

 濛々と砂煙が立ち、煙幕のように視界を覆う。


 ヴァイスはその煙幕の中へと身を躍らせた。

 相手の落ちた場所を確認していたヴァイスはその場へ一直線に走り、通り過ぎながらトドメを刺す。


 煙幕内いた全ての人間を殺し切ると、次いでまだ形を保っている歩道橋の足場へ跳躍し、その上にいた男達へ向けて走り寄った。

 ヴァイスを見つけ、未だ呆然とする男を一閃して真っ二つにする。

 一人を斬り殺す頃には、他の男達が気付き銃口を向けてくる。

 今しがた斬り殺した男からアサルトライフルを奪い取ると、盾となるようにサムライソードで串刺しにして死体を持ち上げた。

 迫る銃撃を死体の盾でやり過ごし、アサルトライフルをフルオートで銃撃する。

 銃弾をばら撒きながら走り、相手へ迫るとボロボロになった盾を相手へ投げ捨てた。

 怯む相手をまとめて斬り捨て、また別の標的へ向けて迫った。


 そうしてヴァイスは、次々にストリートギャング達を排除していった。

 戦闘兵器としてのヴァイスを相手にして、ストリートギャング達に取れる手段などなかった。

 唯一できたのは、混乱と恐怖に苛まれながら自分の生が終わる時を待ちわびる事だけだ。


 それは、コーディネイターとて例外ではない。


 ヴァイスはプラットホームの広い空間を人間離れした俊敏さで縦横無尽に動き回った。

 サムライソードを閃かせ、ストリートギャング達を蹂躙していく。

 その様を見たコーディネイターは、その時になってようやく自分を追う相手の恐ろしさを実感し、踵を返した。


 ストリートギャング達が暇つぶしに書いた落書きだらけの通路を必死になって走る。

 そうして彼は、地上へ向かう階段の付近まで逃げ延びた。

 突き当たりの壁を左に曲がれば、そこはもう階段だ。

 壁に近付く。階段の一段目がチラリと見えた。

 安堵を覚える。


 その時だった。


 彼の頭頂を風が撫でていった。

 次いで、ガキッと音を立てて目前にある壁へサムライソードが突き刺さる。

 サムライソードが刺さるその場所には、カラースプレーのポップな文字で「デッドエンド」と書かれていた。


 デッドエンド。行き止まり。


 コーディネイターは振り返った。

 目前には、こちらへ向かって跳躍するヴァイスの姿が迫っていた。

 ヴァイスは空中でサムライソードの柄を掴むと、壁ごと真下へ一閃した。

 コーディネイターの両足の間に、振り抜かれた刀身が止まる。

 コーディネイターはその刀身を見下ろす。


 ふらりと体から力が抜けた。

 デッドエンドの壁へ倒れこみ、体をぶつける。

 その瞬間、コーディネイターの体が正中線にそってずれた。

 彼の体はヴァイスの一刀によって両断されていた。

 右半身は座り込むように落ち、左半身は切断面を下にして倒れた。コーディネイターの左目に、右半身から零れる自分の臓腑が映った。


 綺麗だ……。


 声の出ない口を動かし、コーディネイターはそう呟いた。

 その言葉を最後に、彼の目から光が失われていった。




「美しい……。芸術的だとは思わないか?」


 彼はうっとりとした様子で、僕に問い掛けてきた。

 芸術的って何だろう? どういった物が芸術的なんだろう?

 僕が今目にしている物の中に、それはあるんだろうか?


 僕にはわからない。


 その時、僕の視界にあったのは僕の内臓ぐらいだ。

 僕の右目は少し前に取られてしまったから、左目だけでそれを見ている。

 天井にある鏡越しに、僕は自分の内臓を覗いていた。

 ぱっくりとお腹が開かれているけど、局部麻酔のおかげで痛みは無い。

 ただ鈍い感触がある。

 メスで切られても、内臓を分け入られても、何かに触られているような感触しかない。


「私は、生きた内蔵を見る事が好きだ。そこには美しさがある。柔らかく脆弱な存在でありながら、これらは人の命を担っている。尊く、美しいだろう?」


 確かにそうかもしれない。

 お腹が減って、今にも死んでしまいそうな気がするけれど、確かにそれが動いているから僕は生きているんだ。

 ここへ来たばかりの僕は、こんな事を思えなかった。

 ただ恐ろしかった。

 けど、今は彼の言葉に少しの理解を示せる程度には、心が凪いでいた。

 少し前まで恐怖以外の事が考えられなかったが、いつしか僕はその恐怖すら感じなくなっていた。

 恐怖を懐くにも、エネルギーを消費するのかもしれない。

 そのエネルギーも尽きてきたから、恐怖を感じないのかも……。


 いや多分、違う。

 きっかけは他にあった。


 完全に右目が切り離された時だ。

 その時は、恐怖のピークにあった。

 そして恐怖の中に、僕が思ったのは一人の少女だ。

 自分を助けてくれるかもしれない頼れる存在だ。

 彼女ならきっと助けてくれる。

 だから思い描いたのだろう。

 すがる様に彼女の事を考えたんだろう。

 でもすぐに「本当にそうか?」と懐疑的な思いが浮かんだ。

 自分が思う感情は、本当に救済を嘆願する思いからでているのだろうか?


 そんな都合の良い事は無い。


 現実がそのように上手くいかない事はこの一年でよくわかったはずだ。

 悪意から始まった絶望は、その悪意から逃れても際限なく自分の心と体を食らっていったはずだ。

 それを体験したならわかるはずだ。


 希望なんてない。


 どんなに辛くて助けを求めたとしても、自分を助けてくれる存在なんていなかったじゃないか。

 今なら彼女の言った事がよくわかる。

 この町に、自分を助けてくれる人間はいない。

 そのはずなのに助けてもらえた時、それはとても不可解な気持ちになるだろう。


 僕は死を選ぼうとした。

 それは僕自身に生きていくための力がない事に気付いたからだ。

 死にたくなくとも、あまりにも苦痛に彩られた人生に耐えられなくなってしまった。

 なのに、都合よく助けに来る人物を想うなんて、今の自分にはできようはずがない。


 だったら何故、彼女の事が思い浮かんだ?

 何故彼女を想う?


 簡単な事だ。


 絶望の淵にある時、愛しい人を思い浮かべる事は当たり前なのだから。


 でも、彼女と共にいる事はできない。

 自分には、彼女の異常性を理解できない。

 彼女の行いを知れば、道徳心が許してくれない。

 一緒にいる事が耐えられない。

 だから自分は彼女から逃げ出した。

 彼女に惹かれていても、一緒にはいられないのだ。

 どんなに愛しいと思っていても……。


 その時思った。


 彼女と一緒にいる上で、道徳心とはなんて邪魔なものだろう、と。

 道徳が生み出す感情の揺らぎも、全ての根本となる「心」という物も、なんと邪魔なものだろう、と。

 彼女と一緒にいるならば、そういった物は全て必要ないんだ。


 ハートレス。


 そう呼ばれる彼女の側にいるには、きっと自分もそう在らなければならないのだ。

 そう気付いた。


 それと同時に、僕の眼球は完全に切り離された。

 ブツリと最後の視神経が切れ、頭蓋を叩き続けたキリキリというゼンマイの音が止まった。

 右の視界は永遠の闇に閉ざされた。

 同時に、僕はもう何も怖くなくなっていた。


「ふぅ、これはいい。君の内臓は、他に類を見ないほど美しい。すぐに殺す事はあまりにも勿体無いほどだ」


 感嘆の息と共に、彼は僕の内臓を賛美した。

 ありがとう。と心の中で礼を言う。

 彼は僕の腹部を縫合し始めた。

 とても正確でいて速く、そして丁寧な手つきだ。

 閉じ終わった縫合跡はミシンで縫ったように乱れが無い。

 これが名医と呼ばれる人間の縫合なのか、と思った。


「君をすぐに殺してしまうのは惜しい。栄養剤を点滴してあげよう」


 彼が笑顔で言った。その時だった。


 入り口のドアが開き、ヴェロニカとヴァイスとラットマンが部屋へ入って来た。

 そうして僕は助け出された。




「さぁ、最後の仇だよ。君の手で終わらせるんだ」


 彼女は僕に銃を差し出した。

 僕は銃を手に取った。

 一連の事に、僕は忌避感を覚えなかった。

 前はあんなに嫌だと思ったのに不思議だ。

 銃口をラットマンへ向ける。

 彼は両足を撃たれて、僕の前で這いつくばっていた。

 その顔は恐怖で歪んでいる。

 目には涙すら溜めていた。


「や、やめてくれよぉ! お願いだぁ! 俺が悪かったからぁ!」


 声は涙で滲んでいる。

 僕はトリガーを引き絞った。

 思っていたよりも反動が強かった。少しよろける。

 銃弾はラットマンに当たらず、後ろにある床で弾けた。


「ひゃああ、やめてくれぇ! あんた優しい人だ! そんな事ができる人じゃないだろぉ?」


 懇願するように、僕の顔を見上げてくる。

 その顔を狙ってトリガーを引く。

 またはずれた。

 意外と当たらないものだ。


「ははは、下手だなぁ。初めてだから仕方ないけど、それじゃあダメだよ」


 ヴェロニカが僕の銃を持つ手に自分の手を添えた。

 そのまま僕の手を導き、ラットマンの眉間に銃口を密着させた。


「これなら大丈夫だ。絶対に外さない」


 優しい声だ。

 僕に対して、ヴェロニカはいつもこんな優しい声で話しかけてくれる。

 彼女がそう言えば、絶対に大丈夫なのだろうと思える。


「あんたにはできない。あんたにはできない……」


 ラットマンは呪文を唱えるように、同じ言葉を口にする。

 じっと僕の目を見ていた彼の目が、堅く瞑られた。

 同時に、僕はトリガーを引いた。

 銃声と同時に、ラットマンの頭が後ろに倒れる。

 ボールの様に、頭が一度床でバウンドした。

 眉間には、弾痕があった。


 僕は初めて人を殺したのだ。


 僕は人を殺した時の心境を昔想像した事がある。

 人の人生を終わらせる事は、きっと辛いだろう。

 悔やむだろう。

 そんな事を考えて、実際に行ったわけでもないのに鬱々とした気分になった。

 なのに、実際は全然何も思わない。

 辛くもないし、悔やみもしない。

 僕がトリガーを引いたら、彼は死んでしまった。

 そんな客観的にもわかる事実以外、感じ入る事は一切なかった。


「やったなぁ。ついにやった。両親の仇を全員討ったんだ。嬉しいだろ?」


 ヴェロニカの嬉しそうな声。

 僕は振り返り、彼女の顔を見た。笑顔だった。


 これは嬉しい事なんだろうか?

 でも、実感が湧かない。

 僕は何も思わない。

 怖さだけじゃない。僕の心にはもう何も残っていなかった。

 本当にハートレスだ。

 彼女と、一緒だ……。




「怪我をしたの?」


 不意に訊ねられ、ヴェロニカは首を傾げた。

 アランはそんな彼女の足を指し示した。

 白いスラックスに血のような赤が滲んでいた。


「あー……。生理じゃないよ? 予定では三日後だ」


 大慌てでズボンのポケットを探ると、中にはラットマンの指が入っていた。


「買い物の後にレシートをポケットに入れたまま忘れる事ってあるだろ?」


 アランは無表情のまま答えない。


「おもらしだとでも思ったか? 君が、そういったものに興奮するなら、少しは応えてもいいけど……。町の往来で、とか言われると少し考えるな。……ああ、別に嫌とは言ってないよ」


 冗談めかしてまくし立てるヴェロニカ。

 だがやはり、アランは無反応だった。


「……つまらないな」


 アランの目を見て、ヴェロニカは表情を曇らせた。


「君はもう、俺の知る君じゃないんだな……」


 しんみりとした声で呟く。

 力なくうな垂れる。

 アランは今、ラットマンを難なく殺した。

 何の葛藤もなく、簡単に殺してしまった。

 その上で、何の感情も懐いていなかった。

 今までの彼では、ありえない事だった。

 きっと、今までの彼は死んだのだろう……。

 彼女はそれを理解した。


「ま、仕方ないな。それはそれでいい」


 打って変わって、彼女はとても明るい声で言い放つ。


「今の君なら、俺と一緒にいてくれる。そうだろ?」

「ああ」


 アランは頷いた。


「帰ろうか。俺達の家に」


 アランが頷くのを見て、ヴェロニカは外へ向けて歩き出す。

 通路を来た時と逆に進んでいく。

 リノリウムの廊下を、灯りに照らされながら歩く。

 そんな時だった。


「待て!」


 ボイスチェンジャーに歪められた声が二人を呼び止めた。

 振り返ると、二人の後ろにはヴァイスがいた。


「彼を置いていけ」

「やだね。彼は、俺の物だ」


 ヴァイスは聞こえない程度の小ささで舌打ちすると、サムライソードを鞘から放つ。


「なら殺す。もうお前と手を組む必要も無い」


 言い放つと共に、ヴァイスはサムライソードを振り上げ、ヴェロニカへ迫った。

 白く細い首を袈裟掛けに切り裂こうと狙う。

 だが、そこでヴァイスにとって思いがけない事が起こった。


 アランがヴェロニカを庇うように立ち塞がり、手にした銃をヴァイスへ向けた。

 ヴァイスの眼前に、銃口が向けられる。


「え?」


 ヴァイスの口から、驚きの声が漏れる。

 銃声が通路に響いた。

 咄嗟に顔をそらし、銃弾の直撃を避ける。

 丸いフルフェイスの表面を舐めて、銃弾が跳ねた。

 そして次の瞬間、アランの拳が横合いからヴァイスの顔を殴りつけた。

 特殊素材のフルフェイスを強打した拳が傷ついて出血する。

 ヴァイスはその場で崩れる様に倒れた。

 サムライソードを手放し、両手が床に着く。


 立ち上がろうとしたが、その両手が縫い付けられてしまったかのように立ち上がれなかった。

 銃撃も、殴られたダメージもたいしたものじゃない。

 しかし、彼女は立てなかった。

 体に力が入らない。

 原因は精神的なものだ。

 一度として自分を傷付けた事のない兄が、一切の躊躇いも見せずに自分を傷付けようとした。

 殺そうとすらした。


 その事実が彼女の心を深く傷付けた。

 最愛の兄からの拒絶が、彼女の体から力を奪った。


 力なく、顔だけを上げてアランを見る。

 その表情には、何の感情も見えない。

 路傍の石を見る様に、彼は静かにヴァイスを見下ろしていた。


 これは兄ではない。


 優しかった、あの人とは別人だ。

 その時、ヴァイスはもう自分の知る兄がもうこの世に存在しない事を知った。

 銃口が、フルフェイスに密着する。


「これなら外さない」


 きっと今の兄なら、躊躇い無く撃つのだろう。

 ヴァイスは直感した。

 が、銃弾が放たれる事はなかった。


「待った。こいつがいなければ、君が捕まっている事にも気付けなかったからな。その恩返しだ。恩を返す事は、俺のポリシーだからな」


 ヴェロニカの言葉に、アランは黙って従った。

 銃口を下ろし、ヴァイスから背を向ける。


「じゃあな、ヴァイス。また会おう」


 ヴェロニカは手をヒラヒラと振って挨拶し、ヴァイスの前から去って行った。


 一人になった廊下で、ヴァイスは吼えるような泣き声を上げ、床を強く叩いた。

 ヴェロニカは、アランの心を掴む機会を永遠に失いました。

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