十七話 狂気と諦観
ヴェロニカは一人、ルーシャス邸へと訪れていた。
玄関のドアを見ると、鍵が差し込まれたままだ。
ドアノブを回すと簡単に開いた。
が、それを確認するとそのまま閉じる。
「中を調べないのか?」
歪んだ声が頭上から訊ねてくる。
返答される前に、声の主であるヴァイスはヴェロニカの側に下り立った。
ヴァイスの様相は目立つため、別行動で現地集合する事になっていたのだ。
「鍵が差さっている。多分、中に入ってない。その前に拉致されたんだろう。現場はまさにここだな」
ヴェロニカは玄関先を示して答える。
「誰に?」
「さぁ? ただ、この辺りは上流家庭が多い。セキュリティもしっかりしていて、この街にしては治安が良い方だ。だから、犯罪者も少ない。であるにも関わらず、何故アランが狙われたか? きっと突発的じゃない」
「計画的だと?」
「計画的ってほどでもない。ただ、彼を標的にして行動したというだけさ」
「恨みを買う人物ではないはずだ」
「三日前まではね」
「……犯人が特定できたのか?」
「ん? 一応な。実は最初から当たりはつけてた。ここに来たのは、拉致の現場を特定したかったからだ。ここで拉致されたなら、犯人は絞られる。彼の素性を知っている人物。後は簡単だ」
「誰だ?」
ヴァイスは詰め寄る。
そんなヴァイスの胸にヴェロニカは触れた。
そこには特殊素材の胸当てが装着されている。
「それはいいんだがね。お前、ここに何を隠している?」
「あぁ?」
「前はそうでもなかったんだが、俺は今お前に対して謎の怒りと憎悪を覚えている。もちろん、痛めつけられた恨みじゃない。俺の勘が囁くんだ。こいつは危険だとな。はは、本当に彼に出会ってから人生が楽しい。俺がこんなに強い感情を懐くなんてな。良い刺激だよ、まったく」
ヴェロニカはヴァイスの胸当てをコンコンと叩いた。
「何を言っているんだ?」
「俺にもわからん。ただ関係ない話なんだが、アランは胸の大きな女性が好きだ。
彼はそんな事ないと言い張るが、俺にはわかる。
彼は胸の大きな女性を見ると、目をそらす。ジロジロ見るのは失礼だと思っているんだろう。
だが、目の当たりにした瞬間、一瞬だけその目に喜悦が浮かぶんだ」
「知るか! 何を言い出してるんだ。酔っ払ってんのか!」
怒鳴るヴァイス。
しかしその後、フルフェイスの中で口角を歪めた。
「何だか腹立たしい。お前今、笑ったろ。それも嘲笑だ。ドヤァって感じの」
「だから知るか! 言いがかりはやめろ!」
「さて、それじゃあそろそろ行くか」
「というか、犯人は誰なんだ? 先に言え」
「抜け駆けは無しだ。お前じゃあ、あっさり殺しかねんからな」
「それくらいの加減はできる」
そんなやり取りを交わすと、再び二人は別れた。
ヴェロニカが向かったのはスラムだった。
ヴァイスは建物の屋根を伝いながらヴェロニカの後を追う。
路地を歩く途中、ヴェロニカはスマートフォンを取り出し、確認する。
その画面には街の俯瞰図が映し出されていた。
ヴェロニカは眉を顰める。
すると、点滅する赤い光点が俯瞰図に現れた。
それは三日前、密かにラットマンの服へ仕掛けていた発信機の反応だ。
もし逃してしまった時の手がかり用に仕掛けていたものだが、それが役に立ちそうだった。
ヴェロニカはアランを拉致した犯人が、ラットマンであるとあたりをつけていた。
それが合っていれば、この発信機を追う事でアランの居場所がわかるはずである。
「さっきまで反応がなかったのは、地下にいたからかな?」
呟いて路地を進む。
しばらくスマートフォンを見ながら歩いていた彼女は、ある角を曲がってスマートフォンをスーツのポケットへしまった。
そこは人気のない場所だった。
彼女の向けた視線の先に、建物の玄関階段に腰掛けるラットマンがいた。
煙草を口に銜えながら、白い湯気の立つ缶コーヒーを持っていた。
どうやら休憩中らしい。
「ハーイ、ミスター・ラットマン」
殊更明るい声で挨拶すると、ラットマンはビクリと反応して手に持った缶コーヒーを落としそうになった。
声のした方を見て、さらに驚く。
「げ、な、ハートレス! 何でここにいるんだ!」
「何を驚いている? 折角顔見知りになったんだ。話ぐらいいいだろう?」
友好的な態度で近付くヴェロニカに対して、ラットマンは怯えた様子で立ち上がる。
背を向けて、走り出した。
が、走り出そうとした瞬間、その顔を強かに殴られる。
走り出した所を殴られたため、反動で足が宙を舞い、頭から仰向けに倒れた。
そんな彼の顔を鋼鉄のフルフェイスが覗き込む。
「ヴァイス!」
「よく知っているな。私もお前をよく知っているぞ」
ヴァイスは答え、倒れたラットマンの襟首を掴む。
そのまま持ち上げた。
小柄なラットマンは片腕で簡単に持ち上げられた。
「はは、いい手際だな」
ヴェロニカが声をかけながら近付いてくる。
そんな彼女を睨みつけるように、ヴァイスは目を向けた。
「何でお前らが組んでるんだよ!」
この街で敵に回してはならないトップクラスの人間二人に詰め寄られ、ラットマンは絶望的な表情で叫んだ。
「ところでラットマン。君に聞きたいんだが、俺の想い人がどこにいるか知らないか?」
そんな彼の叫びを無視して、ヴェロニカは訊ねる。
「誰だよ? 俺は知らねぇ!」
答えるラットマンをヴァイスは殴りつけた。
「金髪碧眼、大柄の男だ。思い出すには何発必要だ?」
「だから俺は知らねぇ! あれだろ? 昨日、ハートレスと一緒にいた兄ちゃんの事だろ? だったら、あれ以来会ってねぇ!」
ラットマンは平然と嘘を吐いた。
ここで本当の事を話すよりも、しらを切り通した方がいいと思ったからだ。
その方が、無事でいられる可能性は高い。
だが、その考えは甘かった。
「ラットマン、手を出せ」
「は?」
ヴェロニカの言葉に、ラットマンは聞き返す。
「いいから出せよ」
底冷えするような冷たい声で促され、ラットマンは思わず右手を差し出した。
ヴェロニカはその手を取ると、いつの間にか持っていた折り畳み式のナイフの根元をラットマンの親指に押し当てた。
そしてワインの封を切り剥がす様にねっとりゆっくりと、第一関節にそって刃を動かした。
時間をかけて、親指が切断されていく。
「ふひっ、ふひっ、ひぃぃぃ、ぎやぁああーーっ!」
ラットマンはあまりの痛みに悲鳴を上げる。
「苦痛に満ちた時間は濃密だろ? でも俺は今楽しいから時間が早く過ぎる。相対性理論って奴だ」
最後にヴェロニカは親指を完全に切り離した。
「片手であと、十三回の機会がある。さて、彼の居場所を話すまでに何回必要だ? 心配しなくていい。右手が終わっても、左手があるからな」
耳元で囁く。
ラットマンは今にも泣き出しそうな情けない顔になった。
「わかった! 話す! 案内する! だから許してくれ!」
その言葉に、ヴェロニカはにんまりと満足そうに笑った。
あれからどれだけ時間が経っただろうか?
キリキリという音が頭蓋に響き続けている中、アランはそんな事を考える。
こんな時間は早く終ってほしい。
できるなら、今すぐにでも……。
ブツンッ……。
そんな音が聞こえた。錯覚かもしれないが。
同時に、また少し視野が減った。
「ああぁーーーー……っ!」
恐怖と苦痛の混じる悲鳴が自分の口から漏れる。
時限式の道具は、少しずつアランの視神経を切断していく。
一度切れた視神経は生涯二度と戻らない。
たとえ、今この道具から解放されてもアランの右目は今までの様に像を結ばないだろう。
喪失感と恐怖が彼の心を苛む。
それ以外はない。
他の事を考えられない。
地獄だ。
オルトールを殺した時のヴェロニカの言葉が脳裏に過ぎる。
苦しみ喘いで、悩む暇も選択すらも与えられない。
ただただ苦痛に苛まれ続ける。
今まさに、そんな状況だ。
紛れも無い地獄だった。
他の事を考えられない中、ただただ恐怖に向き合わされる。
恐怖だけしか考えられないようにされていく。
痛みが走り、また視野が消えた。
「あ、あ、うあぁ……」
嗚咽に近い悲鳴が漏れた。
自分の悲鳴とぶつりぶつりという音が聞こえる中、視界は少しずつ少しずつ消えていった。
視界と同じように、心も闇に閉ざされていった……。
ヴァイスの手によって拘束されたラットマンから案内されたのは、ラットマンが休憩していた場所からそれほど離れていない廃ビルだった。
「ここに?」
「ここというより、ここが入り口なんじゃないか? そうだろう、ラットマン?」
ヴェロニカはラットマンに言葉を向ける。
ビクリと震え、ラットマンはブンブンと首肯した。
「やっぱりなぁ、ラットマン。ふふふ、ラットマン、案内しろよラットマン」
ヴェロニカが名前を呼ぶたびに、ラットマンはビクリビクリと痙攣したように震える。
その様子がヴェロニカには楽しかった。
なので、先ほどから用も無いのに「ラットマン」と口にしている。
「遊んでないで行くぞ」
そんな様子に呆れつつ、ヴァイスはラットマンに前を歩かせて建物の中へ入った。
ラットマンに案内されて進むと、地下へ続く階段を見つけた。
ヴァイスがサムライソードを鞘から取り出し、ヴェロニカもジャケット裏に隠し持っていた銃を抜いた。
その状態で、ラットマンに前を歩かせて階段を下りる。
階段の先は廊下になっていた。
事務的な様相の何の変哲も無い廊下だ。
等間隔で蛍光灯が設置され、薄暗くほんのりと照らし出されている。
「床はリノリウムか。病院みたいだな。まぁ、似たような事をする場所なんだろうけど」
「どういう事だ?」
ヴェロニカの独り言に、ヴァイスが訊ね返す。
「ラットマンを雇っているのはコーディネイターだ。そんな雇われ者の彼が報復のためにできる最大限の手段は何かな?」
アランをコーディネイターに差し出す事だ。
思い至り、フルフェイスの中でヴァイスの顔からサッと血の気が引いた。
「グズグズするな! さっさと案内しろ!」
前を行くラットマンの背を蹴りつけ、ヴァイスは怒声を上げた。
「へ、へい!」
ラットマンは顔を引き攣らせながら、走り出した。
それを追ってヴァイスも走る。
ヴェロニカも小さく笑ってからその後を追った。
やがて、ラットマンはあるドアの前で立ち止まる。
「ここです!」
「そうか。案内ご苦労さま」
ヴェロニカは労いの言葉をかけると、その足を銃で撃った。
サプレッサーのプシュッという音がして、ラットマンは顔を歪める。
「ぐっ……!」
ラットマンの呻きが悲鳴となる前に、ヴェロニカはドアノブを回してラットマンを蹴りつけた。
勢いのまま、ラットマンがドアを破る様に中へ転がり入る。
中にいたコーディネイターは、手術台の前で入り口を振り返った。
「何事だ!? ジェイソン君!」
しかし、そんな彼の視界に映ったのは、サムライソードを上段に構えたヴァイスがこちらへ跳びかかってくる姿だった。
「ひっ」
悲鳴を上げてその場で尻餅を着くコーディネイター。
それが功を奏し、サムライソードが手術台に引っ掛かって止まる。
コーディネイターの目の前で刃先が止まっていた。
このサムライソードならば、手術台ごと両断できた。
しかし、ヴァイスがそうしなかったのにはわけがあった。
「お兄ちゃん……」
フルフェイスの中だけに響く、とても小さな声で彼女は呟いた。
手術台の上には、虚ろな表情のアランがいた。
その右の眼窩には何も無く、腹部には縫合された傷痕が残っていた。
その姿に、ヴァイスは言い様の無いショックを受けた。
思わず、呆然としてしまう。
そしてその隙は致命的だった。
コーディネイターは好機と見るや、すばやく立ち上がった。
身を翻し、部屋の奥へ向かう。
壁にあった隠しスイッチを押すと、壁が開いて通路が現れた。
その時になって、ヴァイスはようやく我に返った。
「待て!」
声をかける。
だが、ヴァイスは追えなかった。
今はそんな事よりも、アランの事が気にかかった。
「ちょっとごめんよ」
ヴェロニカが声をかけ、ヴァイスの隣に立った。
そのままアランの顔を覗き込む。
アランの左目が動き、ヴェロニカの顔へ向けられた。
目が合う。
「え、嘘だろう?」
ヴェロニカは今までに無い深刻な表情と声音で呟く。
彼女は珍しく戸惑いを見せていた。
「どうしたんだ? 何かまずいのか?」
心配そうにヴァイスが訊ねてくる。
「いや、命に別状は無い。良い様に楽しまれた後だろうが、意識もある」
「紛らわしいぞ!」
「俺は何で怒られてるんだ?」
ヴァイスは安堵の溜息を吐いた。
軽く頭を振る。
「無事なのなら、……私は奴を追う」
ヴァイスはアランが心配だった。
だが、その気持ちを振り払う。
「コーディネイター。奴は度し難い悪だ。逃せば被害者が増える。必ずここで殺さねばならない」
自分はジェニーではなく、ヴァイスだ。
肉親の安否よりも、優先するべき事がある。
それを自分へ言い聞かせるように、彼女は言い捨てた。
「ああ。頑張ってくれ。俺はここで彼の様子を見ているよ」
ヴァイスはヴェロニカを一瞥する。
「頼んだぞ……」
言い残し、隠し通路へ向かって走り去って行った。
「言われるまでもない。さて……」
ヴェロニカは、改めてアランの左目を見た。
「ヴェロニカ……」
アランが名を呼ぶ。
アランは無事だ。
焦点が曖昧で、意識は朦朧としているようだが今すぐに死ぬような事は無い。
ただ、アランの目には何の感情も乗っていなかった。
助けられた安堵も、今まで助けてもらえなかった恨みも、恐怖の残滓すらそこになかった。
無だ。
こんな人間をヴェロニカは初めて見た。
今のアランには、まるで心が無いようだった。
何の感情も一切目には宿っていない。
ここで何があったのか、想像する事しかできない。
だがそれは彼の心には耐え切れないもので、だからそれを受け止めようとした心は壊れてしまったのだろう。
「もう、前の君はいないんだな」
ヴェロニカは俯き、しんみりとした声で呟いた。
しかし、彼女が再び顔を上げた時、その表情は笑顔だった。
「でも、今の君なら俺と一緒にいてくれそうだな」
明るい声で言い放つ。
ヴェロニカは、ラットマンへ目を向けた。
彼は撃たれた足を引き摺って、逃げようとしていた。
そんな彼の、無事だった方の足を銃撃する。
「あがっ!」
倒れこんだ彼に近付き、ヴェロニカは腕を掴んだ。
そのまま、ラットマンをアランの近くへと引き摺っていく。
ラットマンから手を離し、アランの体を革ベルトの拘束から解放する。
「立てるかい?」
問われたアランは、ゆっくりと体を動かす。
ぎこちなく、生まれたばかりの野生動物のような懸命さを見せ、やがて手術台から床に下りた。
「さぁ、最後の仇だよ。君の手で終わらせるんだ」
そう言ってヴェロニカは、アランの手に自分の銃を握らせた。
明日で終わります。




