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ハートレス  作者: 8D
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十五話 赦免と惜別

 ジェイソン・オブライエン。


 裏の社会において彼は有名だった。


 地位が高いわけでなく、むしろ底辺に近い彼ではあったがその仕事ぶりは汎用性に富み、有用な便利屋ラットマンとして名が知られている。


 彼はアンダーグラウンドの食肉店に、ある商品を売りに来ていた。

 これは本来、雇い主から廃棄を命じられていた物から抜き取った物だ。

 それをラットマンは食肉店に売り払う事で臨時収入を得ていた。

 今はその商談も終わり、せしめた札束を懐に上機嫌だった。

 路地の影から、そうして日の光が射す道へ出ようとした時だ。


「ハロー、ミスター・オブライエン」


 声をかけられた。

 反射的にそちらを見ると建物の物陰に、二人の人物がいた。

 一人は何の変哲もない男だ。

 強いて言うなら、大柄で顔が少し良いくらいだろうか。

 男は落ち着かない様子で、ラットマンを見ていた。

 何を考えているのか、複雑な表情をしている。


 だが、もう一人の女は違った。


 それは特異な存在だった。


 影の闇中でも、浮かび上がるくらいに白い顔と爛々とした赤い目。

 その顔は人間とは思えない程に整っている。

 場所が場所だけに、地獄の悪魔が佇んでいるのではないかと思ってしまうくらいの人間離れした美貌だ。


「誰だ、あんた?」


 女は答える代わりに、手を伸ばしてラットマンの薄汚れたコートを掴んだ。

 足を蹴られ、ラットマンは簡単に引き倒された。


「何しやがる!」


 叫ぶラットマン。

 その鼻先に銃口が突き付けられた。

 銃を持つのは、その女だ。


「初めまして。俺は、ハートレスと呼ばれている者だ」


 その名前を聞いて、ラットマンは震え上がった。


 ハートレス。


 それはこの街ではギャングのボスに並ぶ、絶対敵に回してはならない者の一人だ。

 異常性と残虐性は有名で、いわく人の心を持たないようだと言われている。

 だからこそハートレスだ。


 目の前の少女が本当にハートレスかはわからないが、少なくとも今の状況で反発する気は起きなかった。

 もし本物だった時、下手な事をすれば命がなくなる。

 何故自分がこんな目に合わされているのか全然わからないが、どうにか言い包めてこの場を逃がれられないかと模索する。


 ハートレスはラットマンを蹴りつけた。

 顔を蹴られ、ラットマンは仰向けに倒れる。

 そんな彼の側らにしゃがみ込み、ハートレスはラットマンの頭に銃口を擦りつける。


「きっとあんたは、どうしてこんな目に合っているかわからないだろうなぁ?

 ああ、言わなくていい。俺にはわかってる。今この時だけ、俺は誰よりもお前の事を知っている理解者だ。

 混乱と恐怖がない交ぜだろ?わかっているとも。

 ただそんな私にも少し、不可解な事があるんだが……彼に見覚えはないか?」


 そう言って示すのは、彼女の背後にいる大男だ。

 ラットマンはその男を見る。

 しかし、その顔に見覚えはなかった。

 答えようとするが、口を開くのを遮るようにハートレスは続ける。


「そうか。それは残念だ。本当なら懇切丁寧に説明して思い出させたい所だが、待たせるのは彼に悪いからな。早速だが死んでくれ」


 ハートレスはトリガーの指に力を込めた。

 ラットマンの顔が引き攣る。


 理由も何もわからない内に殺されてしまう。

 到底、受け入れる事のできない話だ。


「や、やめてくれ! 俺が何をしたって言うんだ!?」

「さぁ、何でだろうな? 本当に何もしていないならこんな事にはなっていなかった。経緯はじっくり思い出すといい。ただ、俺が引き金を引くよりも早く思い出せるといいな。さようなら、ラットマン」


 もうだめだ……!


 ラットマンは胸中で諦めの言葉を吐き、目を固く瞑った。


「ダメだ……! やめてくれ、ヴェロニカ!」


 彼の耳に悲痛な声が入ったのは、そんな時だった。

 目を開けると、大男がハートレスの腕を取り、後ろからその体を抱き締めていた。




 葛藤はたくさんあった。

 彼は恨みの対象だ。

 そして最後の仇でもある。

 ここで赦す事ができなければ、もうチャンスはない。

 けれど、その土壇場になってもアランはラットマンを赦せなかった。

 赦せなければ、ヴェロニカは止まらない。

 心から赦す心がなければ、彼女はアランの制止を振り切るだろう。

 だから、このままでは最後のチャンスを無為にしてしまう。


 だが、彼は気付いた。


 どうしてそんな当然の事を忘れていたのか、そう思うほどに事は簡単だった。

 普通、人間には相手の考える事なんてわからない。

 そんな事ができるのはヴェロニカぐらいだ。

 それはイレギュラーな事であり、本来の人間は目を交わすだけで心をうかがえない。


 人間は、言葉を尽くす生き物だ。

 そして、行動で意図を示す事だってできる。


 アランは、今まさに銃を撃とうとする彼女を後ろから抱き締めた。


「やめてくれ、ヴェロニカ!」


 そんな言葉を添えて、彼女の銃を持つ手を掴む。

 銃口が向かないように、上へ向けて引っ張る。


「早く行け! 行けよ!」


 アランはそうして、ラットマンへ言葉を叩きつける。

 知らず、怒鳴るような声になった。

 やはり、憎しみは晴れていない。

 ラットマンの顔を見ると、あの時の事が思い起こされ、怒りが湧いてくる。


 そんな心を自制する。


 ラットマンは青ざめた顔で何度か頷くと、転がるようにして逃げていった。

 その姿が見えなくなると、ヴェロニカが口を開いた。


「大胆だな。人目のある場所で抱擁を見せ付けてやるなんて」

「それは……君を止めたかったから……」


 彼女の体に回した腕を解く。

 彼女は一歩離れ、くるりとアランに向き直った。


「赦せていないのに?」

「前に君は言ったね。信じてもらうために言葉を尽くすって。僕も言葉を尽くそうと思ったんだ。でも、そのためにはまず今君を止めなくちゃならなかった」

「そういえば、こうも言った。俺を止めたければ、組み強いてしまえばいい」

「だから、抱き締めて止めたんだ」

「俺の言いつけを守るなんて、素直だね。……またあいつを殺そうとしたら、その時はまた抱き締めてくれるかい? だったら、二回目も計画しないとな」

「そうならないように、今から言葉を尽くすんだよ」


 ヴェロニカは微笑みかけ、手振りで「どうぞ」と続きを促した。


「僕は確かに、恨みを消せない。赦す事もまだできそうにない。でも、それは当然の事だ。だって、それくらいに酷い目を見たんだから」

「ああ。だから、報復する。それでいいはずだろ?」

「違うよ。本心で赦せなくても、赦そうとする事はできる」

「それは表面上の話だろ? 本心から赦せないなら、それは赦した事にならないじゃないか」


 ヴェロニカの言葉に、アランは首を左右に振った。


「君は人の感情が読み取れるから、僕は本心から赦そうとした。でもそうじゃない。だって、普通の人間は言葉にしなくちゃ意思を伝えられないんだから。人は、言葉にした事と行動がその人の本心として受け取られるものなんだよ」

「それは、俺を否定しているのか?」

「僕が今どういう気持ちなのか、わかるよね? ……いや、ダメだ。そうじゃない。君の目をあてにしちゃダメなんだ。俺は君の事を否定したいわけじゃない。僕は、君に普通の人間のあり方を基準にしてほしい……」


 アランはヴェロニカから目をそらした。

 感情を読ませないためだ。

 それは言葉の嘘を見抜かれたくないというわけでなく、純粋に言葉で気持ちを伝えたかったからだ。

 しかし、アランはすぐに自分の頭を抱えてぐしゃぐしゃと髪の毛をかく。


「ああ、これもダメだ。それも違う。確かに、僕は君に報復をやめてほしい。でも、僕の気持ちを慮ってほしいからじゃないんだ。僕の求めている事はそんな事じゃなくて、あー……」


 アランは唐突にヴェロニカを抱き締めた。

 さっきとは違い、正面からだ。

 ヴェロニカはそれを避ける事もなく、受け入れた。

 されるがまま顔をアランの胸へ埋めた。


 こうすれば、目をそらさずに向き合える。

 アランは腕の中にあるヴェロニカの頭を見下ろした。

 その意図がわかっているんだろう。

 ヴェロニカも顔を上げようとしなかった。


「僕もきっと落ちたんだ。恋に……」

「それで?」

「君と一緒にいたい」

「じゃあ、一緒にいよう」

「でも、今のままじゃいられない。僕の心が耐えられない。君と一緒にいたいけれど、君のする事を僕の道徳心が許してくれないんだ。心が痛くなる。辛くなってくるんだ」


 アランは素直に、自分の気持ちを吐露した。

 彼女が感情を目から読むまでもなく、ありのまま伝わるように洗いざらい。

 今思う事を言葉にした。


「知ってる。君は俺が好きだろう。そして、同時に俺が怖いんだ。俺との生活を甘く感じながら、辛くも感じていた。俺はそれを全部知ってる」

「じゃあ……」

「君が赦したいと行動で示したなら、それでもいい。俺は従うよ。君には嫌われたくないからな。報復は終わりだ」


 ヴェロニカの言葉に、アランは顔を綻ばせた。

 そんな彼の胸をヴェロニカは手で押した。

 離れたいという意思表示だ。

 アランは腕を放した。

 ヴェロニカが顔を上げて、アランと見詰め合う。


「でも、だったらここでお別れだ」

「え?」


 思いがけない言葉に、聞き返すアラン。

 そんな彼の胸をヴェロニカは強く押した。

 思わず何歩か後ずさる程の強かさだ。

 そうしてアランは、西日の射す場所で立ち止まった。


「俺は犯罪者だ。それも根っからの。罪を犯す事が楽しくてならない。その楽しさがないと俺は生きていけない」

「僕との関係はその代わりにならない?」

「魅力的だ。でも、代わりにならない。俺はこれからも人を傷付け続けるだろう。報復に関係なく、自分の欲求を満たすためにな。君はきっと、それに耐えられないだろう。そんな俺を目の当たりにすれば、嫌いになる。俺はそれに耐えられない。君に嫌われたくないからだ」

「それでも――」

「道徳心が許さないんだろ?」


 アランの言葉を遮って、ヴェロニカは言葉を被せた。

 太陽が沈み、陽射しが消えていく。

 アランの立つ場所が完全な闇に染まる。


「離れるなら早くしろ。でないと、染まってしまうぞ」


「それでもいい」……とは言えなかった。


 きっと自分には、できない事だ。

 アランは苦しそうに顔を歪めた。


「染まる前に、君は日の当たる場所へ帰るといい」

「……僕はもう、日の当たる場所へ帰れないよ」


 オーディの陰謀によって、アランは社会的な抹殺を受けている。

 真っ当な生活には戻れない。


「ベルディールには話をつけている。君は元通り、それどころか前よりも少し優遇された生活ができるはずさ。住居も用意した。一年前、君が住んでいた家だよ」


 それが、オーディの暗殺の際にリオンと行った取引の内容だった。

 ヴェロニカはいつかこの日が来るかもしれないと思って、動いてきたのだ。

 もし彼が自分から離れる事があれば、その時は彼に元の人生を返すつもりだった。


 全ては、アランへの恩に報いるためだ。


 アランが好きだから、アランの幸せを願っての行動だ。

 ヴェロニカは鍵を投げ渡す。

 アランはそれを受け取った。


「俺も君を影ながら見ているさ。どんな悪党からも護ってやる。これから先、決して顔を合わせる事がなくても……」


 ヴェロニカは微笑む。

 その目は少し潤んでいる。

 彼女の赤い眼光が歪んでいた。

 初めて見る、彼女の感情の色だった。


「さよならだ。アラン」


 ヴェロニカは路地を駆けていく。

 アランに背を向けて、一目散に駆けていく。

 アランはその背中を見送った。

 振り返らないだろうか? そんな期待を込めて、彼女の背中を見詰める。

 しかし、それが叶わないと思い、彼も背を向けた。

 彼女が向かった路地の反対方向へ歩き出す。


 その時、ヴェロニカは立ち止まった。振り返る。

 見えるのは、遠ざかっていくアランの背中だった。




 アランは、日の当たる場所へ帰ってきた。

 まだ実感は無い。

 彼はかつての自宅へ向けて歩いていた。

 一年前、唐突な悲劇で失った大切な場所だ。

 アランはその道を、今までの事に思いを馳せながら歩く。

 辛かった想い出が多い。

 周囲からの拒絶に始まり、極限の飢えを体験し、季節によって変わる気候が殺人的に厳しいものであると知り、かつての生活を思い出して泣いた。

 それでも何もかもが自分に対して無関心で、誰も助けてくれず、絶望だけが心にあって、やがてこの世界で生きていきたくないと思った。


 でも、最後の土壇場で助けはあった。


 天使のようだった彼女はその実とても恐ろしい物で、心を許す事が躊躇われる程の悪党だった。

 けれど、彼女と出会ってから色々なものが変わった。

 飢える事がなくなって、寂しいと思う事もなくて、妹と再会する事もできた。

 そして今、またここへ帰ってくる事ができた。


 アランは自宅の前に立っていた。

 鍵を取り出して、ドアの鍵穴に差し込む。

 抵抗なく、鍵が回る。錠の開く感触が指に伝わった。


 帰ってきた……。


 指の感触にアランは歓喜し、実感する。

 ただ、すぐにその歓喜は消えた。


 自分は戻ってきた。

 けれどそれは、彼女との別れと引き換えだ。

 ドアノブを握る。

 しかし、回そうと思えなかった。

 このドアを開ければ、帰る事ができる。

 完全な元通りではないけれど、少なくとも日々心を荒ませる生活とは無縁になるだろう。

 両親はもういないけれど、妹は生きている。

 今は離れているけど、説得すればまた一緒に暮らせるかもしれない。

 ドアを開ければ、そんな希望的な展望のある生活が帰ってくる……。


 そうなれば、もう二度と彼女に会えない気がした。


 影から見守ると彼女は言った。

 それは彼女が、日の当たる場所へ出たくないからだ。

 だから、ここへ戻れば二度と会えない。

 陽だまりの中へ踏み入れれば、もう彼女とは会えない。


 一度溜息を吐いた。

 そして、ドアノブから手を離した。

 振り返る。

 その途端、顔を固い何かで殴られた。


「がぁ……」


 その場で、地面に両手を着く。

 右側頭部がズキズキと痛み、右手を当てた。

 頭を殴られたせいか、頭がふらふらとする。

 顔を上げる。

 見上げた先には、ネズミのような顔つきをした男が立っていた。


 ラットマンだ。


 彼は鉄パイプを両手で持って構え、笑っていた。


「へへ、あいつの言う通り、じっくり思い出したんだ。そしたら、思い出せたぜ」


 ラットマンは言って、鉄パイプでアランの背中を殴りつける。


「ぐぅ……!」

「俺への報復をあいつに頼みやがったか? 俺をあんな目に合わせやがって!」


 ラットマンはアランの顔を足で踏みつけ、いたぶる様ににじる。


「それで途中で怖気づくなんて、半端な野郎だ。その半端さのツケを嫌という程味合わせてやる。これからなぁっ!」


 両手で振り下ろされた渾身の鉄パイプが、アランの後頭部を直撃した。

 アランの視界は歪み、意識は断ち切れるように失われた。


 途切れ行く意識の中、ラットマンの下品な笑い声が耳に響いていた。

 アランはヴェロニカの心を掴む事ができませんでした。

 そして、感じ方は人それぞれ違います。ジェイソンにとって、アランの恩情は恨みを懐かせる行為に思えたわけです。

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