十一話 恨みと哀れみ
少しだけ身辺が落ち着いたので、投稿を再開します。
本当に申し訳ありませんでした。
オルトール・タンは困惑していた。
事の起こりは昨日。
彼は旧グランニル一家、現ベルディール一家となったギャング団から仕事の依頼を請けた。
オルトールは長い間、グランニルから懇意にされており、よくよく仕事を回してもらう間柄であった。
数日前、オーディ・グランニルが死亡した事で仕事が減るのではないかと危惧したのだが、今代のボスも自分を懇意にしてくれるつもりらしい。
今のボスであるリオン・ベルディールには、オーディ・グランニルを暗殺したのではないかという疑いもあったが、オルトールにとってそれはどうでもよい事だった。
今まで通り、仕事に困らなければそれでいい。
ただでさえ、この街では雇い主が消される事なんて珍しくないのだ。
今のボスが自分を重用してくれるつもりなら、避ける理由はなかった。
そうして、仕事の話を聞きに指定された場所へ向かったのだが……。
指定場所である廃倉庫の事務室へ入った途端、扉を閉められてガスを流し込まれた。
脱出しようとしたが、容赦なく襲い掛かる眠気に抗えず彼は意識を失ってしまった。
そして意識を取り戻し、今に至る。
彼の視界は今、被せられた布が作る闇に閉ざされていた。
口はガムテープで塞がれている。
体は細いチェーンで椅子にくくりつけられ、一切の身動きが取れない状態だ。
自由なのは耳ぐらいだろう。
彼は、自分が罠にはめられたと瞬時に悟った。
しかし、誰がそんな事をするだろうか?
自分に恨みを持つ相手は多くいるだろうが、相手が誰かわからない。
リオン・ベルディール本人という可能性もあるが、理由が見当たらない。
彼の怒りを買うような事はしていないはずだ。
そんな彼の耳に声が聞こえる。
この緊迫した心情には、場違いに感じられる可愛らしい少女の声だ。
「さぁ、お待たせしたね。きっと君はやきもきしていただろう? 次はいつなのかって。俺も心苦しい限りだった。あまりに待たせすぎると、愛想を尽かされるかもしれないと不安だった。けれど、それも今日限りだ」
喋り方も朗々と歌うようで、誰に話しかけているのかとても楽しげだ。
ただ、オルトールに喋りかけていない事は確かだろう。
「別に、待っていないよ」
対して、答えた声は酷く沈んでいた。
こちらは男だ。
相手への忌避感をありありと滲ませた声だった。
「本当に?」
「…………」
「待っていないのは本当だ。報復を望まない事も本当だ。でも、赦せないんだろう? 直接、顔を合わせたのはこいつだけだ。恨みの象徴として、君の心に残り続けている。だから、どうしても恨む事をやめられない。そうだろ?」
言葉を返す事はなく、ただ男は呻くような声を出した。
「まぁいい。感動の再会だ。堪能してくれ」
女の言葉に伴い、オルトールに被せられた布袋が取り去られる。
視界が開けた。
目の前には男女二人だけがいた。
女は白のダッフルコートとスラックス。
男はジャンパーとデニム。
男は肩からショルダーバッグを提げていた。
場所は先ほどの廃倉庫。
事務所へ向かう途中、通った広い倉庫の真ん中だ。
オルトールの顔を見た途端、男の方が怪訝な顔をした。
「違う……」
その口から言葉が漏れた。
アランにとって両親の仇となる最後の一人、オルトール・タンがそこにいた。
ヴェロニカが罠を張って捕らえたのだ。
オルトールは椅子に縛られて、身動きの取れない状況だった。
そんな彼を前に、アランは驚きを隠せないでいる。
彼の顔は、予想していた顔と違っていた。
ネズミを思わせる風貌ではなく、典型的な中国系の顔つきだった。
「彼じゃない」
アランの呟きに、ヴェロニカが顔を向けてくる。
「僕が見た相手、ジェニーをさらったのは彼じゃなかった。思えば、もっと身長が低かったし、なんとなくネズミみたいな人だった」
それを聞いたヴェロニカは、あちゃーと言うように手で顔を覆った。
「はは、なるほど。俺とした事が失念していた。何もオルトールが一人で事を成すとは限らないわけだ。彼は仕事の手伝いとして、個人で人を雇ったんだろう。雇ったのはラットマンか」
「ラットマン?」
「君の受けた印象は正しい。まともな感性を持っているよ。その男は、他の連中にもネズミみたいだと思われてる。すばしっこくて狡賢い、何より顔つきがとてもネズミっぽい。だから、ラットマンと呼ばれている。実際に会った事はないが、有名な男だ」
それが、あの時の男なのか。
アランは思い出すと、知らず拳を握りしめた。
「それはそれとして、報復だ」
「え?」
「仇には違いないからな」
言いながら、ヴェロニカはオルトールの前に立つ。
口に張られたガムテープを勢い良く剥がした。
「てめぇ! 自分が誰に何したか解かってるのか? こんな事をしてただじゃおかねぇぞ!」
オルトールはドスの効いた声で怒鳴りつける。
その怒声を受け、ヴェロニカは目を泳がせた。
落ち着きなくキョドキョドとして、怯えた表情になる。
「怖い。まさかそんなに怒るとは思ってなかった。俺はいったい、何をされるんだろう?」
ヴェロニカはアランに振り返り、不安そうに訊ねる。
態度の豹変にアランは戸惑った。
が、ヴェロニカはそんなアランの返事を待たず、オルトールの座った椅子を蹴り上げて倒す。
その暴挙を成したヴェロニカは、笑顔だった。
アランはさっきの様子が演技だった事に気付く。
「ぐあっ!」
悲鳴を上げるオルトール。
そんな彼の口に、ヴェロニカは再びガムテープを貼り付けた。
「でも、先に何かしたのはそっちだ。これがチェスだったら悪辣なルール破りだ。お前の手番が終わったら、次は俺の手番だろ?」
ヴェロニカはオルトールの椅子を立て直し、彼の顔に自分の顔を近づけた。
「だから今言うのは俺だ。よくも俺の想い人を酷い目に合わせてくれたな。ただじゃおかないぞ」
静かな、囁くような口調だった。
けれど、その声が聞こえた途端、オルトールの背筋に怖気が走る。
あまりにも冷たく響く、恐怖を掻き立てる声音だった。
「まず、何から始めようかな」
ヴェロニカはアランに向けて手を差し出した。
アランは少し迷い、ショルダーバッグをヴェロニカへ渡す。
バッグを開けて、ヴェロニカが取り出したのはワイヤー式のノコギリだった。
それを床に置くと、次々に中の物を取り出していく。
それらは何の変哲もない大工用具の数々だった。
その時になって、アランは初めて自分が持たされていた物が何かを知った。
そして、今の状況で取り出されるそれらが、どのように使われるかを想像せずにいられなかった。
「対物ライフルを知っているか? あれは威力が高すぎて、人へ使用するには非人道的だからそう名付けられた。
本当は人間相手にも使われているのに、名称で用途を誤魔化して戦場で大活躍しているわけだよ。
身の回りの日用品もそうだと思わないか? 本当の所、キッチンナイフは野菜や果物以外にも使える。ミートチョッパーだってミートだけに使っちゃいけないわけじゃない。これだってそうだ」
言いながら、ヴェロニカは右手に金槌を持った。
「なのに、使用は全部「対物」に限られているわけだ」
「何が言いたいの?」
彼女の話に不安を押し殺しつつ、アランは訊ね返した。
「みんな自分を特別視したいみたいだけど、人間って実際は「物」だよな」
答えを返すと、ヴェロニカはオルトールの左鎖骨を金槌で思い切り叩いた。
金槌は容易に鎖骨を叩き割る。
「んふーーーーーーっ……っ!」
塞がれた口から声にならない悲鳴が漏れ、痛みを堪えた荒い呼吸が鼻から定期的に行われる。
その目は涙目になりながら、ヴェロニカを睨みつけていた。
ヴェロニカは目を細め、笑顔で応じた。
オルトールの髪を掴み、再び顔を近づける。
「まだ一本だ。人間には何本の骨があるか知ってるか? 何本だっけ? 忘れたな。少なくとも、今のお前には一本余分に骨が増えたわけだ。人より多いってのはお得だな。嬉しいだろ? おめでとう」
そう問い掛けられるオルトールの目には、ありありと怯えが見て取れた。
すでに彼の心は鎖骨と共に折れていた。
そんな彼の前で、ヴェロニカはショルダーバッグを漁った。
両手にノコギリと電動ドリルを持って笑いかける。
「さあ、どれがいい? どこがいい? どうしてほしい? リクエストに応じてやる。この世はチェスじゃないからな。これからずっと俺の手番だ。俺の好きにできるぞ」
無慈悲な言葉を吐き出し続けるヴェロニカに、オルトールは絶望を感じた。
今の一撃は序の口に過ぎない。
そしてこの女には容赦も慈悲もない。
これから先は、痛みだけに染まる時間が約束されているだろう。
ここは地獄なのではないか、と彼は思い始めていた。
「やめよう。ヴェロニカ」
そんな彼を救うように、アランはヴェロニカに制止の声を向ける。
ヴェロニカが振り返ると、彼は俯いていた。肩が震えている。
「もういいよ。やめよう。僕は報復なんてしたくないんだ」
「そう? でも、俺がこうしているのは、報復のためだけじゃない」
優しく、諭すような声でヴェロニカは告げる。
「君は不思議に思うだろう? どうして、こんなに苦しめる必要があるのか、と。人を苦しめて殺すという事は、どれだけ非効率的に人を殺すかって事だからな。合理的じゃない。実に俺らしくない行いだ」
ヴェロニカは顔を左右に振りながら言い、そしてさらに続けた。
「けれどそれをわざわざするのは、君に絶望を見せてやりたいからだ」
信じられない言葉にアランは顔を上げ、意図を理解するためにヴェロニカの顔を見詰めた。
薄い笑みを浮かべる顔は、天使のような美しさをまったく損なっていない。
慈愛に満ちてすらいる。
「君は言ったな? 自分が絶望の底にいる気分だ、と。それが錯覚だと教えたかった。こいつを見ろ」
ヴェロニカは手でオルトールを示す。オルトールは涙と鼻水で顔を汚していた。
股間には液体による染みがある。
「本当の絶望はあんなものじゃない。今の彼こそその状態だ。まさに地獄だよ。苦しみ喘いで、悩む暇も選択すらも与えられない。
ただただ苦痛に苛まれ続ける。これこそ絶望の底だ。
君が絶望の底と評したものはまだ途上だ。底を砕けば、さらに下は深遠が続く。俺はそれを教えたかった。
だから見せ付けているんだよ、こうして」
「だから、どうして!」
彼女の言葉を理解したくなくて、思わず叫んだ。
「君に死んでほしくないからさ。自分がまだマシだと知れば、もう自分で死のうなんて考えないだろ?」
笑顔を向けたまま、ヴェロニカは答えた。
人間は他人の痛みをうかがい知る事のできる生き物だ。
痛みを伴う行為を見れば、その痛みを想像して、自らに降りかかったものであるかのように思ってしまう。
痛みを受ける人間を自分に重ね、もし自分もああなってしまったらと恐怖する。
だから人は、相手を傷付ける時でも加減をするものだ。
それは純粋な慈愛から来るものでもあるし、仕返しされた時の事を考えての事でもある。
もし加減のできない人間がいるとすれば、それは想像力が欠如しているか、人間として壊れているかのどちらかだ。
ヴェロニカは後者だ。
ヴェロニカには他人が傷つく事にも自分が傷つく事にも興味がない。
どれだけ相手を痛めつけようと、相手の痛みを自分の物にしない。
容赦なく、過剰な痛みを相手に与える。
まさしく彼女には、心がないように見える。
彼女を知る人間が、彼女をハートレスと呼ぶ意味がよくわかった。
彼女は表情豊かに見える。が、それは見せ掛けだけの事だ。
いくら彼女が楽しげに笑おうが、その目はいつも笑っていない。
どんな時でも凍えるほどの冷たい眼差しで、相手を見据えている。
彼女は笑っているフリをしているだけだ。
相手の感情を煽るために、視覚的な印象を表情に付与しているだけにすぎない。
そうして相手の反応を観察しているのだ。
彼女と間近で接してきたアランには、それがよくわかっていた。
やはりいけない。
彼女にこれ以上残虐な行いをしてほしくない。
何より、自分の心が耐えられない。
「ヴェロニカ。やめよう!」
先程よりも強く、アランは諌める。
その目を見据え、ヴェロニカは表情を消した。
アランの目からは、恨みが薄れつつあった。
代わりに、オルトールへ対する同情とヴェロニカへ対する恐れがあった。
自分の感情が人に地獄を見せている。
その事が、アランは許せなかった。
そんな事になるくらいなら、恨みなんて懐きたくないと思った。
「やめよう」
不安そうな表情でヴェロニカへ語りかける。
その様子をじっと見ていたヴェロニカだったが、おもむろにオルトールへ向き直って近付いた。
オルトールの顔を左手で撫でる。
そして、背を向けたままアランへ言葉を紡ぐ。
「前にも言ったけれど、俺は君に嫌われたくない。だから、君の嫌がる事はしない」
ヴェロニカの言葉に、アランは安堵する。
わかってくれたらしい。
それはオルトールも同じだった。
目に見えて、ホッとしている。
そして、ヴェロニカはさらに言葉を続けた。
「だから俺は、何の憂いもなくこのナイフを使える」
言い終わると同時に、ヴェロニカはナイフでオルトールの首を切り裂いていた。
彼女は話している間、ずっとコートの中へ手をやっていた。
内ポケットに隠したナイフを手にするためだ。
アランも、首を裂かれたオルトールですらすぐに状況を把握できなかった。
噴き出した血が真っ白な彼女の肌と髪、そして服を赤黒く染めた。
振り返った彼女の顔は真っ赤に染まっていた。
彼女は顔の血を拭う。
白に戻った頬へ、髪から流れた血が赤い線を引いた。
「汚れちゃったよ。また、新しいのを買わなくちゃな。どんなのがいい? フリルかな? いいね。いろいろとボリュームのない所を誤魔化せる」
近付いてくるヴェロニカをアランは呆然と眺める。
彼女の後ろでは、血を噴き出し続けるオルトールの顔から瞬く間に赤みが失せていく。
やがて、彼はゆっくりと瞳を閉じていった。
「どうして? 嫌がる事はしないって……」
力なく呟くアランの間近まで、ヴェロニカは近付く。
一度コートで左手を拭うと、アランの顔を愛しそうに撫でた。
「これくらいじゃあ、君は俺を嫌いになれない。嫌うにはまだ魅力的過ぎる。俺にはわかっているんだ。その範囲で俺は、君のために何かをしたいんだ」
「君が言うならそうなのかもしれない。けど、そんな君を見ていたくない」
「だからさっさと殺した。君は俺が人を傷付ける所を見たくないだろう?
あのままオルトールを虐めていたら、君はすぐに俺を見限っていた。
でも、彼を殺すという事には幾ばくかの許容がある。
なんと言おうと、心の底では求めている。彼らに対する報いを求めているんだ、君は」
アランは赦そうとした。けれど、まだ完全に赦しきれていないんだろう。
もしアランが本格的に報復を望めば、ヴェロニカはさらに残酷な方法で相手を殺すだろう。
そして、まだ報復の相手はいる。
アランはかつて見たネズミのような男、ラットマンの姿を思い描く。
ヴェロニカが指摘した通り、彼はアランにとって恨みの象徴だった。
今でも、思い出すだけで憎しみが込み上げてくる。
そんな彼を赦さなければ、ヴェロニカはラットマンを殺すだろう。
果たして、自分は彼を赦す事ができるだろうか?
考えると、アランは鬱々とした気分になった。
そんな彼の様子を見て、ヴェロニカは「ふぅむ」と溜息を吐いた。




