log186.伝説の木の下で
ミッドガルドの区画は、概ね四箇所に分けられる。
フェンリルを中心とした、町の行政……つまり、ゲームにおけるクエストの受領などを行うことの出来る行政区。NPCやPCが凌ぎを削り合い、切磋琢磨する商業区。プレイヤーのギルドハウスやNPCの住居が立ち並ぶ居住区。
多少の例外あれど、概ね一定の区画で囲われたこの三つの区と、ミッドガルドという街を象徴するための、特殊な区。
ニダベリルであれば、種々様々な鉄系素材アイテムが手に入る鉱山街。
ヴァナヘイムであれば、船が出入りし海産物系アイテムの入手経路ともなる港。
アルフヘイムであれば、その広大な草原を活かした酪農系施設である牧場。
ムスペルヘイムであれば、亡者たる町の住人たちの起源であり、プレイヤーが新たな生誕を向かえる場所でもある墓所。
四方に点在する町は、その町をわかりやすく象徴するための区画が用意されているが、ヴァル大陸の中心に存在するミッドガルド、特徴がないのが特徴と呼ばれたりするこの町の特徴は何か?
それは、世界樹と呼ばれる樹であった。
樹齢数千年とも呼ばれる、そのあたりに立っているビルすら凌ぐ、巨大さを誇る大木。正面ゲートから見て、町の後方。三区に囲われるような形で存在する、世界樹を中心とした森林公園こそ、ミッドガルドの象徴とされる区画であった。
「――とまあ。大層なこと言ってはみるけど、巨大な枝葉のおかげで日照条件は最悪。でっかい樹の張る根っこのおかげで足場も最悪。世界樹が辺りの栄養根こそぎ持っていってるせいで何も育ってなくて景観も最悪と来てる。ほかの街と比べて、ここまで人気のない特殊区も珍しいやな」
ここに来たい、といったソフィアの希望を聞き、先を先導したリュージ。
世界樹周辺に立っている、小世界樹とでも言うべき気に手をかけながら、自分の言葉に苦笑する。
「まあ、それを言い出したら、この樹自体が世界樹なんて大層な代物じゃないって設定なんだけどね……。人気の無さは評価点かね」
リュージは辺りを見回してみる。
森林公園に入ってから、NPCを含めて誰とも出会っていない。
この区画は、裏路地以上に人が訪れない区として有名だ。リュージの挙げ連ねた条件が主な原因だが、やはりそれ以上に原因となっているのは場の雰囲気だろうか。
空を覆う世界樹の枝葉が、風に揺られて大きな音を立てる。
耳心地のよい、木々の鳴き声と共に体を駆け抜けてゆく風は、静謐さを伴っている。
そして枝葉の作る影が辺りを覆っている光景は、荘厳としているように見えた。木々が揺れる事によって差し込む木漏れ日が、なんと言うか神聖な光のように見える。
どんなファンタジーRPGにもありそうな、神様が今にも降りてきそうな場所……ミッドガルドの森林公園は、まさにそんな雰囲気を持つ場所なのだ。
「なんとなく恐れ多い雰囲気があるのもあって、ほとんどのプレイヤーが訪れない……。まあ、何の素材も取れないから、用がないってのが一番の理由だろうけど」
リュージはそう呟いて締めくくると、振り返りながらソフィアのほうへと向いた。
「んで、ソフィたん? こんなところで、なにすんのさ?」
「ん……そう、だな……」
ここまで来る道中、ずっと俯いていたソフィアは、顔を上げないまま、手をこねくり合せる。
蚊の鳴くような声で呟きながら、ソフィアは一歩だけ、前に出た。
「その……リュージ……?」
「ん?」
「……少し……ほんの、少しだけ……な……?」
「少し? え、なに――」
リュージがソフィアの言葉の意味を問おうとした、次の瞬間。
ずンッ!!!!
……と重い踏み込みの音と同時に、ソフィアが全身を使ってぶちかましをかけてきた。
「――――ッ!?」
完全に反応し損ねたリュージは、踏ん張る余裕すらなくそのまま背中を小世界樹に向かって叩きつけられる。
ソフィアのぶちかましの勢いたるや、現実であれば肺の中の空気を全部丸ごと叩きだされるほどだ。おかげでリュージは一瞬、文字通り言葉を失ってしまう。
しかし、リュージは全ての苦悶の呻きを噛み砕き、必死に形相を平静に保つ。
いきなりぶちかましを仕掛けてきたソフィアの体を決して跳ね除けることなく、軽く抱くように、その細い両肩に手を置いた。
リュージは、彼女に理由や是非は問わない。何故なら。
「―――ッ」
彼女の両手は、リュージの背中に回されていた。
決して離さないよう、ギュウッと彼の体を抱きしめていたのだ。
俯いたまま、リュージの胸板に顔を押し付けているソフィアの頬は、かすかに上気しているように見える。
精一杯の勇気を振り絞り抱きついてきたソフィアを、跳ね除けるようなことをリュージが出来るはずもなかった。
リュージすら反応できない勢いですっ飛んできたのは、愛嬌といったところか。
「………」
「―――」
しばし、その場に沈黙が舞い降りる。
動くのは、風に揺れる枝葉だけ。聞こえるのは、風が鳴らす木々の音だけ。
心地よい沈黙が、辺りを包んでいた。
「……リュージ」
やがて、ソフィアが先に口を開いた。
「お前は、かっこいいな」
「ん? んん?」
ソフィアの口からこぼれた思わぬ言葉に、リュージは思わず唸り声をあげる。
まさか彼女から、そんな言葉を聞けるとは。夢にも思わなかった。望んだこともなかったが。
だが、リュージが驚いている間に、ソフィアは次の言葉を紡ぐ。
「頼りがいがあるし、茶目っ気もある。私なんかと違い、一定以上の社交性だってある。学校の中で、まず頼れる人間の一人だと、私は思う」
「う、うん? ありがとうね?」
ソフィアの言葉がうまく飲み込めず、リュージは照れながらも礼を言う。
リュージの胸に抱きつきながら、ソフィアは笑ったようだ。かすかな振動が、リュージの胸板に伝わる。
「顔だっていいし、身長だって私より高い。妹に慕われているし、性格だって悪くない。正直に、私のどこが好きと言ってくれたのは、お前が初めてだ。私が思いもしなかった部分を、お前は褒めてくれた」
「そりゃ、ソフィたんだし?」
リュージは肩に置いていた両手をソフィアの背中に回し、ギュッと抱きしめながら彼女に囁く。
「ソフィたんはかわいいよ。見た目が綺麗だし、スタイルは抜群だ。全身どこもかしこも柔らかいし、いい匂いしかしない」
「………」
「勉強だって出来るし、気立てだっていいじゃない。社交性云々を言うなら、ソフィたんはカリスマのあるタイプだよ。皆に合わせるんじゃなくて、皆を引っ張るんだ。そんなソフィたんだから、皆は次期生徒会長にソフィたんを推すんだよ」
「器じゃないと思うんだけどな」
「言い方は悪いけど、能力の問題じゃないよ。信頼できるかどうかが重要なのさ。けど、ソフィたんはその信頼に胡坐を搔いたりしない。それを鼻にかけたりせず、毎日の努力を欠かさない。けど、完璧ってわけじゃなくて、どこか抜けた部分が見えたりする。そんなところも、またかわいいんだ」
「抜けてるか? 私」
「たまにね」
リュージは苦笑しながら、俯いたままの彼女のつむじに軽く顎を合わせる。
ソフィアの全身を包み込むように抱きしめるリュージ。
「ただまあ、そういうのはあとから見つけたものかな。毎日会えば会うほど、いろんな姿が見えてくる。今俺は、間違いなく長い人生の中で一番幸せな時期にいるって、実感してる」
「……リュージは」
「うん?」
「リュージは、私のどこに惚れた? 一目惚れ、だったんだろう?」
「うーん……そうだなー」
リュージはソフィアの言葉にしばし考え、苦笑しながら首を横に振る。
「どこってのはないかな。完全に一目惚れ」
「………」
「強いて言うなら……出会った瞬間。君を、視界に入れた時には、もう好きになってた」
ソフィアを抱きしめながら、リュージは小世界樹に背中を預け、上を見上げる。
「どこを、とかどうして、ってのはあとから作れる。でも、君を見た瞬間の衝撃を……ときめきを。表現する方法を俺は知らない。自分でもバカだとは思うけど」
そう言って笑うリュージ。
ソフィアは、彼の言葉を聞いて、少し腕の力を強くする。
「……そうか」
「うん」
「……私は、そうでもなかった。第一印象は、変な奴、だったよ」
太ももに抱きつかれての第一印象がそれなら、まだ温情だろう。むしろ、菩薩のような心の持ち主だ。
「毎日付きまとわれて、初めのうちはうっとおしかった。けれど、姿がないときに自然とお前を探していた。声が聞こえなかった日に、気分が落ち着かないときがあった」
ギュッと、リュージへと抱きつく力が強くなる。
「お前はいつも、私の隣にいようとしてくれた。私は、いつの間にかそれを当たり前だと思うようになっていた……」
「………」
「気が付いたときには、きっとそうだった。リュージ、私は―――」
「お前のことが、好きだ。きっと、愛しているんだ」
静かな告白。風の音に隠れてしまいそうな、小さな声。
ソフィアの言葉をしっかりと受け止めたリュージは、柔らかな笑みを浮かべながら、彼女を抱きしめる。
「……そっか」
「そうだ」
言いながら、ソフィアは顔を上げる。
頬は高潮しており、瞳は潤んでいる。真剣な表情で見上げる彼女は、何かを求めているようにも見える。
しかし、キュッと眉を引き結ぶと、すまなさそうに呟いた。
「……今日は、これくらいで勘弁してくれ」
「と、いうと?」
「キスは、また今度だ。……初めてのキスは、現実で、したい」
「そっか。わかったよ」
「……告白も、現実ですべきだったと思う。お前は、全てを曝け出してくれているのにな……。ごめん、リュージ」
「気にしないでくれよ。そうして、口にしてくれる。そのことで、俺がどんだけ心躍ってるのか、教えたいくらいだよ」
心音も再現してくれりゃあなぁ、とリュージは自分の胸に手を当てながらぼやく。
それから、ソフィアを見下ろし、穏やかな笑みを浮かべながら、改めて告げた。
「……俺も、愛してる。ソフィア」
「……うん」
リュージの言葉を聞き、ソフィアは安心したように頷き、彼の胸に体を預ける。
リュージは笑みを浮かべたまま、優しくソフィアの体を抱きしめた。
別に、世界樹に恋愛成就の謂れがあるわけではない。