第二話
「ただいま。」と反響する声。
靴は相変わらずひとつもない。
静かな台所には、俺が朝食べたシリアルとその器だけだった。
保温のままの炊飯機。
家庭が家庭として機能していない家だった。
両親は共働きで、僕は末っ子。
兄ももう家を出て、郵便配達の仕事をしている。
もうだからここは、まるで俺一人の世界だった。
日当たりがいいくせにいつもひんやりしてる家。
それが嫌で、俺はいつもマサキの家にいっていたのだろうな。
戸棚を空けると煎餅がはいっていた。
それを手に取り後は冷蔵庫。
冷蔵庫にはスポーツ飲料とあと、シュークリームが二つあった。
すべてを手にとって玄関に置く。
それで後は二階の自分の部屋で着替えて準備は完了。
マサキの家からはもう『展覧会の絵』が流れていた。
勝手に上がって、勝手にドアを閉める。
それはもう大分昔から当たり前のことになっていたから、ピアノのある彼の部屋に向かっていった。
先にちょっと用を足そうと思ってトイレに入ると二人が話し始めた。
「ふう、ちょっと疲れた。」
菊池さんは何も言わない。
おそらくただにっこりと彼の満足げな顔を眺めているのだろう。
しばらくして
「ねえ。」
と麻衣子ちゃんが声を出した。
彼女の声はまるでどこか遠くでも見ている声だった。
その声はいつもの三倍くらい反響したように思った。
ゆっくりとしたその言葉が魔法みたいに空気を変えた。
「ねえ。今日私の誕生日だって覚えてた?」
「まあな、覚えてた。」
俺は独り言みたいに笑った。
当たり前だろう!
だから俺だって一眼レフのカメラを持ってってきたんだから。
「プレゼントは?」
「いや、ねーって。いつもそうじゃねーか。」
「じゃあ今日は一つだけお願い聞いてよ。」
「ん?何??」
マサキの声が上ずった。
本当に鈍感というか、なんというか・・・。
なぜか、俺は慎重だった。
というより動けなかった。
用を足していたので。
心臓は鼓動していたけれど、水の中にもぐっているようだった。
何か空気の膜が覆っているような、そんな感覚だった。
いや、むしろこれは一種の現実逃避だったのかもしれない。
「あのさ・・・・。」
「私、」
「ずっとマサキの隣にいちゃダメかな?」
いつもと、別人の声だった。
つまらねえなあ。
と予想したことではあったけれども、俺ははき捨てるように言った。
そしてじっと水の流れるのを見ていた。
頭で理解しても、心で理解できなかった。
そう、それは俺が何度も考えたことだった。
ファインダー越しで。
その言葉五回ぐらい俺の頭の中で響いて、真っ青になってため息をついた。
急に、脱力感が出てきた。
泳いだ後の着替えのような脱力感だった。
あーあ。
ダルい。
ダル過ぎる。
何でこんなところに俺はいるんだ?
わざわざなんでまたトイレの中で聞かなきゃならないんだ?
まるで盗み聞きみたいじゃないか?
マサキは何も言わないし、
彼女も何も言わない。
ああ、彼はなんていうのだろう?
聞きたい!
ききたい。
でも、それは俺じゃない。
俺はトイレのドアをゆっくりと開けてこそこそと廊下にでた。
俺はなぜ自分の足音にまで気を使わなければいけないのだろう?
彼の言葉を聴かないうちに出て行かないと。
小さな音がこつこつと響いた。
もしも、彼が(願いたくはないが)断ったとして、
そしたら、また、戻れるのだろうか?
でも、たとえ戻ってみても。
一人、確実な一人が足りなくなっているのだ。
それはあまりに悲しいことだ。
でも、彼女とあいつが付き合ったとしたら俺の居場所は?
もうやめよう。
泣きたくなる。
もう一度マサキの家を見て、ふっと笑って背中を向けた。
家に帰ってみた。
でもやることがない。
風呂でも入ろうか?とお湯をためたけど、布団に包まって動きたくなくなった。
今までの思い出を頭の中で久しぶりに反芻して布団に頭を押し付けた。
だらだら時間が過ぎて暇だからマサキから昔借りた
くだらない漫画を読んで見た。
そのとき初めて涙が出てきた。
ペットボトルもシュークリームもぶん投げたかった。