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悪役令嬢と冷酷王子――わたくしが黙っていたから、あの人の冷酷は成立していました

掲載日:2026/09/22

わたくしの欄は、八年間ずっとNだった。


最下位という意味ではない。Nは、記載事項なしの略だ。褒めるところも罰するところもない生徒に付く。


月初めの朝、中庭に評価簿が貼り出される。その月のふるまいで、生徒に等級が付く。上からS、A、B、C。どれにも書くことがない者だけが、Nになる。家の格では決めないことになっている。王族も学生なので載る。第二王子殿下の欄は、八年ずっとSだった。


この等級に文句を言った生徒を、わたくしは八年見たことがない。


八年前、十歳のとき、わたくしは自分が誰なのかを思い出した。乙女ゲーム『銀糸の王冠』の悪役令嬢、ロゼリア・ヴァルト。ヒロインをいじめ、卒業の夜に断罪され、修道院へ送られる女。


卒業まで、あと半年ある。


学院に入った年だった。それからのわたくしは善良だった。


誰にも逆らわず、誰の悪口も言わず、頼まれた仕事は断らなかった。刺繍の会では下座に座り、茶会では話を合わせた。


母の形見の髪飾りを、貸してほしいと言われて貸した。返してほしいと言えないまま、二年が過ぎた。相手は侯爵家のご令嬢だ。


生徒会の議事録は四年書いた。書いた者の名を記す欄があると知ったのは、三年目だ。そこにはずっと、別の人の名が入っていた。


破滅を避けるにはそれしかないと思っていた。


八年やって、Nだった。


婚約者の第二王子クレイス・アルシェット殿下は、わたくしの名を一度も呼んだことがない。八年で一度もだ。顔を合わせれば「ああ」と言い、書類を渡すときは机に置く。手渡しではない。


先月、ヴァルト家の領地経営が立ち行かなくなった。父は王宮への口利きを頼みに出かけ、三日後に帰ってきた。


頼めなかった、と父は言った。頼む相手に会わせてもらえなかったのだ。三日、控えの間で待って、それだけだった。


父は着替えもせずに書斎へ入り、夕食に出てこなかった。翌朝には普段どおりの顔をしていた。その顔が、いちばんこたえた。


Nの家の当主は、そういう扱いになる。


善良でいれば助かるはずだった。


助からなかった。


その朝、わたくしは評価簿の前で振り返り、集まっていた十人ほどに向かって言った。


「わたくし、明日から悪役令嬢に戻ります」


誰も本気にしなかった。二人が笑い、残りは聞かなかったふりをした。ひとりだけ、心配そうな顔をした子がいた。わたくしがいつも席を譲っていた子だ。大丈夫ですか、と聞かれた。


大丈夫です、と答えた。八年ぶりに、それが本当だった。


悪役令嬢に戻る、というのが何を指すのか、たぶん誰も分かっていない。わたくしにも、その朝まで分かっていなかった。


思い出したのは、原作の断罪の場面だ。


ロゼリアはそこで、ヒロインの遅刻と欠席の回数を挙げる。生徒会の予算の使途を問う。教師が特定の生徒だけ再試験を許した件を指摘する。


それが「いじめ」とされていた。


思い返してみれば、誰でも気づく。あの女が言っていたのは、全部、規則の話だ。


学院の規程集の、いちばん後ろに書いてある。採点がおかしいと思ったら、生徒は文書で異議を申し立てられる。採点する側が規則をどう使っているかについても、同じように申し立てられる。


翌日から、わたくしは発言した。


まず、採点する側から行くことにした。生徒会と、教師と、寮監。八年わたくしをNにつけてきた三者だ。


火曜の生徒会で、秋の舞踏会の花の代金を尋ねた。予算に書かれた額が、前年の四倍になっていた。


「業者を替えましたので」


会計の子爵令息はそう答えた。耳が赤かった。


「その見積書を、見せていただけますか」


「……手元にございません」


「では、お持ちいただける日を伺えますか。議事録に残しますので」


議事録を四年書いてきたのはわたくしだ。どう書けば消せなくなるかを知っている。


議事録に残した分を、そのまま申立書に写した。三日後、花の業者は元に戻った。


水曜、教師に聞いた。男爵令嬢ミリア・ロウの遅刻を、三度続けて見逃していたからだ。


「あの子は事情がありますから」


「事情のある生徒は、第九条で届け出ることになっております。あの子の届けは、出ておりますか」


出ていなかった。


「出させてさしあげてください。そうすれば、見逃す必要がなくなります」


教師は何か言いかけて、やめた。わたくしを叱る言葉を探して、見つからなかったのだと思う。


木曜、寮監が上級貴族の門限だけ緩めている件を、書面で問い合わせた。


「慣例です」


そう返ってきたので、慣例は規程ではありませんと書いて出し直した。そこで止まった。止まったことも、一件として数えた。


金曜、評価簿の採点表を見せてほしいと願い出た。生徒には見せてもらう権利がある。八年、誰も頼まなかっただけだ。


出てきた表には、規程のどこにも書かれていない項目が並んでいた。物腰。品位。威儀。


「これらは、どの条文に基づくものでしょうか」


答えられる人はいなかった。翌週、その三つが表から消えた。残ったのは、出席、成績、役目を果たしているか、規則を守っているか。この四つだけになった。


その金曜の夕方、侯爵令嬢の部屋を訪ね、母の形見をお返しくださいと言った。相手は顔を赤くして、忘れていたのだと言った。


忘れていたのだろう。わたくしが二年、言わなかったからだ。


翌日、箱に入って戻ってきた。留め具が一度折れて、直した跡があった。直したことは言われなかった。


その一週間で、わたくしを見る目が変わっていた。


うるさい女だ、という目だ。悪くない気分だった。八年ぶりに、わたくしは見られていた。


クレイス殿下がわたくしを呼び止めたのは、週が明けた月曜だ。


回廊の柱の陰から出てきて、正面に立った。背が高く、見下ろす形になる。殿下はいつもそうやって人と話す。


「目障りだ」


低い声だった。冷酷王子と呼ばれるのは、この声のせいだ。


八年前のわたくしなら、俯いて、申し訳ございませんと言っていた。そうすれば会話が終わるからだ。終わらせることが目的だった。


けれど、このときのわたくしは違った。


「では、どこが目障りかお聞かせください。直せるものなら直します。直せないものなら、目障りのままでおります」


殿下が黙った。


長い沈黙だった。窓から風が入って、殿下の前髪が動いた。


「……いや。すまない」


謝罪だった。冷酷王子が、公爵令嬢に、回廊で、謝った。


殿下自身も驚いていた。口を開けて、閉じて、足早に去っていった。


その日から、殿下は崩れはじめた。正確には、元から崩れていたものが、人目に出はじめた。


翌日の火曜、殿下が一年生を叱責した。中庭を走った生徒だ。殿下は冷たい声で、ここは走る場所ではない、と言った。


生徒は泣いた。


すると殿下は、少し間を置いてから、言った。


「……いまの、痛かったですか」


一年生が、え、という顔をした。


殿下は自分の言ったことに気づいて、もう一度黙り、それから「怪我は」と言い直した。転んだのかと聞いている形にしたかったのだと思う。無理があった。その生徒は転んでいない。


その週、わたくしはさらに三件出した。


水曜、殿下は生徒会で、会計の子爵令息に厳しく当たった。そのあと書類を返すとき、指が触れないように渡した。相手が怯えているのを分かっていたのだ。


金曜の朝、寮監への書面を持って回廊を歩いていたら、殿下とすれ違った。


「ほどほどにしろ」


冷たい声だった。わたくしが会釈だけして行き過ぎようとすると、背中に声が来た。


「……夜は、寝ているのか」


足が止まった。振り返ると、殿下も止まっていた。自分が何を言ったか分かっている顔だった。


「おかげさまで、よく眠れております」


そう答えると、殿下は一度うなずいて、行ってしまった。


うなずく必要はなかったはずだ。


週の終わりには、学院中が気づいていた。


「あの方、本当はお優しいのではないかしら」


茶会でミリア・ロウがそう言った。原作のヒロインだ。この学院のミリアは、遅刻が多いだけの人のいい娘だ。誰かから何かを奪うようにも、奪われるようにも見えない。八年も見ていれば分かる。


「それに殿下、ロゼリア様が書類をお出しになる日は、生徒会にいつもより早くいらっしゃるそうです」


わたくしの手の中で、茶器が小さく鳴った。


ミリアは自分が何を言ったか分かっていない顔で、菓子に手を伸ばしていた。誰も気づかなかった。気づかれなくてよかった。


誰かが同意した。別の誰かも同意した。侍従が、生徒会の書記が、寮監までが、殿下が優しかったという話を持ち寄るようになった。


茶会の帰りぎわ、ミリアがわたくしのところへ来た。


「あの、先日は。……先生、わたしにだけ甘くて、かえって居心地が悪かったので」


礼を言われるとは思わなかった。原作のロゼリアは、この子に同じことをして断罪されている。断罪したのは、この子と結ばれるはずだった殿下だ。


結ばれる気配は、いまのところない。


殿下は困っていた。


なぜ困るのかが分かったのは、翌週、図書室で殿下に会ったときだ。


殿下は窓際に立って、中庭を見ていた。わたくしが入ったのに気づいて、振り返らずに言った。


「やめてくれないか」


「何をでしょう」


「私に、まともに話しかけるのを」


わたくしは本を棚に戻した。


「お断りします」


殿下が振り返った。


「なぜだ」


「まともに話しかけられて困る方は、まともではないことをしている方だけです」


殿下が、笑いかけて、やめた。やめ方が下手だった。


「七件目は、まだ出していないな」


棚に手をかけたまま、次の動作を忘れた。


「……お読みに、なったのですか」


「全部読んだ。七件目が来ない週は、落ち着かない」


「……なぜ、わたくしの字だと」


「君はいつも下座に座る。八年、同じ席だ」


落ち着かない、と言ってから、殿下は自分の言葉を聞き直すような顔をした。いつもの一拍遅れだった。


殿下は上着の内側から紙を出した。わたくしの字だった。花の代金の件の、写しだ。


折り目が深かった。一度や二度、開いた折り方ではない。


「……お返しいただけますか」


「断る」


即答だった。断る理由は言わなかった。言えないのだと思う。


「三日、控えの間で待たせたそうだな」


父のことだった。


「私が知ったのは後だ。知っていれば、通した」


通してもらえたとしても、Nの家の当主が情けをかけられた、という話になるだけだ。そう言おうとして、やめた。言えば、この人がもう一度謝る。


殿下はしばらく窓の外を見ていた。それから、兄上のことを話しはじめた。


「兄上は、身体が弱い。公の場に出る日が、月に数えるほどしかない」


「存じております」


「兄上は……怒ったところを、私も見たことがない」


「兄上が優しいと、誰も怖がらない。王家に、怖い人間が一人もいなくなる」


「それで、殿下が」


「私がやると言った。十二のときだ」


初めて人を怒鳴った日、部屋に戻って吐いたのだという。それから七年、上手くならなかった。


十二。わたくしが善良をはじめたのが十で、殿下が冷酷をはじめたのが十二。二人とも、まだ子どもだった。


七年、殿下は冷酷をやってきた。わたくしが善良をやったのと、ほとんど同じ長さだ。


殿下はわたくしのひとつ上だ。冷酷になる前の殿下を、わたくしは一年だけ知っている。あのころも、名前は呼ばれなかったけれど。


「お上手ではありませんね」


「知っている」


「殿下。いまの、痛かったですか、は余計です」


「……あれは」


「一年生に痛かったですかと聞く冷酷王子は、前代未聞です」


「……あれは」


「毎晩、眠れておられますか」


殿下が黙った。棚に置いた手が、動かなくなった。


八年やってきたことを思い出していた。善良を演じても誰も助けてくれなかった。どころか、誰もわたくしを見なかった。


この人は、逆のことをして、同じ場所にいる。


殿下、と呼んだ。八年で初めて、こちらから呼んだ。


「なんだ」


「演技をやめなさい」


言ってから、王族に向ける言葉ではないと気づいた。取り消す気はなかった。


「やめたら、誰がやる」


即答だった。七年ぶん考えてきた人の答え方だ。


わたくしは少し考えて、それから言った。


「わたくしがやります」


殿下が、今度こそ本当にこちらを見た。


「悪役は、わたくしの役です。八年、手放しておりましたが、取り戻しました。殿下のぶんも引き受けますので、ご心配なく」


「……君は、それで構わないのか」


「わたくしは、怖い女で構いません。それが向いていますから」


向いている、と言い切るのに、八年かかった。


断罪も修道院も、八年ずっと怖かった。いまは怖くない。怖がらされていた理由が、こちらではなく向こうの都合だったと分かったからだ。


殿下は少しのあいだ黙って、それから「……そうか」と言った。


冷酷王子が出してはいけない種類の、安心した声だった。


それから、思い出したように言った。


「君の字は、四年前から変わらない」


棚に伸ばしかけた手が止まった。


「……議事録の、ですか」


「名前の欄が違うことも知っていた」


「なぜ、何も仰らなかったのです」


「言えば君の名が残る。残れば、書かせていた者が困る。君は、困らせたくなかったのだろう」


そのとおりだった。


八年、誰にも言い当てられなかったことを、名前も呼ばない人が言い当てた。


顔が熱いのが分かった。悪役令嬢の顔ではない。こういうときにどういう顔をすればいいのかを、わたくしは八年、誰にも教わっていなかった。


聞かなかったことにして、図書室を出た。廊下で一度立ち止まり、天井を見上げた。八年ぶんの何かが喉に詰まっていた。


名前を呼ばれなくても平気だと、八年思っていた。思っていたつもりだった、というほうが正しい。


泣くのは悪役令嬢らしくないので、やめておいた。


その週の生徒会で、殿下は下座に座った。


「殿下。そちらは下座でございます」


「知っている」


それだけ言って、書類を広げた。上座が空いたまま議事が進んだ。学院の歴史で初めてだったと思う。誰も何も言えなかった。


隣で、殿下はずっと真顔だった。真顔で、下座にいた。


わたくしは議事録を書いた。書いた者の名を記す欄に、初めて自分の名を書いた。


翌月の初め、中庭に評価簿が貼り出された。


わたくしの欄はNのままだった。八年と一か月、記載事項なし。


ただし今月は、欄の外に注記が付いていた。


※ 当月、本簿および学院規程に対する異議申立て七件。うち六件を受理。規程を改定、または是正。

※ 採点表より三項目を削除。過年度の議事録について、記名の訂正を四年分。


申立人の名は書かれていない。書かれていなくても、七件全部わたくしだと学院中が知っている。


四年分の議事録に、書いた者の名が入った。入れ替わりに名を抜かれた生徒会の書記は、その月のうちに役を降りた。予算の件で耳を赤くした会計の子爵令息も、同じ日に降りた。


わたくしは何も言っていない。規程のとおりにしただけだ。


受理されなかった一件は、寮監の門限の件だった。


来月も出す。八件目になる。


隣で、席を譲っていたあの子が注記を読んでいた。それから、一度だけ頭を下げて行った。


殿下の欄は、SからAに落ちていた。威儀に欠ける、と教師の欄に書いてある。


わたくしが規程どおりに直させた、あの採点表で付いた結果だ。威儀は規程にある。冷酷は規程にない。


この日のわたくしは、母の形見を着けていた。二年ぶりだ。殿下がそれに気づいたかどうかは分からない。


「あら。下がりましたのね」


隣に立っていた殿下は、評価簿を見たまま答えた。


「そうらしい」


「お気の毒に」


「ああ」


八年、この「ああ」を聞いてきた。同じ音のはずだった。


それから殿下は、少しだけ笑った。


口の端を上げるだけの、ひどく下手な笑い方だった。冷酷を演じる人間の笑い方でも、優しさを隠す人間の笑い方でもない。笑いたかったから笑った、という顔だった。


七年ぶりだったのかもしれない。


それから殿下は、折り畳んだ紙を差し出した。来月の議事の写しだった。三つ目に、ヴァルト領の名があった。


机には置かなかった。


受け取るとき、指が触れた。殿下は手を引かなかった。引かなかったことに気づいて、そのあとで引いた。


それから自分の手をしばらく見ていた。置き場所を間違えた人の顔だった。


「……ロゼリア」


八年と一か月、初めてだった。


返事をしようとして、声が出なかった。悪役令嬢らしくない。


「……はい」


ずいぶん間の抜けた返事になった。殿下は気づかないふりをした。いつもの一拍が、なかった。


その夜、部屋でひとり、自分の名前を声に出してみた。


八年ぶりに聞く音だった。思っていたより、悪くない音だった。


二度は言わなかった。二度言うのは、さすがに悪役令嬢らしくない。


三日後の秋の舞踏会の花は、前年と同じ業者のものだった。会場でそれを見て、父が、ほう、と言った。


その晩、父はまた普段どおりの顔をしていた。今度は、それでよかった。


わたくしの欄はNのままだ。褒めるところも罰するところもない、記載事項なしの令嬢。


けれど、そのNの令嬢の言葉で、規程と運用が六つ変わり、王子が演じなくてよくなって、名前を呼ばれた。


それがどういうことか、この学院の誰より、わたくしが知っている。

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