悪役令嬢と冷酷王子――わたくしが黙っていたから、あの人の冷酷は成立していました
わたくしの欄は、八年間ずっとNだった。
最下位という意味ではない。Nは、記載事項なしの略だ。褒めるところも罰するところもない生徒に付く。
月初めの朝、中庭に評価簿が貼り出される。その月のふるまいで、生徒に等級が付く。上からS、A、B、C。どれにも書くことがない者だけが、Nになる。家の格では決めないことになっている。王族も学生なので載る。第二王子殿下の欄は、八年ずっとSだった。
この等級に文句を言った生徒を、わたくしは八年見たことがない。
八年前、十歳のとき、わたくしは自分が誰なのかを思い出した。乙女ゲーム『銀糸の王冠』の悪役令嬢、ロゼリア・ヴァルト。ヒロインをいじめ、卒業の夜に断罪され、修道院へ送られる女。
卒業まで、あと半年ある。
学院に入った年だった。それからのわたくしは善良だった。
誰にも逆らわず、誰の悪口も言わず、頼まれた仕事は断らなかった。刺繍の会では下座に座り、茶会では話を合わせた。
母の形見の髪飾りを、貸してほしいと言われて貸した。返してほしいと言えないまま、二年が過ぎた。相手は侯爵家のご令嬢だ。
生徒会の議事録は四年書いた。書いた者の名を記す欄があると知ったのは、三年目だ。そこにはずっと、別の人の名が入っていた。
破滅を避けるにはそれしかないと思っていた。
八年やって、Nだった。
婚約者の第二王子クレイス・アルシェット殿下は、わたくしの名を一度も呼んだことがない。八年で一度もだ。顔を合わせれば「ああ」と言い、書類を渡すときは机に置く。手渡しではない。
先月、ヴァルト家の領地経営が立ち行かなくなった。父は王宮への口利きを頼みに出かけ、三日後に帰ってきた。
頼めなかった、と父は言った。頼む相手に会わせてもらえなかったのだ。三日、控えの間で待って、それだけだった。
父は着替えもせずに書斎へ入り、夕食に出てこなかった。翌朝には普段どおりの顔をしていた。その顔が、いちばんこたえた。
Nの家の当主は、そういう扱いになる。
善良でいれば助かるはずだった。
助からなかった。
その朝、わたくしは評価簿の前で振り返り、集まっていた十人ほどに向かって言った。
「わたくし、明日から悪役令嬢に戻ります」
誰も本気にしなかった。二人が笑い、残りは聞かなかったふりをした。ひとりだけ、心配そうな顔をした子がいた。わたくしがいつも席を譲っていた子だ。大丈夫ですか、と聞かれた。
大丈夫です、と答えた。八年ぶりに、それが本当だった。
悪役令嬢に戻る、というのが何を指すのか、たぶん誰も分かっていない。わたくしにも、その朝まで分かっていなかった。
思い出したのは、原作の断罪の場面だ。
ロゼリアはそこで、ヒロインの遅刻と欠席の回数を挙げる。生徒会の予算の使途を問う。教師が特定の生徒だけ再試験を許した件を指摘する。
それが「いじめ」とされていた。
思い返してみれば、誰でも気づく。あの女が言っていたのは、全部、規則の話だ。
学院の規程集の、いちばん後ろに書いてある。採点がおかしいと思ったら、生徒は文書で異議を申し立てられる。採点する側が規則をどう使っているかについても、同じように申し立てられる。
翌日から、わたくしは発言した。
まず、採点する側から行くことにした。生徒会と、教師と、寮監。八年わたくしをNにつけてきた三者だ。
火曜の生徒会で、秋の舞踏会の花の代金を尋ねた。予算に書かれた額が、前年の四倍になっていた。
「業者を替えましたので」
会計の子爵令息はそう答えた。耳が赤かった。
「その見積書を、見せていただけますか」
「……手元にございません」
「では、お持ちいただける日を伺えますか。議事録に残しますので」
議事録を四年書いてきたのはわたくしだ。どう書けば消せなくなるかを知っている。
議事録に残した分を、そのまま申立書に写した。三日後、花の業者は元に戻った。
水曜、教師に聞いた。男爵令嬢ミリア・ロウの遅刻を、三度続けて見逃していたからだ。
「あの子は事情がありますから」
「事情のある生徒は、第九条で届け出ることになっております。あの子の届けは、出ておりますか」
出ていなかった。
「出させてさしあげてください。そうすれば、見逃す必要がなくなります」
教師は何か言いかけて、やめた。わたくしを叱る言葉を探して、見つからなかったのだと思う。
木曜、寮監が上級貴族の門限だけ緩めている件を、書面で問い合わせた。
「慣例です」
そう返ってきたので、慣例は規程ではありませんと書いて出し直した。そこで止まった。止まったことも、一件として数えた。
金曜、評価簿の採点表を見せてほしいと願い出た。生徒には見せてもらう権利がある。八年、誰も頼まなかっただけだ。
出てきた表には、規程のどこにも書かれていない項目が並んでいた。物腰。品位。威儀。
「これらは、どの条文に基づくものでしょうか」
答えられる人はいなかった。翌週、その三つが表から消えた。残ったのは、出席、成績、役目を果たしているか、規則を守っているか。この四つだけになった。
その金曜の夕方、侯爵令嬢の部屋を訪ね、母の形見をお返しくださいと言った。相手は顔を赤くして、忘れていたのだと言った。
忘れていたのだろう。わたくしが二年、言わなかったからだ。
翌日、箱に入って戻ってきた。留め具が一度折れて、直した跡があった。直したことは言われなかった。
その一週間で、わたくしを見る目が変わっていた。
うるさい女だ、という目だ。悪くない気分だった。八年ぶりに、わたくしは見られていた。
クレイス殿下がわたくしを呼び止めたのは、週が明けた月曜だ。
回廊の柱の陰から出てきて、正面に立った。背が高く、見下ろす形になる。殿下はいつもそうやって人と話す。
「目障りだ」
低い声だった。冷酷王子と呼ばれるのは、この声のせいだ。
八年前のわたくしなら、俯いて、申し訳ございませんと言っていた。そうすれば会話が終わるからだ。終わらせることが目的だった。
けれど、このときのわたくしは違った。
「では、どこが目障りかお聞かせください。直せるものなら直します。直せないものなら、目障りのままでおります」
殿下が黙った。
長い沈黙だった。窓から風が入って、殿下の前髪が動いた。
「……いや。すまない」
謝罪だった。冷酷王子が、公爵令嬢に、回廊で、謝った。
殿下自身も驚いていた。口を開けて、閉じて、足早に去っていった。
その日から、殿下は崩れはじめた。正確には、元から崩れていたものが、人目に出はじめた。
翌日の火曜、殿下が一年生を叱責した。中庭を走った生徒だ。殿下は冷たい声で、ここは走る場所ではない、と言った。
生徒は泣いた。
すると殿下は、少し間を置いてから、言った。
「……いまの、痛かったですか」
一年生が、え、という顔をした。
殿下は自分の言ったことに気づいて、もう一度黙り、それから「怪我は」と言い直した。転んだのかと聞いている形にしたかったのだと思う。無理があった。その生徒は転んでいない。
その週、わたくしはさらに三件出した。
水曜、殿下は生徒会で、会計の子爵令息に厳しく当たった。そのあと書類を返すとき、指が触れないように渡した。相手が怯えているのを分かっていたのだ。
金曜の朝、寮監への書面を持って回廊を歩いていたら、殿下とすれ違った。
「ほどほどにしろ」
冷たい声だった。わたくしが会釈だけして行き過ぎようとすると、背中に声が来た。
「……夜は、寝ているのか」
足が止まった。振り返ると、殿下も止まっていた。自分が何を言ったか分かっている顔だった。
「おかげさまで、よく眠れております」
そう答えると、殿下は一度うなずいて、行ってしまった。
うなずく必要はなかったはずだ。
週の終わりには、学院中が気づいていた。
「あの方、本当はお優しいのではないかしら」
茶会でミリア・ロウがそう言った。原作のヒロインだ。この学院のミリアは、遅刻が多いだけの人のいい娘だ。誰かから何かを奪うようにも、奪われるようにも見えない。八年も見ていれば分かる。
「それに殿下、ロゼリア様が書類をお出しになる日は、生徒会にいつもより早くいらっしゃるそうです」
わたくしの手の中で、茶器が小さく鳴った。
ミリアは自分が何を言ったか分かっていない顔で、菓子に手を伸ばしていた。誰も気づかなかった。気づかれなくてよかった。
誰かが同意した。別の誰かも同意した。侍従が、生徒会の書記が、寮監までが、殿下が優しかったという話を持ち寄るようになった。
茶会の帰りぎわ、ミリアがわたくしのところへ来た。
「あの、先日は。……先生、わたしにだけ甘くて、かえって居心地が悪かったので」
礼を言われるとは思わなかった。原作のロゼリアは、この子に同じことをして断罪されている。断罪したのは、この子と結ばれるはずだった殿下だ。
結ばれる気配は、いまのところない。
殿下は困っていた。
なぜ困るのかが分かったのは、翌週、図書室で殿下に会ったときだ。
殿下は窓際に立って、中庭を見ていた。わたくしが入ったのに気づいて、振り返らずに言った。
「やめてくれないか」
「何をでしょう」
「私に、まともに話しかけるのを」
わたくしは本を棚に戻した。
「お断りします」
殿下が振り返った。
「なぜだ」
「まともに話しかけられて困る方は、まともではないことをしている方だけです」
殿下が、笑いかけて、やめた。やめ方が下手だった。
「七件目は、まだ出していないな」
棚に手をかけたまま、次の動作を忘れた。
「……お読みに、なったのですか」
「全部読んだ。七件目が来ない週は、落ち着かない」
「……なぜ、わたくしの字だと」
「君はいつも下座に座る。八年、同じ席だ」
落ち着かない、と言ってから、殿下は自分の言葉を聞き直すような顔をした。いつもの一拍遅れだった。
殿下は上着の内側から紙を出した。わたくしの字だった。花の代金の件の、写しだ。
折り目が深かった。一度や二度、開いた折り方ではない。
「……お返しいただけますか」
「断る」
即答だった。断る理由は言わなかった。言えないのだと思う。
「三日、控えの間で待たせたそうだな」
父のことだった。
「私が知ったのは後だ。知っていれば、通した」
通してもらえたとしても、Nの家の当主が情けをかけられた、という話になるだけだ。そう言おうとして、やめた。言えば、この人がもう一度謝る。
殿下はしばらく窓の外を見ていた。それから、兄上のことを話しはじめた。
「兄上は、身体が弱い。公の場に出る日が、月に数えるほどしかない」
「存じております」
「兄上は……怒ったところを、私も見たことがない」
「兄上が優しいと、誰も怖がらない。王家に、怖い人間が一人もいなくなる」
「それで、殿下が」
「私がやると言った。十二のときだ」
初めて人を怒鳴った日、部屋に戻って吐いたのだという。それから七年、上手くならなかった。
十二。わたくしが善良をはじめたのが十で、殿下が冷酷をはじめたのが十二。二人とも、まだ子どもだった。
七年、殿下は冷酷をやってきた。わたくしが善良をやったのと、ほとんど同じ長さだ。
殿下はわたくしのひとつ上だ。冷酷になる前の殿下を、わたくしは一年だけ知っている。あのころも、名前は呼ばれなかったけれど。
「お上手ではありませんね」
「知っている」
「殿下。いまの、痛かったですか、は余計です」
「……あれは」
「一年生に痛かったですかと聞く冷酷王子は、前代未聞です」
「……あれは」
「毎晩、眠れておられますか」
殿下が黙った。棚に置いた手が、動かなくなった。
八年やってきたことを思い出していた。善良を演じても誰も助けてくれなかった。どころか、誰もわたくしを見なかった。
この人は、逆のことをして、同じ場所にいる。
殿下、と呼んだ。八年で初めて、こちらから呼んだ。
「なんだ」
「演技をやめなさい」
言ってから、王族に向ける言葉ではないと気づいた。取り消す気はなかった。
「やめたら、誰がやる」
即答だった。七年ぶん考えてきた人の答え方だ。
わたくしは少し考えて、それから言った。
「わたくしがやります」
殿下が、今度こそ本当にこちらを見た。
「悪役は、わたくしの役です。八年、手放しておりましたが、取り戻しました。殿下のぶんも引き受けますので、ご心配なく」
「……君は、それで構わないのか」
「わたくしは、怖い女で構いません。それが向いていますから」
向いている、と言い切るのに、八年かかった。
断罪も修道院も、八年ずっと怖かった。いまは怖くない。怖がらされていた理由が、こちらではなく向こうの都合だったと分かったからだ。
殿下は少しのあいだ黙って、それから「……そうか」と言った。
冷酷王子が出してはいけない種類の、安心した声だった。
それから、思い出したように言った。
「君の字は、四年前から変わらない」
棚に伸ばしかけた手が止まった。
「……議事録の、ですか」
「名前の欄が違うことも知っていた」
「なぜ、何も仰らなかったのです」
「言えば君の名が残る。残れば、書かせていた者が困る。君は、困らせたくなかったのだろう」
そのとおりだった。
八年、誰にも言い当てられなかったことを、名前も呼ばない人が言い当てた。
顔が熱いのが分かった。悪役令嬢の顔ではない。こういうときにどういう顔をすればいいのかを、わたくしは八年、誰にも教わっていなかった。
聞かなかったことにして、図書室を出た。廊下で一度立ち止まり、天井を見上げた。八年ぶんの何かが喉に詰まっていた。
名前を呼ばれなくても平気だと、八年思っていた。思っていたつもりだった、というほうが正しい。
泣くのは悪役令嬢らしくないので、やめておいた。
その週の生徒会で、殿下は下座に座った。
「殿下。そちらは下座でございます」
「知っている」
それだけ言って、書類を広げた。上座が空いたまま議事が進んだ。学院の歴史で初めてだったと思う。誰も何も言えなかった。
隣で、殿下はずっと真顔だった。真顔で、下座にいた。
わたくしは議事録を書いた。書いた者の名を記す欄に、初めて自分の名を書いた。
翌月の初め、中庭に評価簿が貼り出された。
わたくしの欄はNのままだった。八年と一か月、記載事項なし。
ただし今月は、欄の外に注記が付いていた。
※ 当月、本簿および学院規程に対する異議申立て七件。うち六件を受理。規程を改定、または是正。
※ 採点表より三項目を削除。過年度の議事録について、記名の訂正を四年分。
申立人の名は書かれていない。書かれていなくても、七件全部わたくしだと学院中が知っている。
四年分の議事録に、書いた者の名が入った。入れ替わりに名を抜かれた生徒会の書記は、その月のうちに役を降りた。予算の件で耳を赤くした会計の子爵令息も、同じ日に降りた。
わたくしは何も言っていない。規程のとおりにしただけだ。
受理されなかった一件は、寮監の門限の件だった。
来月も出す。八件目になる。
隣で、席を譲っていたあの子が注記を読んでいた。それから、一度だけ頭を下げて行った。
殿下の欄は、SからAに落ちていた。威儀に欠ける、と教師の欄に書いてある。
わたくしが規程どおりに直させた、あの採点表で付いた結果だ。威儀は規程にある。冷酷は規程にない。
この日のわたくしは、母の形見を着けていた。二年ぶりだ。殿下がそれに気づいたかどうかは分からない。
「あら。下がりましたのね」
隣に立っていた殿下は、評価簿を見たまま答えた。
「そうらしい」
「お気の毒に」
「ああ」
八年、この「ああ」を聞いてきた。同じ音のはずだった。
それから殿下は、少しだけ笑った。
口の端を上げるだけの、ひどく下手な笑い方だった。冷酷を演じる人間の笑い方でも、優しさを隠す人間の笑い方でもない。笑いたかったから笑った、という顔だった。
七年ぶりだったのかもしれない。
それから殿下は、折り畳んだ紙を差し出した。来月の議事の写しだった。三つ目に、ヴァルト領の名があった。
机には置かなかった。
受け取るとき、指が触れた。殿下は手を引かなかった。引かなかったことに気づいて、そのあとで引いた。
それから自分の手をしばらく見ていた。置き場所を間違えた人の顔だった。
「……ロゼリア」
八年と一か月、初めてだった。
返事をしようとして、声が出なかった。悪役令嬢らしくない。
「……はい」
ずいぶん間の抜けた返事になった。殿下は気づかないふりをした。いつもの一拍が、なかった。
その夜、部屋でひとり、自分の名前を声に出してみた。
八年ぶりに聞く音だった。思っていたより、悪くない音だった。
二度は言わなかった。二度言うのは、さすがに悪役令嬢らしくない。
三日後の秋の舞踏会の花は、前年と同じ業者のものだった。会場でそれを見て、父が、ほう、と言った。
その晩、父はまた普段どおりの顔をしていた。今度は、それでよかった。
わたくしの欄はNのままだ。褒めるところも罰するところもない、記載事項なしの令嬢。
けれど、そのNの令嬢の言葉で、規程と運用が六つ変わり、王子が演じなくてよくなって、名前を呼ばれた。
それがどういうことか、この学院の誰より、わたくしが知っている。
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