第八話「莫大な思念が蔓延る都市街で彼は、」
天井についた縦長の蛍光灯が弱々しく冷たい通路を照らしていた。
蛍光灯からポツポツと水滴が滴り落ちて、コンクリートの床を響かせている。
律動的なそのリズムは、時の流れを編み出していた。
その緩やかな時に体をのせて、ゆっくりと長い廊下を進んでいる。
もう先が見えないなんてことはない。いくべき場所は見つかった。
ガソリン臭は至る所から這い出ていた。
コツコツと鳴り響く足音は徐々に速くなる。
窓も何もない冷たい通路は俺だけを包んでいた。
右手のひらには力が入り、爪が皮膚を落とし込んでいた。
嫌な予感を感じる…
…何か、不穏な空気…何かが起きる…
変化のない部屋から出たというのは、どんな変化も受け入れる準備ができたということ。
…ザワザワとした…胸の感触は、あの時と同じ…必死に手を伸ばす…
そこに何かがあるわけでもない…でも…そうしないと、あの時のように…
冷たい廊下の壁面。数センチほどの小さい穴からシュシュと何かが駆けていく音が聞こえた。
…硬い…針が…飛び出した。
シュカンと白銀に光るその針が、突き出した右腕を容易く貫く。
驚きのあまり針の突き刺さった右腕を下にしてうつ伏せに倒れかかった。
グザァと貫通した針が胸板に沈み込む。
筋肉が肥大して硬直した。体は自由が効かなくない。
声帯を動かすこともできない。ただ冷たい液が首元から発汗していた。
ジリジリと勝手に震える指。赤黒い血液が胸板と手の甲から滲み出ていた。
燃えるように発火していた体は次第に冷めていく。まるでコンクリートの床に命を吸われていくようだった。
…誰が、こんな…何が、したい…
…殺すなら…なぜ…俺に接触した…
その声にならない魂の叫びは静謐な通路を漂った後、結局この鼓膜に帰ってきた。
遥か後方で蛍光灯から滴り落ちる水滴のリズムは時の流れをやはり示している。
ガソリン臭は鳴りを潜めていた。
氷のように冷たくなった体。視界は白い靄がかかり、最後を匂わせた。
意識の中で、あの日の母と妹が見えた。
死にゆく母に泣き縋る妹。
…妹は、どこに…いるんだよ…
…助けて…くれないか…ユイ…
死んだ人間が死にゆくことはない…死んだ灰色の都市街で、彼はまた目を覚ますだろう。
冷たい廊下に青白い体は横たわっていた。
そこに生命の残骸などない。ただ銀杏の香りが漂っていた。