第七話「白馬の王子様は死んだ世界の住人にタズねられる」
開かれた扉の先に広がるは、廊下と同じ先の見えない深淵。
そんな暗がりから呼吸音の混じった忙しい声が飛んできた。
「…よお。」
囁かれた肉声に俺の背中はゾワリと疼いた。まるで対等に話す旧友への掛け声のよう。
闇の奥から銀杏のスンとした香りが鼻腔をくすぐる。
呟かれた軽い問いかけに、掠れた唇を動かして返答した。
「お前が…裏切り…者か。」
手のひらは汗で蒸れ、両足はガクガクと揺れていた。
この決定的な問いが確実に起点になるだろうと信じて。
真意の籠った重量感ある問いに、深淵はひとまず微笑で応えた。一拍の静けさを空けて、そいつは再度答える。
「あぁ。お前も…再起動…できたみたいだな。」
その笑みを含んだ返答に、腕がびくりと反応した。
手のひらは蒸れに蒸れて、汗が滴り落ちている。
ポタポタと床に沈み込む水滴は静謐な空間をより強調していた。
深淵の奥にいる裏切り者も、振り返った先に広がる廊下の闇も、全てが埋めいて振動していた。
視界は確かに真っ暗で暗闇しか映していない。けれど、うずめく影は感じ取れた。
「…何故、だ。」
独白なのか質問なのかすら知り得ない不安定な返しに、深淵は黙った。
その様子は人間じみていて、同時に興味がわく。こいつは、何者だ、と。
「何故…か…それは、罪悪感から、かもしれない。」
薄っぺらい言葉だけの返答に汗ばんだ手のひらは、ぐわんと力みを失う。
銀杏のスンとした香りは消えることなく漂い続けていた。ガソリンの臭気はかき消され、蛇口から滴り落ちていたであろう水滴の音も耳に届くことはない。
深淵の奥からモータの駆動音が聞こえるのみ。
あの時と同じだった。
ツンとした銀杏の香りがガソリン臭を追い出していた。
外界からの要素に侵食された静謐な空間は、今や原型をとどめていない。
変化を望んだのに、変化が気持ち悪かった。
その嘆きが俺の理性を奪う。再び力んだ右手が虚空を掠め取った。
ただ、目の前に佇んで笑みを浮かべる裏切り者への最大限の威嚇。
ズンと空をきったその腕は深淵の奥へと入り込む。
モーターの駆動音が一瞬大きくなったかと思うと、歪んだ空間に腕が引き寄せられた。
両足は前方に踏み込み、腕は突き出していた。
けれどその腕が掴む者は何もない。ただ虚ろを握りしめているだけだった。
「お前は、殺したのか…俺の…家族を。」
その問いに答える者はいない。スタタタと硬い床をかけていく足音だけが音として響く。
銀杏のツンとした匂いは消え失せ、裏切り者は消え去っていた。
深淵に侵食されていた空間は、その支配から解き放たれて、徐々に原型を取り戻し始めている。
だんだんと扉の先の暗がりは光を取り戻していた。
コンクリートづくりの冷たい通路が見えた。縦長の蛍光灯が天井に設置されて弱々しく発光している。
そこに深淵はもういなかった。
ガソリンのツンとした臭いが再び漂い始める。蛍光灯から滴り落ちる水滴の音は静寂を強調しているよう。
ここは原型を模倣した空間のようだった。
一度消失した世界は同じように模倣しても偽物の世界に過ぎない。だから違和感を感じるし、不快感を感じる。
確かな感覚が決心させた。変化のない世界を出ていく時が来たのだと。
つんのめっていた体制を戻した。扉の敷居を超えて、外の世界に足を踏み出す。
じわりと水たまりに沈み込む右足。
ガソリン臭を乗せた生ぬるい風を受けながら疑念を吐き出した。
「お前は、また…逃げた…俺の問いに…答えないのは、何故…だ。」
その疑念に応えるべき存在はすでにいない。
しかし、それ自体が問いの答えであるのは明白だった。
薄暗い蛍光灯の灯りを受けながら、肩を回して思いを吐いた。
「愚者じゃない…支配側だから…応えなくて良かった…銀杏の香水を浴びた王子様よぉ。」